江華島事件(読み)コウカトウジケン

デジタル大辞泉 「江華島事件」の意味・読み・例文・類語

こうかとう‐じけん〔カウクワタウ‐〕【江華島事件】

明治8年(1875)、日本の軍艦雲揚号が江華島付近で挑発行為をし、江華島砲台と交戦した事件。これを機に日本は朝鮮に開国を強要し、翌年日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。

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精選版 日本国語大辞典 「江華島事件」の意味・読み・例文・類語

こうかとう‐じけん カウクヮタウ‥【江華島事件】

明治八年(一八七五)、日本の軍艦雲揚号が朝鮮の開国を要求して朝鮮沖を示威中、江華島砲台と交戦した事件。雲揚号事件

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改訂新版 世界大百科事典 「江華島事件」の意味・わかりやすい解説

江華島事件 (こうかとうじけん)

1875年に起きた日本と朝鮮の武力衝突事件で,雲揚号事件ともいう。事件は,9月20日に日本の軍艦雲揚号(約250トン)が朝鮮の江華水域に入ったとき,江華島の草芝鎮から砲撃を受けたことによって起きた。日本側はこれに応戦して同鎮に損害を与えるとともに,南の永宗島の永宗鎮にも攻撃を加え焼き払った。この間の戦闘で日本側は負傷者2名(のち1名死亡),朝鮮側は死者35名を出した。江華水域は朝鮮の首都漢城(ソウル)に通じる要衝にあたるため,たび重なる洋擾(ようじよう)の下で厳重な警戒体制がしかれていた。事件の背景には,日本の明治維新に伴う日朝両国関係の行き詰まりがあった。江戸時代の日本は,対馬藩を窓口に唯一朝鮮とのみ国交を持っていた(交隣関係。朝鮮通信使)。明治維新で徳川氏から天皇に政権が移ると,1868年明治政府は国交のあった朝鮮に対馬藩を通して日本の政変を通告させた。対馬藩が朝鮮に送った外交文書書契)は,天皇親政を伝えるものであったため,〈皇〉〈勅〉などの文字を用いていた。ところで朝鮮は清の属国とされていたので,〈皇〉〈勅〉は朝鮮にとって清の皇帝とその命令を意味するものと考えられていた。その結果,大院君政権は,日本がこれらの文字を使用したのは従来の交隣関係を破棄して朝鮮の上に立とうとすることを示したものとして,書契の受理を拒絶した。いわゆる書契問題である。1873年には大院君から閔(びん)氏に政権が移ったが朝鮮側の対応は変わらず,7年間膠着状態が続いた。そこで日本政府は,雲揚号,第二丁卯号などの軍艦を朝鮮沿岸に派遣して圧力を加え,事態を打開しようとした。事件はこの結果起きた。この事件以後,朝鮮の閔氏政権は朴珪寿らの努力で大院君ら鎖国攘夷(衛正斥邪)派の反対を押しきって日本との復交を図り,1876年2月に江華府において日朝修好条規江華条約)を締結した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「江華島事件」の意味・わかりやすい解説

江華島事件
こうかとうじけん

1875年(明治8)日本軍艦雲揚(うんよう)号と朝鮮のソウル近くの江華島(カンホワド)砲台との間で行われた戦闘と、雲揚号による同砲台の破壊および永宗島(えいそうとう/ヨンチョンド)の占領事件。雲揚号事件ともいう。明治初年以来、朝鮮侵略を企図していた日本政府は、朝鮮近海にしばしば日本軍艦を出動させ、威嚇と挑発を試みていた。75年9月20日、井上良馨(よしか)を艦長とする雲揚号は、朝鮮の首都ソウルの表玄関に位置する江華島近海に侵入、江華島砲台の砲撃を受けた。飲料水を探すのが目的だったというのが雲揚号侵入の口実であるが、朝鮮側への計画的挑発を図ったものであった。雲揚号にはなんら損害はなかったが、艦砲で応戦、江華島砲台を破壊、さらに南の永宗島に上陸し、民家を焼き、朝鮮人35人を殺害、大砲38門を戦利品として奪った。雲揚号は9月28日長崎に帰港したが、日本政府はこの事件を契機に、翌年日朝修好条規(江華条約)の締結を朝鮮政府に迫った。

