沢村宗十郎(読み)サワムラソウジュウロウ

デジタル大辞泉 「沢村宗十郎」の意味・読み・例文・類語

さわむら‐そうじゅうろう〔さはむらソウジフラウ〕【沢村宗十郎】

歌舞伎俳優。屋号、紀伊国屋。代々和実わじつの芸を得意とする。
(初世)[1685~1756]沢村長十郎の門弟。初め大坂で修業、のち江戸に下り、2世市川団十郎とともに享保期(1716~1736)の名優とうたわれた。
(3世)[1753~1801]2世の次男。初名、田之助。明和8年(1771)3世を襲名。和事わごとを得意とし、色事師の随一と称された。
(7世)[1875~1949]明治41年(1908)7世を襲名。古風な和事芸を演じ、女方をも兼ねた。

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精選版 日本国語大辞典 「沢村宗十郎」の意味・読み・例文・類語

さわむら‐そうじゅうろう【沢村宗十郎】

  1. 歌舞伎俳優。屋号紀伊国屋。
  2. [ 一 ] 初世。本名三木藤三郎。俳名訥子。晩年、助高屋高助、高賀を名乗る。沢村長十郎の門弟。享保三年(一七一八)江戸に下って、惣十郎を名乗り、同五年に宗十郎と改名。二世市川団十郎と、柏莚・訥子と並び称された名優。写実的な和事の芸にすぐれ、大岸宮内(大星由良之助)で大当たりをとった。貞享二~宝暦六年(一六八五‐一七五六
  3. [ 二 ] 三世。俳名遮莫(しゃばく)、曙山、訥子。二世の次男。明和八年(一七七一)三世宗十郎を襲名。寛政二年(一七九〇市村座の座頭となり、江戸の代表的な立役として活躍、並木五瓶作「五大力恋緘」などを初演した。色事師の随一と称された。宝暦三~享和元年(一七五三‐一八〇一
  4. [ 三 ] 七世。本名沢村福蔵。俳名は高賀。明治四一年(一九〇八)七世宗十郎を襲名。江戸の気風を伝えた最後の役者といわれた。明治八~昭和二四年(一八七五‐一九四九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「沢村宗十郎」の意味・わかりやすい解説

沢村宗十郎
さわむらそうじゅうろう

歌舞伎(かぶき)俳優。屋号は代々紀伊国屋(きのくにや)。

服部幸雄

初世

(1685―1756)武士の家に生まれたが、青年時代に俳優を志し、旅回りの端役(はやく)から出発。初め大坂で修業したが、のち江戸に下り、1718年(享保3)沢村宗十郎と改め、やがて江戸歌舞伎を代表する名優になる。のちに3世沢村長十郎、さらに初世助高屋高助(すけたかやたかすけ)と名を改めた。容姿に優れ、口跡(こうせき)はさわやかであった。上方(かみがた)の長所を取り入れて江戸風の欠点を補い、和事(わごと)・実事(じつごと)の演技に独自の芸風を築き上げた。人気抜群であった2世市川団十郎と並んで「両輪の名花」とたたえられた。

[服部幸雄]

2世

(1713―70)初世の養子。若女方(わかおんながた)から立役(たちやく)に、さらに実悪(じつあく)に転じたが、実悪にもっとも優れた。風姿がよく、品格があった。

[服部幸雄]

3世

(1753―1801)2世の次男。沢村田之助を名のり子役で名をあげ、立役に進んで1771年(明和8)3世を襲名。初世並木五瓶(ごへい)が彼のために多くの名作を書いたので、人気はいよいよ高まり、江戸立役の名優として重んじられた。容姿に優れて、和事が得意で、色事師の随一と称された。大星由良之助(ゆらのすけ)は古今無比と絶賛された。

[服部幸雄]

4世

(1784―1812)3世の長男。初世尾上(おのえ)栄三郎(後の3世菊五郎)・7世市川団十郎と並び、江戸若手の三幅対(さんぶくつい)と称されて期待されたが、29歳の若さで病死した。

[服部幸雄]

5世

(1802―53)4世の門弟。1844年(天保15)7月5世を襲名。後に5世沢村長十郎、3世助高屋高助を襲名した。容姿に優れ、品位があり、とくに家の芸である和事に技量を示した。

