枚方市禁野・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
皇室の猟場として,一般の狩猟を禁じた野。日本古代の山野河海は〈公私共利〉といって,排他的独占を禁じ,一般百姓らの利用を認めるのが原則であった。ただし宗教的聖地である山陵・墓山・寺社の聖域や,経済的対象地である墾田予定地や狩猟地・牧・杣(そま)・御厨(みくりや)などは,この原則からはずされる場合もあった。例えば狩猟・薬猟地は古くから一定の季節に標(しめ)を張り,囲い込んで標野(しめの)とし,他の民業を妨げない範囲で猟物や薬草を採獲する慣行があった。禁野は7世紀後半以降〈公私共利〉の原則を法的に確立していく際に,この標野を皇室猟野としたものといえる。守護人,預,検校,別当などの管理者がおかれ,9世紀前半から蔵人所猟野とともに畿内近国や美濃,備前などに盛んに設置され,禁制にもかかわらずしだいに民業を妨げ排他的占有の傾向を強めた。10世紀の《西宮記》では北野(山城),交野(かたの)(河内),宇陀野(大和)の3野が禁野として残っている。
→禁河
執筆者:勝浦 令子
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古代、天皇の遊猟などのために、出入・用役を禁じた原野。標野とも書く。「しめの」の訓は占有慣行の名残(なごり)をとどめる。天武(てんむ)・持統(じとう)朝には畿内(きない)の一定山野について禁令が出されており、制度化の方向を示す(『日本書紀』天武天皇5=676、持統天皇3=689)。令制(りょうせい)では「山川藪沢之利(さんせんそうたくのり)、公私共之(これをともにす)」の除外例としてみえ(養老(ようろう)雑令)、860年(貞観2)、863年の官符では、禁を犯した者が五位以上なら奏聞し、六位以下なら禁固の刑罰が規定され、国司の監督責任が明示されている(類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)禁制)。額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖(そで)振る」(『万葉集』20)がある。
[菊池克美]
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…日本でも古くは大和・奈良朝時代以来,貴族階級の狩猟を目的として一般の狩猟を禁止することがあった。平安時代の禁野(しめの)の設定,鎌倉時代の鷹狩りの禁止などである。江戸時代には将軍,諸大名の狩猟の場は一般の猟を禁じ保護されていた。…
…それは820年(弘仁11)以来,主鷹司に置かれた鷹飼30人・犬30牙のうち,鷹飼10人・犬10牙が蔵人所に割置された点にも現れており,主鷹司には860年(貞観2)以後官人が置かれず,883年(元慶7)上述の数の鷹飼・犬が蔵人所に長く所属することと定められた。このころまでに,諸国に禁野が設定されており,860年には禁野での鷹狩を禁ずるとともに,無頼の輩が野守(のもり)を理由に百姓の採草採木を妨げることを抑制している。桓武のときから百済王が検校となった河内交野をはじめ,山城北野,大和宇陀野などは天皇の鷹場としてよく知られている。…
…〈野〉と〈原〉とは区別されて扱われている場合もあるが,その相違は明確でない。日本の律令制においては,山川藪沢とともに野は公私共利とされたが,天皇の支配権の下におかれ,天皇は鷹狩などの狩猟のため河内国交野(かたの),山城国嵯峨野・栗栖野(くるすの)・美豆野(みずの),美濃国不破・安八両郡の野,播磨国印南野(いなみの),備前国児島郡の野などの禁野(きんや)を各地に設定し,また,河内国大庭御野(おおばのみの)のような蔣(まこも),菅,莞(い)を刈る御野を占定している。平安時代以降,王臣貴族や寺社による野の占有,開発(かいほつ)は抑え難い勢いで進み,天皇家も蔵人所(くろうどどころ)猟野を定めており,院政期以後に立券された荘園の四至(しいし)内には,それぞれに区別され,丈量された原と野とが見いだされる。…
※「禁野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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