内藤新宿(読み)ナイトウシンジュク

デジタル大辞泉 「内藤新宿」の意味・読み・例文・類語

ないとう‐しんじゅく【内藤新宿】

江戸時代甲州街道日本橋高井戸との間にあった宿駅。元禄11年(1698)、信州高遠藩主内藤家の下屋敷一部に新たに設置された。今日の新宿区新宿の発祥の地。

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精選版 日本国語大辞典 「内藤新宿」の意味・読み・例文・類語

ないとう‐しんじゅく【内藤新宿】

  1. ( 関東奉行内藤修理亮の下屋敷の一部が上地され、そこに宿駅が開設されたところから呼ばれた ) 江戸時代に甲州街道の日本橋と高井戸の間にあった宿駅。遊里としても知られた。東京都新宿区新宿一~三丁目にあたる。四谷新宿。内藤宿。西国。
    1. [初出の実例]「南に品川の新宿あれば、西にもまた内藤新宿あり」(出典:洒落本・風俗問答(1776))

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日本歴史地名大系 「内藤新宿」の解説

内藤新宿
ないとうしんじゆく

甲州道中江戸日本橋から最初の宿場。元禄一二年(一六九九)から宿駅業務が開始され、途中享保三年(一七一八)に一旦廃止されるが、五四年後の明和九年(一七七二)再興している。江戸城造営のために整備された青梅おうめ街道(成木街道とも)は当地で甲州道中から分岐する。宿の東は四谷大木戸辺、西は甲州道中・青梅街道が分岐する追分おいわけ近辺で、南は東流する玉川上水を隔てて信濃高遠藩内藤家下屋敷や天龍てんりゆう寺境内、同寺の門前町屋、北は百人組与力大縄地をはじめとする武家屋敷であった。宿の開発は元禄一〇年浅草阿部川あさくさあべかわ(現台東区)名主喜兵衛をはじめとする五人の町人が、運上金として金五千六〇〇両を支払うことで宿の開設を願出たことから始まった。翌一一年六月に代官から開発を許可された五人は、「風土記稿」によれば、幅五間半(約一〇メートル)の街道を開き、左右に宿並の家作をして、移り住んだという。家作が造営された地は、内藤弥三郎、朝倉藤十郎・同三十郎、井沢正久の屋敷や与力組屋敷などを上地したもので、同年の冬には、すでに宿場の形が整い、屋敷地の割渡しが始められた。

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百科事典マイペディア 「内藤新宿」の意味・わかりやすい解説

内藤新宿【ないとうしんじゅく】

現在の新宿区南部に形成された甲州道中の第1宿。江戸四宿の一つ。宿西端の追分(おいわけ)で青梅街道が分岐。1697年江戸浅草阿部川町名主喜兵衛など5人が幕府に宿の開設を願出,1698年に許可され,翌1699年から伝馬業務を開始。信濃高遠藩主内藤家の下屋敷の一部を割いて新しい宿が成立したので内藤新宿の名があるという。江戸日本橋からは2里,次宿は上・下の高井戸宿で,下高井戸宿までは2里,上高井戸宿まで2里余。ほかに青梅街道中野村(現中野区)などにも継ぎ送った。1718年に宿はいったん廃止となり,1772年に再開。廃止となった理由は,旅籠屋に食売(めしうり)女(飯盛女)を置いて遊里化し,享保改革の風紀粛正に抵触したから,甲州道中の利用者が少なかったからなど諸説がある。宿場は東の四ッ谷大木戸寄りから下町・仲町(中町)・上町に分かれ,問屋場は時代によってこの3町の間で動いた。宿建人馬は25人・25匹。茶店商家なども多く,再開後は150人の食売女を抱えることが公許されたが,実数はこれよりも多く,文化年間(1804年−1818年)には吉原品川宿をも凌ぐ賑わいとさえいわれた。1843年には旅籠屋24軒・家数698・人数2377,本陣は仲町にあるが,脇本陣はなかった(《宿村大概帳》)。→千住宿板橋宿

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改訂新版 世界大百科事典 「内藤新宿」の意味・わかりやすい解説

内藤新宿 (ないとうしんじゅく)

江戸の北西部,武蔵国豊島郡に設置された甲州道中の宿駅で,江戸周辺の品川(東海道),千住(日光道中),板橋(中山道)とともに四宿と呼ばれた。現在の新宿区新宿1~3丁目一帯。江戸浅草阿部川町の名主喜兵衛ほか4人の出願によって1698年(元禄11)に置かれた新しい宿駅である。宿はずれの追分(おいわけ)で青梅街道を分岐し,両者の第1宿を兼ねる。江戸日本橋まで2里(8km足らず),西の次の宿へは甲州道中の下高井戸宿まで2里,青梅街道の中野村まで20丁(2km余)である。内藤新宿の設立によって,これまでの上・下高井戸宿および中野村は,第1宿としての機能を失った。宿場が四谷塩町続きの,もと高遠藩内藤氏の屋敷の一部に設けられたので,その名があった。東は四谷大木戸を境とし,西は追分に至る東西9丁10間余(約1km)の宿並みである。設立当初ここに移住した人々は,屋敷を割り当てられると,年貢の上納,伝馬人足づとめ,四谷大木戸から甲州道中国領宿までと,追分から青梅街道高円寺村境までの道の修復を負担することが義務づけられ,その諸費用として表間口1間につき1年に金1分ずつを徴収されることになっていた。宿設立後20年ほどたった1718年(享保3)にいったん廃駅となったが,72年(安永1)に再興された。幕末には宿の街道沿いが残らず家並みとなり,上町,仲町,下町に分かれた。家数は698軒,人数2377人,うち男1172人,女1205人。旅籠屋は24軒で,ほかに本陣1軒,問屋場が1ヵ所あった。常備人馬は25人,25疋である。飯盛女(めしもりおんな)を150人置くことが許されていたが実際はこれを上回り,取締りの対象となったこともある。しかし多くの飯盛女が存在することによって江戸の歓楽地としても繁栄した。この地は江戸へ入る北西の入口になっていたために,甲州,青梅の両道を経由して送られてくる商品がここでも売買され,内藤新宿を中にはさんで東の四谷から西の角筈(つのはず)にかけ,農村の生産物を取り扱う問屋が多く成立した。宿では1772年の再興以来,ここを通過する駄賃付馬に対し,1疋につき銭2文の割合で口銭を徴収していたが,農村からの荷物にもこの口銭を課したので争論になったことがある。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「内藤新宿」の解説

内藤新宿
ないとうしんじゅく

甲州道中の宿駅(現,東京都新宿区)。内藤の地名は内藤清成の屋敷地があったことによる。1698年(元禄11)宿駅開設。1718年(享保3)10月廃止。72年(安永元)再興。1821年(文政4)貫目改所設置。43年(天保14)の町並9町10間余,人口2377人,家数698軒,うち本陣1・旅籠屋24,定人馬25人25疋,うち囲人馬6人3疋。

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世界大百科事典(旧版)内の内藤新宿の言及

【新宿】より

…JR新宿駅の周辺地区で新宿,西新宿,北新宿の町名がある。1698年(元禄11)高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として内藤新宿が設けられた。新宿追分(おいわけ)からは甲州道中の脇往還である青梅(おうめ)街道も分岐し,品川,千住,板橋と並ぶ江戸四宿の一つとして栄えた。…

※「内藤新宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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