翻訳|deism
人間の功過に対して賞罰を課し広く万物の摂理をつかさどるとされる人格神への信仰に対して,天地創造の主体ではあるが創造行為の後は人間世界への恣意的な介入を中止し,自然に内在する合理的な法にもとづいてのみ宇宙を統治するものとしての神への信仰を意味する用語。自然宗教natural religionと呼ばれる場合もある。したがってそれはヨーロッパ思想の中で,17世紀後半のイギリス名誉革命に始まる市民社会の発展と自然科学の興起に伴い,合理的な思弁の浸透によって従来の伝統的な国教会の教義を否認し,三位一体や啓示・奇跡を否定して聖書の象徴的・比喩的解釈を採用する異端としての神学を指す。
宗教を理性と調停するこの合理主義神学の信条は,最初17世紀の哲学者チャーベリーのハーバートHerbert of Cherbury(1583-1648)によって定式化されシャフツベリー(三代伯)により狂信の排撃と批判の論拠として用いられたが,この主題が世間の注目を集めるに至ったのは,1696年にトーランドの《キリスト教は神秘的でない》の公刊に際して国教会の護教論者がこれに攻撃を加えたのを機に,いわゆる理神論論争が勃発したためである。この論争に登場した代表的な理神論者としては,《天地創造と同じく古いキリスト教》(1730)のティンダルMatthew Tindal(1653か57-1733)や《自由思想について》(1713)のコリンズJohn Anthony Collins(1676-1729),当時の大物政治家で文筆家たるボーリングブルックなどが知られる。この時期宗教上の教義の批判は相対的に自由であり,一時代前の宗教的熱狂への反動としての宗教上の無関心が寛容の社会的基盤を作っていたけれども,逆に一応の社会的自由を得て満足した市民層の保守的な常識道徳が,彼らの間に極端な合理主義への反発を生み出していたことや,理神論者側の思弁の不徹底さや皮相さが,既存の国教会派の体制の保持する有利な社会的特権とあいまって理神論者側の立場を弱体化し,本場のイギリスでは結局思想の主流とならず,したがって後世への永続的な影響を残すには至らなかった。
しかし当時依然として強固な絶対主義体制下にあったヨーロッパ大陸では,この理神論の神学は護教的イデオロギーに対抗する有力な武器となった。アンシャン・レジーム打倒の思想的武器である《百科全書》の編集者ディドロがシャフツベリーのさまざまな作品を翻訳したことは周知のことであり,ボルテールが《哲学書簡》(1734)でこれらイギリス理神論者の新しい合理的な自然宗教を紹介して社会的な偏見や非寛容迷信の打破のために奮闘し,この時代の思想に圧倒的な影響を与えたことも有名である。ボルテールの標語として広く知られる〈破廉恥漢を押しつぶせ〉と〈もしも神が存在しないならば是非ともそれを作り上げねばならない〉という二つの言葉は,一方では偏狭で抑圧的なカトリック教会の迷信と,そして他方では破廉恥な無神論に対して彼がとった両面作戦の立場を明快に表している。ドイツではライマールスHermann Samuel Reimarus(1694-1768)やレッシングの神学的著作,とりわけ後者の名作《賢者ナータン》の中の有名な三つの指輪の寓話の中で,宗教的祭祀の形式や教説の多様性にかかわらずすべての既成宗教が純粋な一つの神への帰依である事実がもっとも雄弁に物語られている。
→自由思想家
執筆者:中野 好之
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ラテン語のデウスdeus(神)に由来し、ギリシア語のテオスtheos(神)に由来する有神論theismとは語源的に同じであるが、理神論には異端、異教というニュアンスを伴う。ルネサンスのユマニストの普遍的有神論やソチニ派(16世紀末~17世紀初めのイタリアでおこった反三位(さんみ)一体論の教説)と思想的類縁性をもつ。哲学説としては、神を認める点で無神論ではないが、神を世界とその永遠・普遍の法秩序の創造者としつつも、世界の外にたつ超越的存在者とする点で汎神(はんしん)論や内在論とは区別される。また、人格的な意志発動者としての神を認めず、世界は創造後には自動的に運動し続けると考え、したがって、人間生活に直接関係する摂理や恩寵(おんちょう)、奇跡、啓示も認めない点で、正統的有神論からも区別される。
