改訂新版 世界大百科事典 「殷周美術」の意味・わかりやすい解説
殷周美術 (いんしゅうびじゅつ)
中国の殷・周王朝の時代から秦による統一までを扱う。はじめ夏(か)に天下を治める徳があったとき,遠方の国々は物の図を献じ,鼎(てい)を鋳てその図を彫り込んだ(《左氏伝》)という。楚王が周室の鼎(かなえ)の軽重を問うたときの話である。夏の実在についてはなお慎重な調査研究が進められている。河南省偃師(えんし)二里頭下層文化期の土器の様相から,古史の伝えるごとく,夏が青銅器の最初の鋳造者であった可能性はなお十分残されているが,現在発見される最古の青銅器は二里頭上層文化期発見の殷代初期のものである。容器には爵があり,薄手平底で脚部は細く,口縁部両端が長く延びる。文様はない。青銅器はほかに鈴,環頭刀子,鏃,斧,鑿がある。玉器は璋(しよう),圭(けい),鉞(えつ)などがあり,すでに漆器の盒(ごう)や豆(とう)があった。建築は広大な宮殿がある。1号宮殿は約100m四方の版築台の周囲を回廊で囲み,南に門を開く。内部北寄りに8間×3間の四注造二重屋根茅ぶき宮殿があった。2号宮殿も同様構造で3間房の建物であるが北側に大墓があり,祭祀坑をもつ1号宮殿と性格を異にするらしい。付近には朱砂とともに圭,璋などの玉器があり,この地が重要都邑であったことを示す。
河南省鄭州市の,周囲7kmに及ぶ大城壁は殷中期の都城址である。城内から東西65m以上,南北13.6mの宮殿址などが発見されている。城外には鋳銅,製陶,製骨器工房址がある。青銅器のうち鼎は縦長方形でこの期特有の形態である。最大のものは1974年鄭州張寨発見品中の1点で通高1m,重さ86.4kgある。器腹上部と四脚に饕餮文(とうてつもん)をつけ器腹四周は乳丁文で飾る。青銅容器には他に鬲(れき),尊,觚(こ),斝(か),利器には斧,刀子,鉞,戈,鏃があり,これら青銅器はすべて薄造りで文様は饕餮文のほか弦文,夔文(きもん),雷文がある。前期に比べ鋳造技術は大いに発達したがまだ地文はなく刻線も粗い。この殷中期文化は北は河北省藁城台西村,南は湖北省黄陂盤竜城,江西省清江呉城へ広がっており,各地に硬陶のうえに灰釉をかけた青磁釉の萌芽を示す灰釉陶,台西村には漆器の盤,盒が出土している。
河南省安陽市北西2.5kmの殷墟の地は盤庚遷都以来,紂王滅亡まで殷後期の国都である。1928年以来,多数の建築基址,王侯貴族の陵墓や住居,工房址が調査されている。青銅器の製作はきわめて発達し,器壁は厚く,文様は主文の間を地文で埋める精緻なものとなり,重層の文様帯も形成され,力強い重厚な製作となった。容器は簋(き),盉(か),卣(ゆう),壺,匜(い),盤,それに鉦のごとき楽器が出現した。現存する最大の銅器,司母戊鼎は安陽武官村の王墓区出土で,通高1.37m,長さ1.10m,幅0.77m,重さ870kgあり,器腹四周を饕餮文で飾る。器形は横長方形で殷中期と異なる。特色ある土器に白陶がある。純良な陶土を用い高火度焼成したもので豆,罍(らい),壺,尊,卣,盤などの器形に青銅器と同じ饕餮文や雷文などを飾った儀器である。また人物,動物などの大理石彫像もあるが,形式化された形態をとる。
