永福寺跡(読み)ようふくじあと

日本歴史地名大系 「永福寺跡」の解説

永福寺跡
ようふくじあと

[現在地名]鎌倉市二階堂

鎌倉宮(大塔宮)背後にあり、寺域は旧小字四ッ石よついし三堂さんどう西にしやつかめふちの広い範囲に及んだ。国史跡。寺跡の所在確認は昭和六年(一九三一)・同七年および同二八年・同四〇年の発掘調査により、ほぼ全容が明らかにされ、伽藍配置推定も試みられた。字四ッ石は総門跡、三堂は二階大堂・薬師堂・阿弥陀堂跡および苑池、西ヶ谷と亀ヶ淵は僧坊または寺関係の建物跡といわれる。

源頼朝は文治五年(一一八九)奥州藤原一族を征討した際、平泉中尊ひらいずみちゆうそん寺二階大堂大長寿だいちようじゆ院の荘厳な精舎をみて当寺建立を企図し、その目的を源義経・藤原泰衡はじめ戦没した将士の怨霊をなだめ、かつ三有の苦果を救うためとしたが、頼朝の威勢を誇示する意図も含まれていたと思われる。「吾妻鏡」によると、文治五年一二月九日事始、建久二年(一一九一)二月、寺地選定のため大倉おおくら山辺りを歴覧。同三年一月工事に着手した。同年八月には近国の御家人から人夫を三人ずつ出させ、庭園造りには僧静玄が起用されて堂前に苑池が掘られた。池中に中ノ島を築き、奇岩怪石を配したその一部は現在も残っている。堂の扉と後壁の絵はすべて平泉毛越もうつ寺金堂の円隆えんりゆう寺を模して作られ、同年一一月二〇日造営が終わり、寺容は「雲軒月殿、絶妙比類無」と記される壮大さであった。前月二五日には惣門を建立し、一一月二五日、近江園城おんじよう寺の公顕を導師に永福寺供養が催された。建久四年一一月阿弥陀堂、同五年一二月には薬師堂供養を行い、三堂がそろった。翌年一二月二日には当寺奉行人として、三浦義澄・畠山重忠ら三名が任ぜられる。正治二年(一二〇〇)閏二月、将軍頼家が永福寺以下の勝地を歴覧し、当寺では郢曲を行い、次いで釣殿に参じて酒宴を催している。


永福寺跡
えいふくじあと

[現在地名]熊本市清水町高平

一統志」に「永福禅寺」とあり、「国誌」では高平たかひら村の項に「永福寺冬次山」とあるが、寺地は高平打出たかひらうちだし村に属した。同書によれば、天文二一年(一五五二)赤星筑前守が旦那となり、菊池正観しようかん(現菊池市)三九世蓋中を開山として建立、高平村で一町五反を寄進したとし、京都南禅寺末寺で、城下松雲しよううん院の支配を受けたという。慶長九年(一六〇四)九月の高平村検地帳でみると、六畝一二歩の屋敷と一反八畝余の畠をもつ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「永福寺跡」の解説

ようふくじあと【永福寺跡】


神奈川県鎌倉市二階堂にある寺院跡。源頼朝が奥州平泉で見た藤原氏の中尊寺の二階大堂や大長寿院にならって建立した寺で、1966年(昭和41)に国の史跡に指定され、2008年(平成20)に追加指定があった。源頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺の3つの大きな社寺を建立し、現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで、あとの2つは焼失してしまったが、永福寺跡は約9万m2の広さ。源義経や藤原泰衡(やすひら)をはじめ、奥州合戦の戦没者慰霊のために建てられ、1189年(文治5)12月に工事に着手。堂は左右対称に配置され、翼廊があり、二階堂(本堂)を中心に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂が配され、東を正面にした全長230mの大伽藍(だいがらん)であった。また、前面には、南北200m以上の池が作られていた。1405年(応永12)に焼失してしまったが、現在も苑池の礎石、中島、立石、汀などが残り、二階堂という地名だけが残っている。JR横須賀線ほか鎌倉駅から徒歩約25分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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