船頭町
せんどうまち
[現在地名]佐伯市船頭町
佐伯城下の南端、南に番匠川、東に中川が流れ、北は内町川南の大日寺脇筋に至る地域。五ヵ町からなる町人町で、内町と併せて両町と称した。もとは藩雇用の船頭・水夫の居住区であったが、商家の進出により城下町に組入れられたという。慶長一三年(一六〇八)毛利高政の知友の秀乗が当地に大日寺(現高野山真言宗)を開基したのち秀乗の遺臣たちが故領の讃岐国塩飽(現香川県丸亀市)から徳を慕って大日寺の檀越として移住し土着、当町の商家となったという。このため町内に塩飽屋・潮屋・粟屋・讃岐屋の屋号が多かった。
船頭町
せんどうまち
[現在地名]富山市芝園町二丁目・内幸町
神通川左岸に面し、右岸の七間町とは船橋で結ばれ、北陸街道(巡見使道)が通る。町名は船橋を管理する船頭が居住したことによるとされる。船橋向のうち。町絵図の多くは船橋向までは描かれないが、天保二年(一八三一)の浜田焼けのおりの町絵図(県立図書館蔵)は対岸まで記載し、船橋の北岸に舟頭町とみえている。安永八年(一七七九)の書上(「町方旧記抜書」前田家文書)に町名が載り、三丁目まであった。天保一二年の富山町方旧事調理では二丁目までとし、竈数五九、男一〇二・女一一七。
船頭町
せんどうまち
[現在地名]津山市船頭町
吉井川北岸に沿って成立した東西に延びる両側町。東は河原町、西は吹屋町、北は小性町。万治町絵図に町名がみえる。「武家聞伝記」慶長一二年(一六〇七)九月二日条に町名がみえ、町の成立は慶長初年と考えられる。同書寛永元年(一六二四)条に「船頭町石垣」とあり、この頃吉井川の護岸がなされたと思われる。正保城絵図に町屋が記される。元禄一〇年(一六九七)の家数等改帳では船頭町上下として家数九四、本役七五軒半、町筋東西二四五間三尺・通道町幅一間五尺五寸。
船頭町
せんどうまち
[現在地名]小倉北区船頭町・京町一―二丁目
東曲輪の北西部、紫川河口右岸にあり、南は京町。上方通いの小早船の船頭や船方屋敷が立並び、町の東半分は武家屋敷が並ぶ。正保城絵図(国立公文書館内閣文庫)に船頭町とみえる。長門萩の浪人児玉道清は寛永年間(一六二四―四四)当町に入って唐津屋と称し、宿屋を営み、馬関(現山口県下関市)への渡海船(唐津船)を運営した(「小倉商家由緒記」など)。
船頭町
せんどうまち
[現在地名]大分市千代町二―三丁目など
城下北西端に位置する。堀川口(勢家口)から東に延びる三区画からなる町で、南は堀川を挟んで堀川町。同川に沿った道を進むと外堀と同川に挟まれた通りに堀川口番所がある。慶長府内絵図に町名がみえ、東と中央の町は各々東西三一間、西の町は東西三七間、入は各々一五間。正保府内城絵図では東端から北の芦原に向かって通りが延び、新町と記される。南北八七間、東西の入八間。
船頭町
せんどうちよう
下京区西木屋町通四条下ル
南北に通る西木屋町通に面する町で、東側を高瀬川が流れる。
平安京の京域外で、崇親院領となっていた。
町地として開発された時期は確定できないが、角倉了以により高瀬川が開削された慶長以後と思われる。寛文一二年(一六七二)洛中洛外大図に「せんとう町」とあり、以後変更はない。江戸時代は町の北方を川口町と称したが、明治二年(一八六九)に合併され、現在の町域となった(坊目誌)。
船頭町
せんどうまち
[現在地名]高砂市高砂町船頭町
清水町の南にあり、高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、北堀川から三筋目の道沿いに東は東浜町から西は北本町までの東西に連なる町並。安永二年(一七七三)の棟数三一・竈数七四、人数三二一、うち田地持五(「高砂町方明細帳写」船津家文書)。天保一四年(一八四三)の家数五八・人数二三一で、町年寄米屋半兵衛のほか組頭が五人いた(「宗門人別帳」高砂市蔵)。慶長七年(一六〇二)当町生れの赤穂屋徳兵衛は、寛永三年(一六二六)に京都の角倉与一の船で、同七年にはオランダ人ヤン・ヨースチンの船で二度にわたって天竺へ渡った(高砂雑志)。
船頭町
せんどうまち
[現在地名]津市船頭町津興
岩田川河口近くの南岸にあり、慶長一三年(一六〇八)初代藩主藤堂高虎が入府直後、水軍の基地として設置した。津興村に所属したが、武士居住地で城下町に準じた。一般に「せんどまち」と発音する。船頭町には赤橋を通じて御船入(船渠)があり、その北側に三ヵ所の船蔵が設けられ、藩の軍船が保管され、非常の時に備えていた。
船頭町
せんどうちよう
[現在地名]岡山市船頭町
外堀の南方、旭川と西川の間に位置する郭外武家屋敷地。東は旭川、南は二日市町妙勝寺、西は池田要人下屋敷、その向いは西川。北は上内田町・山科町・小原町武家屋敷。寛永城下絵図でも武家屋敷地帯である。「吉備温故秘録」によると池田光政移封前に成立していたが、おおむね西側ばかりで東は土手の町の裏であった。古くより船頭をはじめ船手の者が集住したので町名としたという。加子屋敷が二ヵ所あり、町内に土手の町、東西町、妙勝寺南の武家屋敷三軒などがあったという。
船頭町
せんどうまち
[現在地名]大津市長等二―三丁目
東西を桶屋町に挟まれた形の町屋敷地で、寛保二年町絵図では十字路になっている。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえる。「京都御役所向大概覚書」によれば、桶屋町とともに人足役負担を免除されているが、大津百艘船仲間の船頭が多く居住し、廻船業によって幕府の御用を勤めていたことに由来するという。江戸初期には四七軒あった船仲間ものち他町に移り、享保期(一七一六―三六)には九軒に減り(船頭町共有文書)、油問屋・荷問屋などの居住がみられた(大津市志)。
船頭町
せんどうまち
[現在地名]松山市三津三丁目・住吉二丁目・
神田町の各一部
三津町の北東部を平行して南北に通じる三町の総称。南大工町・北大工町の北に続き堀川に達する町と、上大工町から泉町横丁に続き堀川に達する町と、同心町から続き堀川に達する町とからなる(文政六年八月写三津町絵図)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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