[服部幸雄]

6世

(1838―86)5世の長男。2世沢村源平(げんぺい)、2世訥升(とっしょう)を経て、1879年(明治12)4世助高屋高助を襲名した明治の名優。この人は実際には沢村宗十郎を名のらなかったが、沢村家では6世に数えている。

[服部幸雄]

7世

(1875―1949)4世助高屋高助の養子。1908年(明治41)7世を襲名。女方(おんながた)をも兼ね、江戸役者の伝統を継ぐ最後の和事師と称された。『太功記』の十次郎、『双蝶々(ふたつちょうちょう)』の与五郎、『吉田屋』の伊左衛門などを当り芸とし、女方では『矢口渡(やぐちのわたし)』のお舟、『妹背山(いもせやま)』のお三輪(みわ)などの娘役のほか、晩年には微妙(みみょう)・覚寿(かくじゅ)など老婆役の難役にも優れた味をみせた。当り役を集めた「高賀(こうが)十種」がある。

[服部幸雄]

8世

(1908―75)7世の三男。一時、2世市川左団次の養子になって市川松莚(しょうえん)を名のったが、1933年(昭和8)実家に戻り、新宿の新歌舞伎座時代には4世訥升の名で立女方(たておやま)として活躍。53年(昭和28)8世を襲名。

[服部幸雄]

9世

(1933―2001)8世の長男。本名沢村寿一。1976年(昭和51)5世沢村訥升から襲名。古風な狂言にとぼけた味の出せる貴重な俳優であり、立役・女方を兼ね、悪婆役にも意欲をみせる。毎年「宗十郎の会」を催していた。なお、弟に女方の2世沢村藤十郎(1943― )がいる。

[服部幸雄]


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改訂新版 世界大百科事典 「沢村宗十郎」の意味・わかりやすい解説

沢村宗十郎 (さわむらそうじゅうろう)

歌舞伎俳優。沢村家系の本流。屋号は紀伊国屋。(1)初世(1685-1756・貞享2-宝暦6) 前名は染山喜十郎,沢村善五郎,沢村惣十郎。1720年(享保5)11月に宗十郎を名のる。後名は3世沢村長十郎,初世助高屋高助。俳名訥子,高賀。京都の出身。1718年江戸へ下り,37年(元文2)に総巻軸となり江戸の大立者となる。47年(延享4)6月京都の中村粂太郎座での《大矢数四十七本》の大岸宮内で大当りをとり,のちの大星由良助役の原型となった。当り役はほかに梅の由兵衛,曾我十郎などで,由兵衛の頭巾は〈宗十郎頭巾〉の名を残す。容姿に恵まれ,和実ともにすぐれ,口跡あざやかで芸域が広く,また狂言作者としても数編の作がある。(2)2世(1713-70・正徳3-明和7) 前名富沢長之助,竹中歌川,歌川四郎五郎。はじめ若女方,若衆方,1756年(宝暦6)から実悪となる。当り役は曾我十郎,意休,祐経など。(3)3世(1753-1801・宝暦3-享和1) 2世宗十郎の次男。前名沢村田之助。1771年(明和8)宗十郎を襲名。立役として活躍し,90年(寛政2)に市村座の座頭となる。和事を得意とした。作者初世並木五瓶との提携は有名である。当り役は園部左衛門,紙屋治兵衛,大星由良助など。(4)4世(1784-1812・天明4-文化9) 3世の長男。前名初世沢村源之助。若衆方から若立役となり,江戸若手三幅対の一人として活躍。1811年(文化8)宗十郎を襲名,和実を得意としたが,27歳で病没。(5)5世(1802-53・享和2-嘉永6) 幼時4世に入門,1844年(弘化1)7月に沢村訥升から宗十郎を襲名。後名5世沢村長十郎,3世助高屋高助。和事を本領とし,武道,実事,女方を兼ねた。当り役は《筑紫𨏍(いえづと)》の苅萱道心,《黄鳥墳(うぐいすづか)》の源之助,《五大力》の源五兵衛など。(6)6世 4世助高屋高助(1838-86・天保9-明治19)を6世と数えている。5世宗十郎の長男。前名2世沢村源平,2世訥升。江戸和事師の随一とされ,1869年守田座で座頭となる。79年4世助高屋高助を襲名,和事,実事を得意とし,また女方も兼ねた。当り役は《先代萩》の政岡,《廿四孝》の勝頼,《勧進帳》の富樫など。(7)7世(1875-1949・明治8-昭和24) 1908年3世訥升から宗十郎を襲名。11年帝国劇場開場とともに専属となり,幹部技芸員の一人として活躍。女方を兼ね,江戸和事を継承し独自の味わいを示した。当り役は《吉田屋》の伊左衛門,《矢口》のお舟,《先代萩》の政岡など。(8)8世(1908-75・明治41-昭和50) 7世の三男。前名5世源平,4世訥升,市川松莚。1953年宗十郎を襲名。女方として活躍し,当り役は《盛綱陣屋》の早瀬など。(9)9世(1933-2001・昭和8-平成13)8世の長男。1976年5世訥升から宗十郎を襲名。
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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「沢村宗十郎」の解説

