江戸中期,1709年(宝永6)から15年(正徳5)まで7年にわたる6代将軍徳川家宣,7代家継の治世の通称。家宣は幕府内外からの期待をうけて将軍となり,生類憐みの令の廃止を手始めに前代の弊政の改廃につとめ,側用人間部詮房(まなべあきふさ),侍講新井白石がこれを補佐した。家宣は前将軍綱吉同様儒学を信奉し,新井白石の助言も加わって,その施策の基調に儒学の色調が濃く,また政治は将軍と側近に主導され,閣老の発言力が弱かったことも前代同様である。しかし同じく儒教色の濃い施政といっても,前代の場合,生類憐みの令に極端に表れているように,刑罰の威嚇を伴って道徳を強制したという感が強いのに対し,家宣の場合,とくに白石の意見も強く反映して,まず為政者自身が道徳的立場から反省と率先実行をすべきであるとの態度が読み取れる。例えば1711年越後国の百姓一揆の処分について,民の父母としての気持をもって訴えを聴くべしという白石の意見を家宣は採用し,温容な役人を選んで百姓の要求を受理させたことなど,人民への仁政に努める姿勢の表れといえよう。公家風の儀礼の移入にしても,白石の主観においては究極の理想とする礼楽の振興を幕府が率先実践しようとしたものであったが,実施の跡を幕政上に位置づければ,枝葉の改変にすぎなかった。
実質的な施策は,家宣の治世が3年余であったので件数は乏しいが,12年勘定吟味役を復活したことは,財政・統治機構の整備強化の面で享保改革の前駆をなす。これと関連して,白石の強い糾弾でようやく家宣も認めた勘定方の独裁者荻原重秀の奉行免職は,従来重秀への評価が白石の《折たく柴の記》の記事に影響されてもっぱら重秀の善悪能否の問題に限られており,今後より客観的な評価を必要とするが,ともかくひとつの政策的転機であった。重秀は家宣の将軍就任直後,財政難解決のため通貨改鋳を提案し,白石の反対により拒否されたが,独断で悪鋳を繰り返した。その回復は家宣の生前には実現しなかったが,貨幣の品質を家康の昔に復旧すべしという遺言は,白石の改貨への努力に絶大の支柱となった。12年家宣死後も,間部詮房と新井白石は幼将軍家継を擁して幕政推進の中心に立った。そうして家宣の遺言の権威を背景に通貨改良に努力し,14年に慶長金銀と同質の正徳金銀の発行を実現した。これには勘定吟味役に登用された萩原美雅(よしまさ)の協力と,堺の商人谷長右衛門の助言があずかって大きかった。しかし悪貨の改良統一は漸進策をとらざるをえず,かえって通貨を1種類増加させる結果となった。これは政策を促進する政治力を詮房,白石らが欠いていたことと,通貨の急速な変化による経済界の混乱を回避しようという上方商人の利害が反映したためと考えてよかろう。
翌15年には長崎貿易に関する海舶互市新例(正徳新令)を発布した。これも家宣以来の懸案で,貿易制限によっておびただしい金銀銅の海外流出を防ぐとともに,密貿易や海賊行為を取り締まり,長崎市民の貿易減退による窮乏を救済しようと意図したもので,主内容は,貿易額の制限のほか,来航船をオランダ年2艘,中国30艘に限り,長崎市民へは貿易利金として定額金7万両を給し,貿易商人へは輸出品買入前金を貸し付けるというものであった。この貿易制限の背後には,主要輸入品であった生糸,絹織物や薬草類の国産化の奨励に幕府が着手したことが見のがせない。やがて日本の対外貿易の性格と内容が転換してゆく方向を示唆する改革であった。また評定所を中心とする司法面の運営改善への努力も,享保改革へ連なる重視すべき業績であった。《折たく柴の記》下巻は,このころの評定所や奉行所の機能の弛緩・腐敗を示す事例に記事の過半をさいている。審理の遅滞,判決の不公正ははなはだしく,白石は将軍や詮房を通じて知りうる限り,その是正に尽力しているが,その奮闘にも限度があった。
家宣の死後,詮房,白石に対する譜代勢力の反感がしだいに表面化し,2人は幕府内で孤立していった。譜代の代表者たる老中たちは白石の意見に何かと難点を指摘して,採用しないようになった。評定所の審理についても,奉行たちはなるべく事件を詮房の耳に入れぬよう取り計らったという。家宣時代には官学としての伝統的権威を無視されがちであった大学頭林信篤も,反白石の策動をあらわにした。白石の財政面での協力者萩原美雅も,1716年(享保1)二丸留守居という閑職に左遷された。上層部のこのような対立は幕政を停滞させ,腐敗した空気を内外にみなぎらせた。こういう情勢の中で,同年4月30日7代将軍家継が死去し,代わって紀州藩主徳川吉宗が8代将軍として迎えられ,詮房,白石はともに幕政中枢から失脚した。
執筆者:辻 達也
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6代将軍徳川家宣(いえのぶ)(在位1709~12)、7代将軍家継(いえつぐ)(在位1713~16)2代の善政をいう。おもに正徳(しょうとく)年間(1711~16)にあたるためこの称がある。
