〈京都・山城寺院神社大事典〉
法然は長承二年(一一三三)美作国
吉水時代の法然は「化導日にしたかひて
この間に、吉水の諸房は荒廃したらしく、前掲絵伝は「慈鎮和尚の御沙汰として、大谷の禅房に居住せしめたまふ」と記す。この禅房は故九条兼実の弟、青蓮院の慈鎮(慈円)から与えられたもので、前掲画図翼賛は「上京慈恵大僧正草創ノ地ニテ、南禅院ト号セラレシトゾ、中古妙香院ト名ヅク、慈鎮和尚大師ニ附シ給フ」としている。
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京都市東山区にある浄土宗の総本山。華頂山大谷寺と号し,知恩教院ともいう。浄土宗の開祖法然が晩年に住んだ〈大谷の禅房〉に始まる。1212年(建暦2)法然が没すると,弟子らは禅房の東崖上に廟堂(びようどう)(墓)を造り,法然の御影(みえい)(像)を置き,法然の命日にはこの廟堂で法然の遺徳を讃嘆する〈知恩講〉を営んだ。27年(安貞1)専修念仏の隆盛をねたむ延暦寺の衆徒によって廟堂が破壊されたが,法然の弟子の源智が修復した。祖師入滅の霊跡として,法然の御影をまつる廟堂として,念仏者すべての心のよりどころであったから,やがて法然を宗祖と仰ぐ浄土宗教団の中心的寺院となっていく。8世如空(によくう)は法然の伝記の集成をこころざし,弟子の舜昌(のち9世となる)に《法然上人絵伝》48巻を完成させた。1431年(永享3)火災にかかり,20世空禅は1人1文ずつ48万人を勧進(かんじん)する方法で浄財を集めて再建したが,応仁の乱が起こり,68年(応仁2)兵火に焼けたので,22世珠琳(しゆりん)は法然の御影などの霊宝をもって近江の伊香立(いかだち)に避難した(のち新知恩院となる)。乱後,珠琳は京都にもどり,堂舎の復興につとめ,88年(長享2)ほぼこれを成し遂げ,青蓮院の尊応准后(じゆごう)から寺地所領を安堵されている。珠琳はまた後土御門天皇,後柏原天皇の帰依をうけ,しばしば宮中に出入りした。知恩院が勅願所となって,皇室との関係を深めるのはこのころからである。1523年(大永3)知恩寺(百万遍)との間で浄土宗の本山たる地位をめぐる争いが起きたのは,ようやく知恩院が地歩を固めてきたことを示す。係争は1575年(天正3)に,知恩院が浄土宗の本寺であり,香衣着用の勅許は知恩院よりの執奏(しつそう)によることを定めた綸旨(りんじ)が出されて,一応の結着をみた。
29世尊照は徳川家康の帰依をうけ,知恩院の発展につとめた。家康は,1603年(慶長8)伽藍の拡張工事を行い,07年宮門跡を置き,15年(元和1)浄土宗法度を定めた。ここに知恩院は,幕府の保護のもとに,知恩寺,清浄華院(しようじようけいん)など他の本山を超え,浄土宗の総本山たる地位を不動のものとしたのである。1633年(寛永10)火災にあい,32世霊巌(れいがん)は元のごとく再建し,1万8000貫の大梵鐘を鋳た。江戸時代の知恩院は将軍家の菩提所で,わざわざ〈投げ銭無用〉と威勢をほこった。ところが明治維新で徳川氏の保護を失い,経済的に困窮の極に達した。75世養鸕徹定(うがいてつじよう),77世日野霊瑞は,全国の末寺住職の会議や檀信徒の組織化を図って,近代的な寺院運営を試み,財政の危機を克服した。毎年4月(元は1月で,1877年から変更)に行われる法然の忌日法要は,とくに御忌(ぎよき)と称し,知恩院の最も重要な年中行事である。
執筆者:中井 真孝
広大な寺域は3段に分かれ,下の段には諸塔頭(たつちゆう)と日本最大の三門(1619,重要文化財),中の段には主要堂舎が建ち並び,中央に本堂(御影堂。1639,重要文化財),〈鶯張りの廊下〉を経て後方には狩野一門の障壁画を配した江戸初期の大規模な書院造建築の大方丈・小方丈(ともに1641,重要文化財),また《宋版一切経》(5969帖,重要文化財)を納める経蔵(1619,重要文化財)などがあり,上の段には当院最古の建物で旧御影堂の勢至堂(1530,重要文化財)が建つ。寺宝は絵画,書跡,彫刻,工芸など数多いが,宗祖法然の生涯を48巻にまとめた《法然上人絵伝》(鎌倉時代),〈早来迎(はやらいごう)〉として知られる《阿弥陀二十五菩薩来迎図》(鎌倉時代),聖徳太子伝の最古本で永く法隆寺勧学院に蔵せられていた《上宮聖徳法王帝説》(平安時代),渡来品では《菩薩処胎経(ぼさつしよたいきよう)》(西魏時代),《大楼炭経(だいろうだんきよう)》(唐時代)がともに国宝に指定されている。
執筆者:谷 直樹