沢村 宗十郎(9代目)
サワムラ ソウジュウロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
沢村 寿一(サワムラ ジュイチ)

別名
初名=沢村 源平(6代目),前名=沢村 訥升(5代目)

屋号
紀伊国屋

生年月日
昭和8年 3月8日

出生地
東京都

学歴
中央学院中等部卒

経歴
昭和16年6代目沢村源平を名乗り初舞台。戦後、中村吉右衛門劇団に入り、若手の女形として活躍。28年5代目沢村訥升を襲名。35〜38年東映映画に出演。松竹に復帰し、51年9代目沢村宗十郎を襲名した。芸熱心で沢村家にゆかりの深い女形演目の復活を目指し、平成元年“古典復活の会”を結成、88年ぶりに「うわばみお由」を上演するなど、10年の第10回まで埋もれた狂言の再演にとりくんだ。本領の女形から立役にも芸域を広げ、古風な色気とコクのある芸風で親しまれた。当り芸に「嫗山姥」の八重桐、「毛谷村」のお園などがある。

所属団体
日本俳優協会(理事)

受賞
芸術選奨文部大臣賞(第44回 平5年度)「碁太平記白石噺」 紫綬褒章〔平成7年〕 名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔昭和39年〕,テアトロン賞(昭40年度),松尾芸能賞(優秀賞 第6回)〔昭和60年〕,真山青果賞(大賞 第16回・20回)〔平成9年・12年〕

没年月日
平成13年 1月12日 (2001年)

家族
父=沢村 宗十郎(8代目),弟=沢村 藤十郎(2代目)

伝記
新世紀の歌舞伎俳優たち女方―歌舞伎のヒロインたちうつくしい言葉 上村 以和於 著津田 類 文,吉田 千秋 写真宇野 信夫 著(発行元 三月書房朝日新聞社講談社 ’01’88’88発行)


沢村 宗十郎(8代目)
サワムラ ソウジュウロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
沢村 寿雄

別名
初名=沢村 源平(5代目),前名=沢村 訥升(4代目),市川 松莚

生年月日
明治41年 1月8日

出生地
東京市浅草区(東京都 台東区)

経歴
大正2年5代目沢村源平を名乗り帝劇で初舞台。15年4代目訥升襲名。昭和4年2代目市川左団次の養子となり、市川松莚。しかし11年不縁となり再び訥升に戻った。戦後は初代吉右衛門一座に入り、22年「盛綱陣屋」の早瀬を演じて文部大臣賞。28年8代目宗十郎を継いだ。女形を得意とした。「忠臣蔵」の一文字屋お才も当たり役だった。

受賞
文部大臣賞〔昭和22年〕「盛綱陣屋」,芸術祭賞(奨励賞 第6回 昭26年度)「近江源氏先陣館」

没年月日
昭和50年 12月25日 (1975年)

家族
父=沢村 宗十郎(7代目),長男=沢村 宗十郎(9代目),二男=沢村 藤十郎(2代目)

伝記
三島由紀夫文学論集〈3〉虫明亜呂無編かぶき讃 三島 由紀夫 著折口 信夫 著(発行元 講談社中央公論新社 ’06’04発行)


沢村 宗十郎(7代目)
サワムラ ソウジュウロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
沢村 福蔵

