文宗(読み)ブンソウ(英語表記)Mun-jong

デジタル大辞泉 「文宗」の意味・読み・例文・類語

ぶん‐そう【文宗】

文章文学の面で一派の祖と仰がれるような大家

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精選版 日本国語大辞典 「文宗」の意味・読み・例文・類語

ぶん‐そう【文宗】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 文章・文学にすぐれ一派の祖と仰がれる人。文章・文学の大家。
  2. [ 2 ] 中国朝鮮帝王の廟(びょう)号。中国では唐の第一四代李昂、元の第九代ド=チムール、清の第九代咸豊帝の三帝、朝鮮では高麗の第一一代王徽、李朝の第五代李(りきょう)の二王。

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改訂新版 世界大百科事典 「文宗」の意味・わかりやすい解説

文宗 (ぶんそう)
Mun-jong
生没年:1019-83

朝鮮,高麗第11代の王。在位1046-83年。父は第8代顕宗,母は元恵太后金氏。国家の諸制度が完備されて支配体制がもっとも安定し,高麗文化の華が咲きひらいた時期の国王として知られる。外交的にも宋,契丹,女真などとの関係が比較的平和な時期であったことが幸して,政治,経済,社会の全般にわたって充実した施策が推進された。その代表的なものとしては,1076年に行われた両班(ヤンバン),軍人らに対する土地支給制度(田柴科(でんさいか))の改定と禄俸制の完備,そしてこれらの給与制度改定に関連した官制の組織的な改編が挙げられよう。しかし,制度の完成に続いてあらわれるのはその崩壊の兆しであって,11世紀末~12世紀初めには特に郡県制度,土地制度において矛盾が露呈し,武臣農民の不満がつのりはじめる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文宗」の意味・わかりやすい解説

文宗[元]
ぶんそう[げん]
Wen-zong; Wêntsung

[生]大徳8(1304)
[没]至順3(1332)
中国,元の第9代皇帝 (在位 1329~32) 。名はトゥク・テムル (図帖睦爾) 。諡は聖明元孝皇帝。武宗の次子。北方領主派推戴の泰定帝没後,エル・テムル (燕鉄木児)ら宮廷官僚派の文宗擁立が成功。文宗は父武宗と仁宗の約束で仁宗のあと帝位につくはずだった兄クシャラ (→明宗) に譲位,明宗の皇太子となった。しかしまもなくエル・テムルが明宗をその近臣権勢を恐れて毒殺。結局,文宗が再び即位したが,エル・テムルが専権をふるった。みるべき治績を残さなかったが,学問所の奎章閣 (けいしょうかく) 設置と『経世大典』 (894巻) 編纂が注目される。

文宗[唐]
ぶんそう[とう]
Wen-zong; Wêntsung

[生]元和4(809)
[没]開成5(840)
中国,唐の第 14代皇帝 (在位 826~840) 。姓名は李昂。第 12代皇帝穆宗 (ぼくそう) の次男。母は貞献皇太后蕭氏。宦官王守澄らに擁立されて即位。宦官勢力を除こうとして失敗し,河北三鎮は自立傾向を強め,唐の勢威は衰えた。こうしたなかで,いわゆる牛李の党争が始って生涯これに苦しめられ,また甘露の変が起って,ますます宦官が勢力を強めることとなった。

文宗[清]
ぶんそう[しん]

咸豊帝」のページをご覧ください。

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普及版 字通 「文宗」の読み・字形・画数・意味

【文宗】ぶんそう

文豪。

字通「文」の項目を見る

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文宗」の意味・わかりやすい解説

文宗
ぶんそう

咸豊帝

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旺文社世界史事典 三訂版 「文宗」の解説

文宗
ぶんそう

咸豊 (かんぽう) 帝

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