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京都市東山(ひがしやま)区林下(りんか)町にある浄土宗の総本山。正しくは華頂山(かちょうざん)知恩教院大谷寺(おおたにでら)という。法然上人(ほうねんしょうにん)源空(げんくう)は西山広谷(にしやまひろだに)の庵室(あんしつ)をここに移して念仏道場とし、別に西の旧房、東の新房をもって門弟の房舎にあて専修(せんじゅ)念仏の道場としたのに始まる。1211年(建暦1)法然は四国の流罪(るざい)から入京を許されたが、ここが荒廃していたため、慈円(じえん)が南禅院(大谷禅房)を斡旋(あっせん)し、翌年ここで入寂(にゅうじゃく)した。信空らの門弟によって住坊のそばに廟堂(びょうどう)が建てられたが、1227年(安貞1)山門の衆徒により破却されようとしたため、ひそかに遺骸(いがい)を嵯峨(さが)に移し、粟生野(あおの)(長岡京市)で荼毘(だび)に付し、ついで湛空(たんくう)が小倉(おぐら)山に雁塔(がんとう)を建てたという。その後、1234年(文暦1)に源智(げんち)が大谷の霊蹟(れいせき)を復興し、知恩院大谷寺と号した。しかし室町末期の応仁(おうにん)の乱で焼失し、一時、伊香立(いかだつ)に難を避けたのち、1478年(文明10)ごろ住持珠琳(じゅりん)が朝野の奉加を得て再興し、88年(長享2)青蓮院尊応(しょうれんいんそんのう)から敷地、山林などを還付された。1523年(大永3)知恩寺との間に論争があったが、尊鎮(そんちん)の援助により落着し、浄土宗総本寺となった。
この後、朝廷、貴族との交渉も多く、勅願所となって紫衣(しえ)を許され、さらに織田信長、豊臣(とよとみ)秀吉らにより寺領が加増されて経済的基盤も確立した。徳川家康は、生母伝通(でんずう)院の菩提(ぼだい)のため大伽藍(がらん)の建立を発願し、諸堂が完備されて壮大な規模の寺院となった。さらに宮門跡(みやもんぜき)を申請し、1619年(元和5)良純(りょうじゅん)法親王以後続いたが、明治維新で廃絶。1633年(寛永10)失火焼亡したが、徳川家光(いえみつ)が再興を命じ、前後8年を費やして倍旧の伽藍が完成、東山景勝の地に広大な寺域を占めるに至った。維新の上地で一時窮乏したが、漸次復興し、1887年(明治20)知恩院門主を浄土宗管長とするようになった。
入口の三門(国宝)は1621年の建立で、現存する三門中最大のものである。本堂(国宝)は法然上人の御影(みえい)を祀(まつ)り御影堂とよばれる。本堂軒裏の「忘れ傘」は名高い。本堂から鶯張(うぐいすば)りの廊下を過ぎると大方丈(ほうじょう)、小方丈(ともに国指定重要文化財)があり、これらは江戸初期の狩野(かのう)派の絵師による襖絵(ふすまえ)によって飾られている。このほか宋(そう)版『大蔵経(だいぞうきょう)』を収納する経蔵(転輪蔵(てんりんぞう))、法然入寂の地に建つ勢至(せいし)堂(本地堂)、唐門などがあり、いずれも国重要文化財に指定されている。寺宝には、国宝の『法然上人絵伝』(48巻、鎌倉時代)、『阿弥陀二十五菩薩来迎(あみだにじゅうごぼさつらいごう)図』(鎌倉時代、『早来迎(はやらいごう)』とよばれる)、『菩薩処胎経(ぼさつしょたいきょう)』(中国・西魏(せいぎ)代)、『大楼炭(だいるたん)経』(中国・唐代)、『上宮聖徳(じょうぐうしょうとく)法王帝説』(平安時代)のほか、彫刻、古文書など多くの文化財があり、浄土宗の宝庫といった感がある。
[玉山成元]
『藪内彦瑞編『知恩院史』(1937・知恩院)』▽『藤堂恭俊著『知恩院』(1974・教育新潮社)』▽『梅原猛・岸俊宏著『知恩院』(1977・淡交社)』
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京都市東山区にある浄土宗総本山。華頂山大谷寺知恩教院と号す。法然房源空が30年あまり住んだ吉水房と,配流ののち帰京して入滅した大谷禅房の地にあたる。法然没後,門弟たちは遺骸を葬る廟堂をたて知恩講を行ったが,1227年(安貞元)比叡山の衆徒によって破壊された。34年(文暦元)源智が再興,現在の寺号を与えられたという。室町時代には知恩寺と争い,1575年(天正3)正親町(おおぎまち)天皇の綸旨によって浄土宗の本寺となった。のち徳川家康が徳川家の香華寺と定め,一大伽藍を建立,宮門跡が迎えられて隆盛した。明治維新後,宮門跡は廃止されて寺領を失ったが復興された。多くの寺宝がある。
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…しかし信空と親しい湛空(たんくう)が二尊院を拠点に嵯峨門徒を擁し,いま一つの勢力をなしていた。二尊院は東山大谷の法然廟堂が知恩院として発展するまでの,法然滅後約1世紀半の間の京都における法然信仰の中心地であった。弁長は北九州で教化に専念し,草野氏の保護を受け,筑後国善導寺(現,久留米市)を建てた。…
※「知恩院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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