別名
初名=沢村 源平(4代目),前名=沢村 訥升(3代目),俳名=高賀

生年月日
明治8年 12月30日

出生地
東京・築地

経歴
4代目助高屋高助の養子となって明治14年初舞台。19年義兄の沢村訥子と大阪へ行き、25年3代目沢村訥升と改名、41年7代目宗十郎を襲名した。44年帝国劇場開場の時、7代目幸四郎、6代目梅幸らと幹部技芸員として招かれ、女形、二枚目で活躍したが、和事師として高名だった。

没年月日
昭和24年 3月2日 (1949年)

家族
養父=助高屋 高助(4代目),長男=助高屋 高助(5代目),二男=沢村 田之助(5代目),三男=沢村 宗十郎(8代目)

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百科事典マイペディア 「沢村宗十郎」の意味・わかりやすい解説

沢村宗十郎【さわむらそうじゅうろう】

歌舞伎俳優。江戸で代々和事(わごと)を得意とし,現在9世。屋号紀伊国屋。初世〔1685-1756〕は武士の出身。上方の芸風を江戸に取り入れ,2世市川團十郎とともに歌舞伎の興隆に努めた。3世〔1753-1801〕は寛政期の江戸随一の立役(たちやく)といわれ,当り役は《忠臣蔵》の由良之助。5世〔1802-1853〕は和事・実事(じつごと)の名手で《五大力(ごだいりき)》の源五兵衛などを得意とした。7世〔1875-1949〕は4世助高屋高助の養子。江戸歌舞伎の伝統をひいた最後の和事役者といわれ,女方でも古風な味が珍重された。8世〔1908-1975〕はその三男で,1953年襲名。9世〔1933-2001〕は8世の長男で,1976年襲名。
→関連項目沢村田之助並木五瓶

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20世紀日本人名事典 「沢村宗十郎」の解説

沢村 宗十郎(9代目)
サワムラ ソウジュウロウ

昭和・平成期の歌舞伎俳優



生年
昭和8(1933)年3月8日

没年
平成13(2001)年1月12日

出生地
東京

本名
沢村 寿一(サワムラ ジュイチ)

別名
初名=沢村 源平(6代目),前名=沢村 訥升(5代目)

屋号
紀伊国屋

学歴〔年〕
中央学院中等部卒

主な受賞名〔年〕
名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔昭和39年〕,テアトロン賞(昭40年度),松尾芸能賞(優秀賞 第6回)〔昭和60年〕,芸術選奨文部大臣賞(第44回 平5年度)「碁太平記白石噺」,紫綬褒章〔平成7年〕,真山青果賞(大賞 第16回・20回)〔平成9年・12年〕

経歴
昭和16年6代目沢村源平を名のり初舞台。戦後、中村吉右衛門劇団に入り、若手の女形として活躍。28年5代目沢村訥升を襲名。35〜38年東映映画に出演。松竹に復帰し、51年9代目沢村宗十郎を襲名した。芸熱心で沢村家にゆかりの深い女形演目の復活を目指し、平成元年“古典復活の会”を結成、88年ぶりに「うわばみお由」を上演するなど、10年の第10回まで埋もれた狂言の再演にとりくんだ。本領の女形から立役にも芸域を広げ、古風な色気とコクのある芸風で親しまれた。当り芸に「嫗山姥」の八重桐、「毛谷村」のお園などがある。


沢村 宗十郎(8代目)
サワムラ ソウジュウロウ

大正・昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治41(1908)年1月8日

没年
昭和50(1975)年12月25日

出生地
東京市浅草区(現・東京都台東区)

本名
沢村 寿雄

別名
初名=沢村 源平(5代目),前名=沢村 訥升(4代目),市川 松莚

主な受賞名〔年〕
文部大臣賞〔昭和22年〕「盛綱陣屋」,芸術祭賞(奨励賞 第6回 昭26年度)「近江源氏先陣館」

経歴
大正2年5代目沢村源平を名のり帝劇で初舞台。15年4代目訥升襲名。昭和4年2代目市川左団次の養子となり、市川松莚。しかし11年不縁となり再び訥升に戻った。戦後は初代吉右衛門一座に入り、22年「盛綱陣屋」の早瀬を演じて文部大臣賞。28年8代目宗十郎を継いだ。女形を得意とした。「忠臣蔵」の一文字屋お才も当たり役だった。


