日本歴史地名大系 「正八幡神社」の解説 正八幡神社しようはちまんじんじや 兵庫県:姫路市旧神崎郡地区宮脇村正八幡神社[現在地名]姫路市船津町市(いち)川左岸の川岸近くに鎮座する。祭神は応神天皇・比大神・神功皇后。旧県社。天平一七年(七四五)播磨国司が豊前宇佐宮の分霊を勧請したとも、貞観一八年(八七六)山城石清水(いわしみず)八幡宮から勧請したとも伝える。鎌倉時代初期の作とされる男神像一体(応神天皇)・女神像二体(神功皇后・比大神)や木造鬼面一面、室町時代作の木造狛犬一体、正和三年(一三一四)銘の軒瓦がある。鎌倉時代に入って三神像を祀る八幡神社となり、神宮寺をもち追儺式を行っていたことが軒瓦や鬼面からうかがえる。 正八幡神社しようはちまんじんじや 福岡県:行橋市草野村正八幡神社[現在地名]行橋市行事七丁目長峡(ながお)川の左岸、小波瀬(おばせ)川右岸との中間付近にある。祭神は誉田別命・比大神・気長足姫命。旧郷社。「京都郡誌」によれば、貞観元年(八五九)宇佐神を山城国男山(おとこやま)へ勧請した時、神輿が一宿した跡地に宇佐八幡三神を勧請して社殿を建立し八幡正宮と称し、草野(くさの)・行事(ぎようじ)・長音寺(ちようおんじ)・大橋(おおはし)・宮市(みやいち)と小部野(こべの)(大橋村の枝郷)の六村の産土神とした。社僧がいた神宮寺・光養寺・東光(とうこう)寺の三ヵ寺は応永年中(一三九四―一四二八)兵火にかかり焼亡。寛永一〇年(一六三三)九月大橋村に分社され(現大橋の正八幡宮)、以後は草野・行事・長音寺三村の産土神となったという。寛文九年(一六六九)四月社殿造営の棟札が残る。 正八幡神社しようはちまんじんじや 徳島県:阿南市吉井村正八幡神社[現在地名]阿南市吉井町 宮の前那賀(なか)川の中流右岸にある。祭神は誉田別命・息長帯姫命・比神。旧村社。創建年代は不明であるが、弘仁二年(八一一)山城国男山(おとこやま)八幡宮の分霊を奉斎したと伝える。中世には武家の尊崇が厚く、社殿・領地等を寄進されたという。現在那賀川対岸の楠根(くすね)町にも正八幡神社が祀られているが、当社はかつては吉井・楠根両村の産土神で、のち楠根に当社の分霊を祀ったといわれる。特殊神事として秋の例祭の宵に行われる御刷毛の神事がある。鳥居の両側に本当屋と副当屋が、長さ一〇メートルほどの青竹をくくりつけ、その先に藁を束ねて御幣と榊を立てる。 正八幡神社しようはちまんじんじや 愛媛県:松山市北西海岸地域(旧和気郡地区)福角村正八幡神社[現在地名]松山市福角町 北辻祭神は誉田別天皇・足仲彦天皇・気長足姫命。旧村社。社伝によると、延久五年(一〇七三)に石清水(いわしみず)八幡を堀江(ほりえ)村花見山(はなみやま)城に勧請し、河野氏が祭祀をつかさどった。正平二三年(一三六八)に河野通尭が伊予の旧領を回復した時、葛籠屑(つづらくず)城主村上吉高に命じ、神社を現在地の八幡山に移し、その跡へ城郭を構築させた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by