中塚 明]

『山辺健太郎著『日韓併合小史』(岩波新書)』

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百科事典マイペディア 「江華島事件」の意味・わかりやすい解説

江華島事件【こうかとうじけん】

1875年9月,日本の軍艦雲揚号が朝鮮の江華島付近に進入,砲撃され,これに対し砲台を撃破した事件。これを理由として維新後間もない明治政府は,欧米列強にならうやり方で朝鮮政府に迫り,鎖国政策をやめさせ,1876年2月,不平等条約である日朝修好条規を結ばせ,朝鮮半島侵略のてがかりを得た。
→関連項目黒田清隆仁川征韓論李朝(朝鮮)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「江華島事件」の解説

江華島事件
こうかとうじけん

雲揚艦(うんようかん)事件とも。1875年(明治8)日本軍艦が朝鮮砲台を砲撃した事件。朝鮮国との関係打開のため,日本は釜山から帰国した森山茂外務少丞の建議した軍艦による威嚇の方針をとり,雲揚・第2丁卯(ていぼう)の2艦を朝鮮近海の航路測量などに派遣。雲揚艦は朝鮮半島西海岸の示威行動中,9月20日江華島に近い漢江支流に投錨,淡水補給の名目で艦長井上良馨(よしか)海軍少佐らがボートで遡行すると,草芝鎮砲台から砲撃され本艦に戻り応戦。仁川港対岸の永宗鎮を報復攻撃し,陸戦隊が上陸攻略して砲を奪いとり,官衙(かんが)・民家を焼き払い,長崎に戻った。日本側は朝鮮に問罪の遣使を艦船5隻で送って江華府で交渉し,翌年日朝修好条規締結により開国させた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「江華島事件」の意味・わかりやすい解説

江華島事件
こうかとうじけん

1875年9月 20日,朝鮮半島の西沿岸で水路測量の名目で示威活動中の日本艦『雲揚』の端艇がカンファ (江華) 島付近でチョウォチン (草芝鎮) 砲台から砲撃され応戦した事件。別名『雲揚』号事件。これを好機として,日本は強硬策をとり,列国の支持を得て,黒田清隆井上馨を両全権として朝鮮に派遣し,武力的威嚇のもとに交渉を行い,76年2月 27日,日鮮修好条規 (→江華条約 ) を調印させた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「江華島事件」の解説

江華島事件
こうかとうじけん

1875(明治8)年,朝鮮海岸で示威行動中の日本軍艦雲揚 (うんよう) 号が漢江 (かんこう) 河口の江華島砲台の砲撃を受け,同島を報復占領した事件
日本・朝鮮両国は翌年日朝修好条規(江華条約)に調印し,釜山 (ふざん) (プサン) ・元山 (ウオンサン) ・仁川 (じんせん) (インチヨン) の開港,日本の公使館・領事館設置,日本の領事裁判権の承認などが規定された。諸外国もこれに続いたため,朝鮮は鎖国を破られた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「江華島事件」の解説

江華島事件(こうかとうじけん)

雲揚号(うんようごう)事件ともいう。1875年9月,日本の軍艦雲揚号が測量と示威のために江華島水域を行動し,砲台から攻撃を受けたが,それに応戦して付近を占領した事件。朝鮮との外交手段による関係樹立に失敗した明治政府は,当時,朝鮮半島近海に軍艦を派遣して開国を迫っていた。同事件の結果,76年2月に12カ条項からなる日朝修好条規が締結された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「江華島事件」の解説

江華島事件
こうかとうじけん

1875(明治8)年,日本軍艦雲揚が朝鮮漢江河口の江華島付近で砲撃された事件
鎖国政策をとる朝鮮との国交を強く要求していた日本は,これをきっかけに全権大使黒田清隆らを送り,武力的威圧のもとに,1876年日本優位の日朝修好条規を締結し,朝鮮を開国させた。

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