沢村 宗十郎(7代目)
サワムラ ソウジュウロウ

明治〜昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治8年12月30日(1875年)

没年
昭和24(1949)年3月2日

出生地
東京・築地

本名
沢村 福蔵

別名
初名=沢村 源平(4代目),前名=沢村 訥升(3代目),俳名=高賀

経歴
4代目助高屋高助の養子となって明治14年初舞台。19年義兄の沢村訥子と大阪へ行き、25年3代目沢村訥升と改名、41年7代目宗十郎を襲名した。44年帝国劇場開場の時、7代目幸四郎、6代目梅幸らと幹部技芸員として招かれ、女方、二枚目で活躍したが、和事師として高名だった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「沢村宗十郎」の解説

沢村宗十郎(9代) さわむら-そうじゅうろう

1933-2001 昭和-平成時代の歌舞伎役者。
昭和8年3月8日生まれ。8代沢村宗十郎の長男。昭和16年初舞台。28年5代沢村訥升(とっしょう)を襲名。一時期映画界にはいったが,38年歌舞伎にもどり,若女方として活躍。51年9代沢村宗十郎を襲名。古風な風情のただよう女方で知られる。平成元年古典復活の会をひらき,うもれた作品の再演にとりくんだ。平成13年1月12日死去。67歳。東京出身。中央学院中等部卒。本名は寿一。初名は沢村源平。屋号は紀伊国屋。

沢村宗十郎(4代) さわむら-そうじゅうろう

1784-1813* 江戸時代後期の歌舞伎役者。
天明4年生まれ。3代沢村宗十郎の長男。2代沢村田之助の兄。寛政3年初舞台。のち若衆方から立役(たちやく)となり,文化8年江戸市村座で4代宗十郎を襲名。和実を得意とした。文化9年12月8日死去。29歳。江戸出身。初名は初代沢村源之助。俳名は遮莫(しゃばく),訥子(とっし)。屋号は紀伊国屋。
【格言など】雪道やあとへひかるゝ逆草鞋(わらじ)(辞世)

沢村宗十郎(3代) さわむら-そうじゅうろう

1753-1801 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
宝暦3年生まれ。2代沢村宗十郎の次男。宝暦9年子役で初舞台。父の没後は2代嵐三五郎に師事し,明和8年3代宗十郎を襲名。初代並木五瓶作品の主役をつとめ,江戸の立役(たちやく)として人気を博した。享和元年3月29日死去。49歳。江戸出身。初名は初代沢村田之助。通称は大訥子(とっし)。俳名は訥子。屋号は紀伊国屋。
【格言など】あぢなきや浮世の人に別れ霜(辞世)

沢村宗十郎(2代) さわむら-そうじゅうろう

1713-1770 江戸時代中期の歌舞伎役者。
正徳(しょうとく)3年生まれ。初代沢村宗十郎の養子。初代富沢門太郎の門人。富沢長之助と名のり上方の舞台で色子,若女方をつとめる。寛保(かんぽう)2年歌川四郎五郎と改名し,江戸中村座で立役(たちやく),のち実悪をつとめた。寛延2年2代宗十郎を襲名。明和7年8月30日死去。58歳。前名は竹中(のち滝中)歌川。屋号は紀伊国屋。俳名は訥子(とっし),曙山(しょざん)。

沢村宗十郎(7代) さわむら-そうじゅうろう

1875-1949 明治-昭和時代の歌舞伎役者。
明治8年12月生まれ。4代沢村源平を名のり,東京で初舞台。養父4代助高屋(すけたかや)高助の死後,大阪にうつり,3代沢村訥升(とっしょう)をへて,明治41年歌舞伎座で7代を襲名。帝国劇場ができると専属になり,二枚目,女方として活躍。最後の和事師とよばれた。昭和24年3月2日姫路の舞台で死去。75歳。東京出身。本名は沢村福蔵。俳名は高賀,東輝。屋号は紀伊国屋。