歴史的には、17世紀後半から18世紀にかけておもにイギリスで展開し、フランス、ドイツに波及した合理主義的、自然主義的な神観をさす。イギリスでは、理神論の父、チャーベリのハーバートが、すべての宗教の基本教義を、万人に共通な自然理性によって承認せざるをえない生得的な五つの箇条に集約した。したがって、啓示や個々の宗教の制度などは二次的なものとされた。その弟子、ブラウントはこの説を普及させた。ロック以後の理神論者は、経験論的傾向を強め、生得観念を否定し、奇跡、預言、秘儀などを科学的実証性に堪ええぬものとして排除し、これらを僧侶(そうりょ)たちの権力欲に発する行為として進んで攻撃し、思想の自由、宗教的寛容を主張した。かくて宗教の実質的内容は、基本教義で合致する限り、現実的な、よき市民たる道徳に還元されていく。代表者としては、ジョン・トーランド、アンソニー・コリンズ、マシュウ・ティンダル、トマス・ウールストン、トマス・チャブ、トマス・モーガン、ジョン・ボリングブルクなどがいる。フランスでは、イギリス理神論やロック、ニュートンの影響を受けたボルテールに代表されるが、その後ルソーを経て反カトリック、反絶対王制のイデオロギーとして無神論へ急速に移行した。ドイツでは、ライマルスやレッシングに代表され、フランスの場合と同じく啓蒙(けいもう)主義の一つの思想的形態である。18世紀末、理論的難点、実証科学の発展、市民社会の完成とともに、その歴史的役割を終えて衰退した。
[小池英光]
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万物の摂理をつかさどり人間に賞罰を課す人格神に対する信仰を批判して,神を創造主としてのみ認めて,人間の理性による神の解釈を可能とする立場。名誉革命後のイギリスにおいて,宗教的な熱狂と無関心に対する両面批判として,宗教と理性の調和を図る目的で主張され,フランスとドイツの啓蒙思想に継承された。
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…ピューリタンの多くは非国教徒となり,名誉革命後は長老派教会,会衆派教会,バプティスト教会,クエーカー派を形成して今日にいたっている。18世紀に入って啓蒙主義の時代を迎えると,啓示や奇跡を否定し,宗教を理性によって理解しようという理神論者が伝統主義者との間に論争を引き起こした。他方,一般的な宗教的情熱の冷却によって教会生活は各派とも低調をきわめたが,都市に集中し教会の手の届かなくなった労働者や貧民に,救いの手を伸ばし回心と聖化を説いたのがウェスリーであった。…
… 一口に啓蒙思想といっても,そのあらわれ方は,近世における西欧各国の歴史的展開の違いに応じて,時期的にも,またとりわけ内容的にも,大きな違いがある。17世紀にいちはやく市民革命をなしとげたイギリスは,当然啓蒙思想の口火を切るという栄誉をになうが,ここでは,その内容はおおむね穏健であり,認識論においては経験論,宗教に関しては理神論といった考えが大勢を占める。一方,市民階層の形成におくれをとったフランスにあっては,フランス革命を頂点とする18世紀が啓蒙思想の開花期となるが,ここでは,先進のイギリス思想に多くを学びながら,啓蒙思想はすくなくとも一翼において,唯物論,無神論などといったより徹底した過激な形態を示す。…
…そしてそれはまさに時代の主潮となるが,啓蒙思想のにない手たちはもはやリベルタンではなく〈哲学者(フィロゾーフphilosophe)〉と呼ばれることになるだろう。 つぎにフリー・シンカーとは17世紀末,18世紀初めのイギリスに輩出した理神論者で,超自然的な啓示によらず,人間本来の理性に基づく〈自然宗教natural religion〉を説き,あるいは聖書に記されている預言や奇跡などの非合理的要素を人間理性による検証にゆだねようとした。〈イギリス理神論の父〉チャーベリーのハーバートHerbert of CherburyやブラウントC.Blountにつづくトーランド,コリンズJ.A.Collins,M.ティンダル,シャフツベリー,ボーリングブルック,ウールストンT.Woolstonらがそれで,フランスの啓蒙思想家(たとえばボルテール)など,以後の理神論者に大きな影響を与えた。…
…イギリスの理神論哲学者,政治パンフレット作者,ミルトンの著作の編集者。スコットランドとオランダで学んだ後にイングランドに戻り,1696年に《キリスト教は神秘的でない》を公刊した。…
※「理神論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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