家宣の代に側用人(そばようにん)間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石(あらいはくせき)とが将軍を助けて、内政面ではまず5代綱吉(つなよし)のときの生類憐(しょうるいあわれ)みの令を撤廃し、大赦令(たいしゃれい)で多数の罪人を許し、元禄(げんろく)年間(1688~1704)に改悪された金銀貨を家康時代の良貨に戻そうとし、裁判の公正と迅速とを期するため評定所(ひょうじょうしょ)(最高裁判所にあたる)の改革を行い、農民の騒ぎや一般庶民関係の裁判では名判決を下してその苦しみを救うなど、「仁政」(儒教の政治思想)を実現することに努めた。金銀貨改良で幕府が赤字を出したのも幕府政治に対する国民の信用を取り戻すためであった。また朝廷と幕府の共栄を図るため皇子皇女出家の廃止を進言したことがきっかけとなって閑院宮家(かんいんのみやけ)が生まれ、皇位継承が順調に運んだ事実もある。対外策としては長崎貿易制限と朝鮮使節の待遇変更とがあるが、前者では輸出入の均衡による国力の保持と金銀の海外流出防止とを図り、積極的に国産品増加をも企てたのであり、後者では日朝外交の形式の是正とあわせて、経費の大幅節約および諸大名や使節通行の沿道の民の負担軽減をも図ったのである。これらの政策は白石の立案し建議したもので、改貨、貿易制限、評定所改革など家宣の代に発足して家継の代に完成した事業が多い。そしてこれらは8代将軍吉宗(よしむね)にも受け継がれた。ただし日朝外交の体例は5代将軍のときのものが復活され、改貨事業も20年後には変更されて元禄期の方針に戻っている。
正徳の政治は文飾政治であると批評されがちであるが、白石の理想は文武並び立つことにあり、内は政府と国民との相互信頼、国民生活の安定、外は国家的体面の保持ないし国威の発揚にあったのであり、家宣在世時はそれが積極的に採用され実行されたのである。
[宮崎道生]
『栗田元次著『新井白石の文治政治』(1952・石崎書店)』▽『宮崎道生著『新井白石』(1966・至文堂)』▽『宮崎道生著『新井白石の研究』増訂版(1969・吉川弘文館)』
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江戸中期,6代将軍徳川家宣・7代同家継の頃(宝永~正徳期)の幕府政治。側用人間部詮房(まなべあきふさ)・儒者新井白石(はくせき)らが主導した。主要な政策は,武家諸法度の改訂,朝幕関係の改善,幕領支配の刷新,通貨制度の立て直し,貿易制度の改革(正徳長崎新例),朝鮮使節に対する待遇の簡素化と称号問題の処理など。正徳長崎新例のように,その後の対外貿易のあり方を規定する政策がみられる反面,通貨政策のように儒学的理想主義を重視するあまり現実の状況に対応しきれず,むしろ混乱を招いたものもあった。かつては最も文治的な政治が具現した時代として「正徳の治」と称されたが,近年ではあまり使われなくなっている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…翌12年家宣の死後も側用人間部詮房(まなべあきふさ)とともに幼将軍家継を補佐し,通貨改良,貿易制限,司法改革などに努力した。その活躍の時期は〈正徳の治〉とも称される。しかし彼の政治論はあまり理想にすぎ,彼の性格は圭角多く他人と妥協するところがなかったので,しだいに間部詮房とともに孤立の状態となり,16年(享保1)吉宗が将軍となると政治上の地位を失い,晩年は不遇の中に著述にはげんだ。…
…1707年(宝永4)の富士山噴火の灰除(はいよけ)金48万8000両も16万両を使ったのみで財政に繰り入れ,金銀分銅もほとんど鋳つぶした。 正徳の治は勘定吟味役を再置,代官の不正をただし,大庄屋を廃止した。荻原重秀を罷免し貨幣を古制に戻して正徳金銀を鋳造,金銀海外流出防止のため15年(正徳5)長崎貿易の年額を制限した。…
…側用人間部詮房(まなべあきふさ),侍講新井白石の補佐を受け,生類憐みの令の廃止をはじめ,前代の弊政の修正に努め,あつく儒教を信奉して人民へ仁愛の施政に心がけ,儀礼の整備,勘定所機構の改革,通貨改良など諸政刷新を意図したが,在職3年余りで死去した。その治世は失政もなく,比較的平穏な時期だったので,〈正徳の治〉と称せられる。【辻 達也】。…
…09年家宣が将軍に就任すると老中格側用人に昇り,翌年高崎城主として5万石を領するに至った。詮房は侍講新井白石とともに将軍家宣を補佐し,前代の弊政改革に努め,12年(正徳2)家宣死去後も幼主家継のもとで施政に奮闘し,〈正徳の治〉と称される安定期をもたらした。しかししだいに白石とともに幕府内で孤立し,16年(享保1)8代将軍吉宗の代に幕政の中枢から失脚。…
※「正徳の治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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