1976年小屯村発見の婦好墓は大墓でこそないが盗掘を受けない完全な墓で,しかも被葬者が武丁の配偶者である婦好とわかり,埋葬年代が殷後期前半と定められる点で空前の発見である。副葬品は司母辛大鼎ほか礼器,武器,工具,鏡,楽器などの青銅器が468点で偶方彝(い),三連甗(げん)のごとき特有のものがある。玉器も755点にのぼり,各種祭玉,瑞玉のほかさまざまな動物や人物の彫刻がある。骨角器では象牙に緑松石を嵌入した精巧な把手坏がみられる。墓直上は版築で3間×2間の祭祀用建築がつくられていた。殷人は民をひきいて神に仕え,鬼を先にして礼を後にしたといわれる。甲骨文によると殷には祖先の祭り,天帝の祭り,山川河岳など自然神の祭りとさまざまな祭りがあり,そのたびに宗廟,神殿,陵墓で凄惨な人身犠牲を含む犠牲が捧げられた。これら祭りのための牲や酒の具としてつくられた彝器には,折れ曲がった角,鋭い牙,大きな目など,鼻梁で対称形となった動物形の顔面を大きくあらわし,身体は左右に展開された形をとる。これを饕餮とよぶのは《呂氏春秋》に〈周の鼎に饕餮をつけたが頭があって体がなく,人を食い,まだ飲みこまないうちに害がその身に及ぶ〉というところから,宋代につけられた。この饕餮文は殷中期にあらわれ後期に絶頂をむかえるが,神聖な祭りの器を守るため,動物はじめ自然界のありとあらゆる強い力を集める必要からつくり出されたもので,今も見るものを強く呪縛する力を放つ。殷はこのように鬼道に仕え,祭りのための酒におぼれ,ついに周の武王によって滅ぼされた。
周の都,豊・鎬は現在の西安市の西方にある。周は殷の轍をふまず鬼神を制するに礼をもってした。周はまた封建制をとり,同姓,親近の異姓,臣服した異族首長を分封した。王は天命を受けて天下の祭りごとを行い,諸侯は王の賜与により王の明徳をわかつ分器を与えられ,臣たる誓いをたてた。これが策命である。しかし,西周初めの青銅器はなお殷代の様式を保っている。西周前期を代表する大盂鼎は通高102.1cm,口径78.8cm,重さ153.5kgの堂々たる円鼎で,ややくずれた饕餮文をつけ291字の長文の銘をもつ。西周中期になると青銅器には一定の形式の策命の金文が彫り込まれるようになる。彝器のもつ意味が殷代とは異なり封建関係を示す政治的なものと変わった。殷代に盛行した爵,觚,斝,尊などの酒器が急速に姿を消し,代わって盨(しゆ),簠(ほ),楽器の鐘などがつくり出された。文様も夔文,鳥文が消え,饕餮文は器の一部装飾に残るだけで,虺竜文(きりゆうもん),窃曲文(せつきよくもん),鱗文などの簡単な帯状文様が盛行し,地文もすっかりなくなった。497字もの長文の策命書をもつ西周後期の毛公鼎も文様は環文をもった鱗文帯のみで脚は獣脚となり,造りは粗放になっている。
一方,礼制の完備につれて宗法等級関係が厳重に規定され,とりわけ鼎が重んじられてその数によって王侯,卿大夫,士の身分区別が厳格に施行された。陝西省長安張家坡西周墓地,河南省三門峡上村嶺虢(かく)国墓地などの宗族墓中にその状況を見ることができる。河南省濬県辛村衛国墓地,北京市琉璃河燕国墓地,江蘇省丹徒烟墩山宜国墓地からはそれぞれ国名を刻んだ青銅器が出土し,西周の分封の状況を示す。一方,内モンゴル喀左北洞村と四川省彭県竹瓦街からは同形式の西周前期銅罍が出土し,西周文化の伝播を示すが,後期はかえって縮小傾向が見られる。安徽省屯渓の西周前期墓は封土をもち,中原からの青銅器に加え南方系要素の青銅器と特有の灰釉陶が出土する。
