甲州道中の江戸日本橋から最初の宿場。元禄一二年(一六九九)から宿駅業務が開始され、途中享保三年(一七一八)に一旦廃止されるが、五四年後の明和九年(一七七二)に再興している。江戸城造営のために整備された
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江戸の北西部,武蔵国豊島郡に設置された甲州道中の宿駅で,江戸周辺の品川(東海道),千住(日光道中),板橋(中山道)とともに四宿と呼ばれた。現在の新宿区新宿1~3丁目一帯。江戸浅草阿部川町の名主喜兵衛ほか4人の出願によって1698年(元禄11)に置かれた新しい宿駅である。宿はずれの追分(おいわけ)で青梅街道を分岐し,両者の第1宿を兼ねる。江戸日本橋まで2里(8km足らず),西の次の宿へは甲州道中の下高井戸宿まで2里,青梅街道の中野村まで20丁(2km余)である。内藤新宿の設立によって,これまでの上・下高井戸宿および中野村は,第1宿としての機能を失った。宿場が四谷塩町続きの,もと高遠藩内藤氏の屋敷の一部に設けられたので,その名があった。東は四谷大木戸を境とし,西は追分に至る東西9丁10間余(約1km)の宿並みである。設立当初ここに移住した人々は,屋敷を割り当てられると,年貢の上納,伝馬人足づとめ,四谷大木戸から甲州道中国領宿までと,追分から青梅街道高円寺村境までの道の修復を負担することが義務づけられ,その諸費用として表間口1間につき1年に金1分ずつを徴収されることになっていた。宿設立後20年ほどたった1718年(享保3)にいったん廃駅となったが,72年(安永1)に再興された。幕末には宿の街道沿いが残らず家並みとなり,上町,仲町,下町に分かれた。家数は698軒,人数2377人,うち男1172人,女1205人。旅籠屋は24軒で,ほかに本陣1軒,問屋場が1ヵ所あった。常備人馬は25人,25疋である。飯盛女(めしもりおんな)を150人置くことが許されていたが実際はこれを上回り,取締りの対象となったこともある。しかし多くの飯盛女が存在することによって江戸の歓楽地としても繁栄した。この地は江戸へ入る北西の入口になっていたために,甲州,青梅の両道を経由して送られてくる商品がここでも売買され,内藤新宿を中にはさんで東の四谷から西の角筈(つのはず)にかけ,農村の生産物を取り扱う問屋が多く成立した。宿では1772年の再興以来,ここを通過する駄賃付馬に対し,1疋につき銭2文の割合で口銭を徴収していたが,農村からの荷物にもこの口銭を課したので争論になったことがある。
執筆者:伊藤 好一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
甲州道中の宿駅(現,東京都新宿区)。内藤の地名は内藤清成の屋敷地があったことによる。1698年(元禄11)宿駅開設。1718年(享保3)10月廃止。72年(安永元)再興。1821年(文政4)貫目改所設置。43年(天保14)の町並9町10間余,人口2377人,家数698軒,うち本陣1・旅籠屋24,定人馬25人25疋,うち囲人馬6人3疋。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…JR新宿駅の周辺地区で新宿,西新宿,北新宿の町名がある。1698年(元禄11)高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として内藤新宿が設けられた。新宿追分(おいわけ)からは甲州道中の脇往還である青梅(おうめ)街道も分岐し,品川,千住,板橋と並ぶ江戸四宿の一つとして栄えた。…
※「内藤新宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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