社務をつかさどる大宮司は、養和元年(一一八一)以降平章妙・頼妙・盛妙・有妙・経妙と五代にわたって平姓の者が相伝しており(前掲平経妙申状案)、平氏と縁が深かったと考えられる。承久の乱の際には大宮司平章妙が関東方を呪詛したとして、賀来惟綱が幕府に訴えるという事件も起きている(関東下知状案)。このように鎌倉期においては、当宮と幕府の関係は必ずしもよいものではない。文永の役に際し、文永一一年(一二七四)当宮では異国調伏のため臨時の勤行が行われ、大般若経・仁王講・法華経・最勝王経・観音経などの読誦や転読が行われた。このとき宝殿より鳩が二羽飛び出して西をさして飛び去り、これを「異国征罰」の徴と記録している(正慶元年正月一一日賀来社年中行事次第)。守護大友氏は三代頼泰のとき、一族とともに豊後に下向したが、鎌倉期には大友氏の当宮に対する積極的な保護や、崇敬の態度はみられない。嘉暦二年(一三二七)には地頭や甲乙人が免田を横領しており、それと並んで塩浜を守護が押領している(八月一五日賀来社宮主職給免田畠屋敷等注文案)。社殿の造替は賀来庄を料所として三三年に一度行われるが、正応・元亨(一三二一―二四)の二度の造替は、料所が狭いうえ役人の緩怠により延引されたため、社殿の棟梁は朽ち損じ、神体を雨露が浸して転倒を待つのみの状況であった。さらに
鎌倉時代末期には国衙機構を掌握していた大友氏は、南北朝期に入ると当宮を氏神化する傾向がみられる。
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大分市上八幡に鎮座。仲哀天皇,応神天皇,神功皇后をまつる。古くは豊後一宮と称された旧国幣小社。古文書には由原社,賀来(かく)社,八幡大菩薩由原宮などともみられる。〈由原八幡縁起〉と1289年(正応2)の〈大宮司経妙申状案〉は,827年(天長4)5月,延暦寺の金亀和尚が宇佐八幡に千日の参籠をし,830年3月に示現を蒙り,同年7月に創祀したという。836年(承和3)に右大臣清原夏野が勅を奉じ豊後国司大江宇久に宝殿を造営させた。鎌倉期には神領246町歩,祠官213人の名前がみられる。金亀の跡職を宮師と称し,明治維新後に47代の豪諶が帰俗,同宮祠官となったが,古くは僧侶と祠官が仕える宮寺形式の神宮だった。南北朝期以降は守護大友氏やその武将の崇敬を受け,戦国期に一時衰退したが,江戸期には府内藩主の崇敬をうけた。大祭は9月の賀来社神幸祭と浜ノ市(放生会祭)。
執筆者:佐藤 満洋
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「いすはら~」ともいう。大分市大字八幡に鎮座。仲哀(ちゅうあい)天皇、応神(おうじん)天皇、神功(じんぐう)皇后を祀(まつ)る。827年(天長4)延暦(えんりゃく)寺の僧が柞原山(いすはらやま)に八幡大神の示顕を感得、836年(承和3)社殿を創建したと伝える。宇佐(うさ)神宮の第二御分霊地(ごぶんれいち)として朝野の尊崇厚く、豊後(ぶんご)(大分県)の国府に近いことから歴代国司もよく崇敬し、豊後一宮(いちのみや)と称せられた。旧国幣小社。例祭日は3月15日で、初卯(はつう)祭ともいう。9月中旬の仲秋祭には放生会(ほうじょうえ)の神事がある。社殿は朱塗りで彫刻も多く、東九州の日光と称する。社蔵の金銅仏、太刀(たち)などは国の重要文化財。南大門周辺の樟(くす)は天然記念物に指定される。『由原(ゆすはら)八幡宮縁起』二巻は1622年(元和8)に寄進された。
[二宮正彦]
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