松山藩(出羽国)(読み)まつやまはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松山藩(出羽国)」の意味・わかりやすい解説

松山藩(出羽国)
まつやまはん

出羽(でわ)国の飽海(あくみ)郡中山村(のち松山と改称、山形県酒田(さかた)市)に藩庁を置いた譜代(ふだい)藩。1647年(正保4)、庄内(しょうない)藩主酒井忠当(ただまさ)の弟忠恒(ただつね)が、庄内藩領の村山、飽海、田川3郡の新田をあわせて2万石を分与されて立藩した。忠恒のあと、忠予(ただやす)、忠休(ただよし)、忠崇(ただたか)、忠礼(ただのり)、忠方(ただみち)、忠良(ただよし)、忠匡(ただまさ)と続いて明治維新に至った。当酒井家は、藩主が幕府の奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行(ぶぎょう)、若年寄(わかどしより)などの要職に就くことがあり、在府経費がかさんで財政難に陥るほどであった。1779年(安永8)忠休は若年寄の功労により、上野(こうずけ)国(群馬県)山田・勢多(せた)郡内に5000石を加増され、城主に列せられた。戊辰(ぼしん)戦争では、庄内藩と行動をともにしたため1868年(明治1)2500石に減封され、翌69年、松嶺(まつみね)藩と改称した。松嶺県、鶴岡県、酒田県を経て山形県に入る。

[長谷川成一]

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