沢村宗十郎(8代) さわむら-そうじゅうろう

1908-1975 大正-昭和時代の歌舞伎役者。
明治41年1月8日生まれ。7代沢村宗十郎の3男。帝国劇場で5代沢村源平として初舞台。大正15年4代沢村訥升(とっしょう)を襲名。昭和4年2代市川左団次の養子となり,市川松莚と改名。のち訥升に復し,28年歌舞伎座で8代沢村宗十郎を襲名。女方として活躍した。昭和50年12月25日死去。67歳。東京出身。本名は沢村寿雄。俳名は高賀,東輝。屋号は紀伊国屋。

沢村宗十郎(初代) さわむら-そうじゅうろう

1685-1756 江戸時代中期の歌舞伎役者。
貞享(じょうきょう)2年生まれ。初代沢村長十郎の門下。享保(きょうほう)3年京都から江戸にいき,5年宗十郎を名のり,2代市川団十郎とならび称された。延享4年3代沢村長十郎を襲名。宝暦6年1月3日死去。72歳。京都出身。前名は沢村惣十郎。後名は初代助高屋高助。屋号は紀伊国屋。俳名は訥子(とっし),高賀。本名は三木藤五郎。

沢村宗十郎 さわむら-そうじゅうろう

?-1749* 江戸時代中期の歌舞伎役者。
初代沢村宗十郎の門人。寛保(かんぽう)元年江戸にでて沢村春五郎の名で中村座の立役(たちやく)をつとめる。延享4年師が3代沢村長十郎をつぐと,沢村宗十郎とあらため,翌年惣十郎と改名。沢村宗十郎の代数にはかぞえない。寛延元年11月21/25日死去。京都出身。通称は遥波(ようは)宗十郎。俳名は遥波。

沢村宗十郎(5代) さわむら-そうじゅうろう

1802-1853 江戸時代後期の歌舞伎役者。
享和2年生まれ。4代沢村宗十郎の門人。文化4年初舞台。天保(てんぽう)15年江戸市村座で5代宗十郎を襲名。和事を得意とした。嘉永6年11月15日死去。52歳。初名は沢村源平。前名は初代沢村訥升(とっしょう)。後名は5代沢村長十郎,3代助高屋高助。俳名は訥升,高賀。屋号は紀伊国屋。

沢村宗十郎(6代) さわむら-そうじゅうろう

助高屋高助(すけたかや-たかすけ)(4代)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沢村宗十郎」の意味・わかりやすい解説

沢村宗十郎(5世)
さわむらそうじゅうろう[ごせい]

[生]享和2(1802)
[没]嘉永6(1853)
歌舞伎俳優。屋号紀伊国屋。俳名訥子。4世沢村宗十郎の門弟。市村座の芝居茶屋,泉屋の出方の子。2世沢村源之助,訥弁を経て,天保 15 (1844) 年5世を襲名。晩年5世長十郎,3世助高屋高助となる。門閥外から大名跡を継いで座頭までつとめた実力派として知られ,和事,実事を得意とした。当り役苅萱,鈴木主水,岩藤など。

沢村宗十郎(1世)
さわむらそうじゅうろう[いっせい]

[生]貞享2(1685)
[没]宝暦6(1756)
歌舞伎俳優。屋号紀伊国屋。俳名訥子。武家の出で,2世市川団十郎と比肩された元文~延享期の名優。晩年惣十郎,長十郎,助高屋高助などと改名。芸域に不適の役なしとまでいわれ,特に和事,実事に長じた。由良之助,梅の由兵衛などの型の創始,狂言の自作など,多才多能ぶりで知られる。

沢村宗十郎(8世)
さわむらそうじゅうろう[はっせい]

[生]1908
[没]1975.12.25.
歌舞伎俳優。屋号紀伊国屋。俳名訥子。7世沢村宗十郎の3男。本名寿雄。 1929年2世市川左団次の養子となり市川松莚を名のったが,沢村家に戻り,53年8世を襲名。第2次世界大戦前は青年歌舞伎の立女方として活躍,戦後は1世中村吉右衛門の一座に属した。当り役盛綱陣屋の早瀬。

沢村宗十郎(7世)
さわむらそうじゅうろう[ななせい]

[生]1875
[没]1949.3.2.
歌舞伎俳優。屋号紀伊国屋。俳名訥子。6世沢村宗十郎 (4世助高屋高助に没後追贈) の子。本名福蔵。3世沢村訥弁を経て,1908年7世襲名。当り役政岡,微妙,覚寿など。古風な芸風で,晩年その声価が高まった。みずからの得意狂言「高賀十種」を選定。

