大和猿楽観世座のシテ役者で3代目の観世大夫。通称三郎,実名元重(もとしげ)。当時は座名が姓同様に通用しており,観世三郎元重と呼ぶのが妥当であるが,現今は観阿弥・世阿弥と並べて,法名の音阿弥(通常はおんなみ)で呼ばれることが多い。世阿弥の弟の四郎の子で観阿弥の孫。世阿弥の通称三郎を襲名しており,一時は世阿弥の養子だったらしい。応永20年代から活動記録があり,1427年(応永34)には青蓮院門跡義円(足利義満の子)の後援で勧進猿楽を興行した。その義円が,翌年に没した足利義持の後継者に選ばれたことから音阿弥の運が開け,新将軍義教(よしのり)の絶大な後援下に音阿弥は世阿弥やその子観世十郎元雅を圧倒するに至る。元雅が早世した翌年の33年(永享5)には音阿弥が観世大夫となり,その披露の意味の勧進猿楽が将軍主催の形で3日間催された。それ以前から観世座の実質上の代表者は音阿弥であり,彼を3代目観世大夫とする(元雅を3代目に数えない)説には十分理由がある。観世大夫は幕府の職名に近いものであった。観世大夫就任後の音阿弥は,一時的に義教の不興をこうむったこともあるが,芸能界の第一人者の地位を持続し,世阿弥の時代には観世と並んで将軍の後援を受けていた田楽新座や近江猿楽比叡座の勢力を失墜せしめ,幕府と観世座の結びつきを不動のものにしている。義教が41年(嘉吉1)赤松邸で音阿弥の能の最中に暗殺された直後は音阿弥も困窮したが,足利義政が彼を後援したため再び時めいた。60歳ごろに出家して音阿弥と称し,子の又三郎政盛(かんぜまさもり)に観世大夫を譲ったが,依然能役者として活動し,政盛が将軍義政の後援で64年(寛正5)に催した糺(ただす)河原勧進猿楽でも,3日間計29番の能のうち12番のシテが音阿弥であった。在世中に〈当道の名人〉と評され,67年に没した際にも〈希代の上手,当道に無双〉と惜しまれており,能役者としては世阿弥以上の達人であったらしい。ほぼ同代の金春禅竹(こんぱるぜんちく)のような伝書著述や能作の実績こそ残していないが,音阿弥が猿楽能への社会的評価を高め,観世座が後代も能界の主流を占める基盤を形成した功績は偉大であり,世阿弥の後継者としての責任は十分果たしている。
執筆者:表 章
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室町(むろまち)時代の能役者。観世流シテ方。実名は観世三郎元重(もとしげ)。流祖観阿弥(かんあみ)の孫、世阿弥(ぜあみ)の甥(おい)にあたる。将軍足利義教(あしかがよしのり)・義政(よしまさ)の寵(ちょう)を得て全盛を誇り、有名な糺(ただす)河原の勧進(かんじん)能をはじめ活発な演能活動をみせた。「希代の上手、当道にならびなし」と評された名人。作品こそ残していないが、能の発展史上重要な人物である。一方、世阿弥・観世元雅(もとまさ)父子の一座は義教の弾圧を受けて衰えた。世阿弥の佐渡配流も、音阿弥に秘伝を譲らなかったためではないかといわれる。不遇の元雅が父に先だって客死したあと、音阿弥が4世観世大夫(かんぜだゆう)を継承したが、なぜかいまの観世家では元雅の大夫就任を代に数えず、音阿弥を観阿弥、世阿弥に次いで3世としている。観世信光(のぶみつ)は音阿弥の第7子。
[増田正造]
(松岡心平)
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…通称三郎,実名元重(もとしげ)。当時は座名が姓同様に通用しており,観世三郎元重と呼ぶのが妥当であるが,現今は観阿弥・世阿弥と並べて,法名の音阿弥(通常はおんなみ)で呼ばれることが多い。世阿弥の弟の四郎の子で観阿弥の孫。…
…1422年ころ60歳前後で世阿弥は出家し,観世大夫の地位を子の観世元雅に譲った。引退したわけではなく,出家後も能を演じ,元雅や次男の七郎元能や甥の三郎元重(のちの音阿弥)らの教導にも熱心だった。子弟の成長で観世座は発展の一途をたどり,彼自身の芸も円熟の境に達し,出家前後が世阿弥の絶頂期であったろう。…
※「音阿弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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