前770年,洛陽にうつった東周王朝はまったく権威を失い,諸侯国が覇者として相ついで強大となった。しかし,青銅器に見るところ,西周後期の様式が続き,なお春秋中期までは形式だけでも周室の威令が続いている。諸侯の力の増大により列国の封建都城は繁栄し,各種の生産が盛んとなった。山西省侯馬晋国の鋳銅址は春秋中期から戦国中期に至り,3万点に達する鋳范が出土した。それらは礼楽器,兵器,車馬具,工具が大半で日用器は少なく,この鋳造址が官工房であったことがうかがえる。同遺址の製陶,製骨器工房は一般日常生活用具を生産し,民間工房の発達が知られる。青銅器生産では春秋中期より型押しによる連続文様が発達し,蟠虺文(ばんきもん)あるいは蟠螭文(ばんちもん)が盛行した。鋳造では分鋳法がいっそう発達し,分業による大量生産が行われはじめた。また溶接による組立ても見られる。これらの鋳造技術を駆使して生み出された新様式の青銅器に河南省新鄭出土の立鶴蟠螭文方壺がある。器各部を複雑な禽獣形で立体的に装飾した新しい作風である。こうした新様式の青銅器は殷・周以来の旧礼制にとらわれぬ新たな発展で,そこには合理性を重んじる新しい価値観の誕生を見ることができる。
春秋後期から戦国前期へかけてはさらに大きな変動がみられる。鉄器使用による生産力の高まりは新興地主階級の力を増大させ,旧来の門閥貴族の支配をくつがえす下剋上の世となり,礼が崩れ楽が壊れる状況となった。鉄利器の使用は工芸技術の発展をもうながした。安徽省寿県蔡侯墓の銅象嵌尊缶(そんふ)をはじめとし,戦国時代に盛行する金属象嵌,山西省長治分水嶺墓鍍金匜などの線刻のみで宴楽,狩猟などをあらわす線刻画像文などがそれである。また江蘇省武進奄城春秋後期墓の青銅匜や三輪盤などは造形,文様とも江南地方独特のものである。戦国時代の工芸品はさらに多彩さを増す。それらは王侯貴族の身辺を飾る権威と豪富の象徴である。青銅器は鼎,豆,壺が主となり,盉が消え,敦,鐎(しよう)(提梁壺),盒などがあらわれる。身辺装飾品では鏡鑑の発達がめざましく,とくに帯鉤は金・銀・玉製品も含め技巧をこらした精品がある。土器は灰陶が主で,青銅器を写した明器は精巧なものが多い。実用器は工房印をもつものがあり,官・私陶業の発達を示す。
江南の紹興以南では硬く焼き締めた印文土器が一つの文化圏をつくる。鉛釉による緑釉陶,彩釉陶も少数存在している。絹織物,刺繡もあるが長沙左家塘墓には多種類の錦があった。長沙子弾庫墓の帛書(はくしよ)は名高いが,同墓と長沙陳家大山墓から絹に墨絵で人物,竜,鳳を描いた帛画が発見されている。漆器の発達も著しく,戦国後半には青銅容器に代わって尊重されるようになった。河南省信陽長台関墓の漆彩鎮墓獣や楽器類は漆工芸の高い水準を示す。河南省洛陽の金村古墓,輝県固囲村墓(輝県古墓群)はともに王侯級の墓で金属器の精品の出土で知られる。1977年湖北省随県発見の曾侯乙墓は保存良好な戦国前期木槨墓で,青銅器は透し彫,浮彫,錯,嵌の技巧をこらし,とりわけ尊と尊盤は複雑な透し彫装飾を器全面に付加したみごとな精品である。注目をひくのは楽器群で,管弦打楽器がそろい,編鐘はL字形上下3段の鐘虡(しようきよ)に大小64点の鐘がかけられたまま出土した。
河北省平山の戦国中期中山国霊寿城址では城内外の大型墓が調査された。青銅器の造形は獣形台脚で,とくに力強さにあふれた質朴なものがある。中山王(さく)墓は墓上を3層瓦ぶきの建物が覆い,青銅器画像文様にしばしば描かれた重層建物があった。小国とはいえ確実な王陵として重要である。戦国後期の様相はすでに秦,前漢前半と大きく変わるものではない。陝西省興平県出土の犀形尊は全身に金銀象嵌で雲文を施した精緻な文様を飾る。湧き立つ雲気になお旧来の伝統が息づいているが,造形はきわめて写実的で,殷・周のあの晦渋な青銅器と比べ実に平明である。鬼神や宗族などさまざまな制約に縛られた殷・周の時代から新たな時代への歩みは戦国後半にはすでに確実に始まっていたといえよう。
→青銅器
執筆者:秋山 進午
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