中国、春秋時代の楚(そ)の王(在位前613~前591)。湖北を勢力圏とする楚は、前7世紀ごろから中原(ちゅうげん)に進出し始めた。山東の斉(せい)や山西の晋(しん)によって、楚の中原進出は阻まれる。荘王は県による地方掌握を進展させ、中原を圧迫し、後世覇者と称された。前606年、荘王は洛陽(らくよう)の近くで武威を誇示した。その際、周王室の鼎(かなえ)の軽重を問うたという。楚を評価する者はこれを快挙ととらえ、批判する者は皮肉を述べる。『左伝』に紹介されたこの説話では、鼎は王の徳を議論すべきものであるとし、まだ周の徳は衰えていないとする。軽重を問うたのはお門違いだという評価を示している。前597年、鄭(てい)の救援に出動した晋を大破した邲(ひつ)の戦いも、荘王の名を高めている。荘王は、一度県にした陳を回復したり、食糧に窮した宋(そう)の囲みを解くなどしており、『史記』ではこれを道徳的に評価しているが、一面、文化伝統が異なる中原の地は、掌握することが困難であったことを示している。
[平勢隆郎]
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?~前591(在位前613~前591)
楚(そ)の王。荀子(じゅんし)や孟子(もうし)があげる春秋の五覇の一人。淫楽にふけっていたが,伍拳(ごけん),蘇従(そじゅう)の諫言で名君となる。陸渾(りくこん)の戎(じゅう)を討って洛水まで進軍し,周王の使者王孫満(おうそんまん)からねぎらいを受けた。このときに夏,殷(いん),周と伝えられた鼎(かなえ)の重さを尋ねた。この「鼎の軽重(けいちょう)を問う」とは相手の権威を疑う言葉になった。会盟の主宰者にはならなかったが,陳,鄭(てい),宋との戦いでは,相手に仁愛を示して譲歩した。
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…こののち華北では晋が覇者の地位を保っていたが,南の楚が勢力を増し,北上の力を強め,鄭などをその傘下に入れるに至った。前606年には楚の荘王(在位,前613‐前591)は洛陽の南の蛮族を討ち,周の国境近くで観兵式を行って力を誇示し,周王の使者に対して,王位の象徴として王室に伝えられた九鼎の軽重を問い,これを楚に移して王位を譲ることを暗に求めたといわれる。これ以後,歴史は楚を中心とする南と,晋を中心とする北との対立の形勢となり,両強国の間にあった諸国は,2国の抗争に巻き込まれ,戦いに明け暮れた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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