沢村宗十郎(3世)
さわむらそうじゅうろう[さんせい]

[生]宝暦3(1753)
[没]享和1(1801)
歌舞伎俳優。屋号紀伊国屋。俳名訥子。2世沢村宗十郎の次男。前名1世沢村田之助。色事師の随一と称された名優。並木五瓶の脚本を得た。当り役梅の由兵衛,源五兵衛,由良之助。

沢村宗十郎(2世)
さわむらそうじゅうろう[にせい]

[生]正徳3(1713)
[没]明和7(1770)
歌舞伎俳優。屋号紀伊国屋。俳名訥子。寛延2 (1749) 年1世沢村宗十郎に認められ養子となる。和事からのちに実悪をもっぱらとした。当り役工藤祐経,ひげの意休。

沢村宗十郎(9世)
さわむらそうじゅうろう[きゅうせい]

[生]1933.3.8. 東京
[没]2001.1.12. 東京
歌舞伎俳優。屋号紀伊国屋。俳名訥子。8世沢村宗十郎の長男。本名寿一。源平より訥升を経て,1976年襲名。和事,女方を兼ね,沢村家ゆかりの演目を意欲的に復活させた。

沢村宗十郎(4世)
さわむらそうじゅうろう[よんせい]

[生]天明4(1784)
[没]文化9(1812)
歌舞伎俳優。屋号紀伊国屋。俳名訥子。3世沢村宗十郎の長男。前名沢村源之助。襲名の翌年病没。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

367日誕生日大事典 「沢村宗十郎」の解説

沢村 宗十郎(8代目) (さわむら そうじゅうろう)

生年月日:1908年1月8日
大正時代;昭和時代の歌舞伎役者
1975年没

沢村 宗十郎(9代目) (さわむら そうじゅうろう)

生年月日:1933年3月8日
昭和時代;平成時代の歌舞伎役者
2001年没

沢村 宗十郎(7代目) (さわむら そうじゅうろう)

生年月日:1875年12月30日
明治時代の歌舞伎俳優
1949年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の沢村宗十郎の言及

【大石良雄】より

…《仮名手本忠臣蔵》においては,廓遊びもするが人の心の奥底を見抜く明知と武士としての強固な意志をそなえ,心の広い大人物として描かれている。体軀堂々たる偉丈夫という大石の人物像は,《大矢数四十七本》(1747初演)の主人公大岸宮内(大石良雄にあたる)を演じて大当りをとった初代沢村宗十郎が決定づけた。その後さらに名優たちのすぐれた点をとり入れて由良助像を完成したのが,初代尾上菊五郎であった。…

【隅田春妓女容性】より

…1796年(寛政8)1月江戸桐座初演。おもな配役は,由兵衛を3世沢村宗十郎,女房小梅・丁稚長吉を3世瀬川菊之丞,金谷金兵衛を3世大谷広次,信楽(しがらき)勘十郎を2世坂東三津五郎,源兵衛を嵐竜蔵,額の小さんを松本米三郎,金谷金五郎を市川男女蔵。元禄(1688‐1704)ごろ,大坂にいた梅渋吉兵衛という悪者が,丁稚長吉を殺して金を盗んだ事件を脚色したもの。…

【忠臣蔵物】より

… これらの作品を土台として,以後,数々の浪士劇が生み出されたが,中でも重要な位置を占めるのは,人形浄瑠璃では,1732年(享保17)10月豊竹座所演の,並木宗輔,小川丈助,安田蛙文作《忠臣金(こがねの)短冊》,歌舞伎では,47年(延享4)6月(7月とも)京都の中村粂太郎座で上演された《大矢数四十七本》である。前者は《無佐志鐙》や《碁盤太平記》に負うところ多く,小栗の刃傷,切腹から,大岸由良之助らの苦心,討入を描き,後者では,初世沢村宗十郎の大岸宮内が大当りをとり,ことに祇園町生酔いの場の好演は世評を沸かせた。 この2作から直接影響を受けて作られたのが,1748年(寛延1)8月に竹本座で初演された名作《仮名手本忠臣蔵》である。…

※「沢村宗十郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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