永寿寺(読み)えいじゆうじ

日本歴史地名大系 「永寿寺」の解説

永寿寺
えいじゆうじ

[現在地名]世羅町田打

標高五〇〇メートル余の永寿寺山の南面にある谷の奥に位置する。寺伝によるともと山頂付近にあったという。臨済宗仏通寺派。万松山と号し、本尊阿弥陀如来。のちに鎌倉円覚寺の三九世となる石室善玖が、応安二年(一三六九)この地に巡錫したとき開いたと伝える。善玖筆の「永寿寺」の寺額が現存。本尊の木造阿弥陀如来坐像(県指定重要文化財)寄木造で、造立当初の台座と光背を有し、胎内には墨書銘がみられる。


永寿寺
えいじゆじ

[現在地名]大垣市多芸島

多芸島たぎしま集落西部にある。真宗大谷派に属し、福島山と号する。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、元慶年間(八七七―八八五)天台宗寺院として創建され、信受しんじゆ院と称したという。嘉禎元年(一二三五)教信安八あんぱち大藪おおやぶ(現輪之内町)に寺を再興、永寿寺と称するようになった。永正年間(一五〇四―二一)大野おおの古橋ふるはし(現本巣郡巣南町)寺地を移し、天正年間(一五七三―九二)初めに多藝郡多芸島村に移転したが、まもなく安八郡はやし村に移り、再び寛文六年(一六六六)多芸島村に移転したという。「天文日記」天文一二年(一五四三)一〇月二四日条に「就当番之儀、永寿寺下九ケ所也、于時かんた教善樽持参」とある。


永寿寺
えいじゆじ

[現在地名]嬉野町大字吉田字寺辺田

吉田川の中流南側山麓の高所に位置する。聖福山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寛永年間(一六二四―四四)上吉田かみよしだ一帯の邑主であった鍋島伝兵衛茂教(鎮教)が開基したもので、それ以後、代々邑主鍋島氏の菩提寺となる。茂教は武雄の後藤家信の次男である。佐賀の高伝こうでん寺九代天国泰薫が隠居して当寺の開山となった。寛政五年(一七九三)梵鐘を鋳、一四代明応曹鑑の代に鐘楼が出来上った。現存の本堂は明治二八年(一八九五)に改築したもの。また寺の裏には邑主鍋島家の代々の墓があり、近くには鎧塚や鍋島家ゆかりの石祠などがある。

不動堂に安置されている木造不動明王・二童子像(重要文化財)は、この近くの両岩もろいわ集落にあった廃寺永洗えいせん寺から移されたものといわれ、廃寺のあった所は寺屋敷とよばれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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