相田村
あいだむら
[現在地名]飯塚市相田
相田川の水源に位置し、南は伊岐須村・伊川村、北は鞍手郡若宮村(現若宮町)。民居は本村のほか上村・一の谷の両河内にある(続風土記拾遺)。天正七年(一五七九)四月八日の合田八幡社棟札銘(太宰管内志)に「筑前国椿庄合田村常楽寺住持比丘随慶順山主老人書之」とあり、当地は椿庄の庄域に含まれていた。小早川時代の指出前之帳では穂波郡合田村の田二九町四反余(分米四六五石余)・畠三町三反余(分大豆一六石余)。
相田村
あいだむら
[現在地名]三方町相田
藤井村の南に位置し、西方
川に向かって田地が広がる。確証はないが、「親元日記別録」政所賦銘引付文明八年(一四七六)七月六日条にみえる「若州藍田庄」は当地をさすとされる。京都仁和寺真光院領であった。弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)には「八十文 あい多村」とみえる。正保郷帳によれば田方七〇五石余・畠方五〇石余。文化四年(一八〇七)の戸口は九〇軒・三七七人(雲浜鑑)。
相田村
あいだむら
[現在地名]出雲崎町相田
小木城山の西麓にある。北は吉水村上吉水。小木村より東へ延びる道は下相田・上相田を経て小木城跡に通じ、そこから東へ下ると蓮花寺村(現三島町)に至る。正保国絵図に高二〇〇石余で幕府領。以降の支配の変遷は藤巻村と同じ。天和三年郷帳では高一六九石余(うち山高一石五斗・漆高五斗)。ほかに高一〇石二斗余の新田が一ヵ所ある。以後の村高はほとんど変化がない。真言宗智山派の高名山瑠璃光院薬師寺がある。
相田村
あいたむら
[現在地名]安佐南区安古市町相田
東流する安川の南岸に位置し、北岸は上安村、上流は高取村、下流は大町村。村の南側の武田山(四一〇・九メートル)は東山本村との境にあり、武田氏の居城があったところからその名がでた。中世には上安に含まれた地であったが、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳には「愛田村」として高三五六・二四石とみえる。正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」で相田村とあり、高三六二・二石、「芸藩通志」は三六一・二石とする。
相田村
あいだむら
[現在地名]但東町相田
小谷村の南、出石川の左岸に注ぐ佐々木川の流域にある。坂浦峠を越えて西の日殿村・河本村に通じる山道があった。近世の領主の変遷は水石村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二八四石余。出石封内明細帳によると拝領高二五二石余・改出高九七石余、これらの内訳は屋敷五石余・麻畑二石余・田方二九五石余・畑方四六石余。
相田村
あいだむら
[現在地名]村岡町相田
福西村の南西にあり、集落は湯舟川支流谷入川の下流域に形成される。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では「あい田村」とあり、高四八石余、寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも高は同じ。天保郷帳では高八七石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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