貝塚村(読み)かいづかむら

日本歴史地名大系 「貝塚村」の解説

貝塚村
かいづかむら

[現在地名]上尾市西貝塚にしかいづか

上野うえの村の南西、荒川東岸にあり、荒川の沖積低地に突出する大宮台地西端を占める。東境を平方ひらかたと大宮を結ぶ脇道が南北に通る。北部平方のうちに村名の由来となった縄文時代前期の平方貝塚があり、縄文海進時の奥東京湾の最北端に位置していたとみられる。近世には足立郡差扇さしおうぎ領に属する(風土記稿)。元和九年(一六二三)旗本山内領となり(寛政重修諸家譜)、田園簿では田八石余・畑五二石余、ほかに山内氏納の野銭三七五文がある。元禄二年(一六八九)収公され(寛政重修諸家譜)、国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。同九年の年貢割付状(岡田家文書)によれば高五九石余、反別は田二町九反余・畑七町五反余で林銭永四八七文(反別一町九反余)・下谷原銭永一〇四文などの野銭が課せられていた。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]志摩町東貝塚ひがしかいづか西貝塚にしかいづか

北東は小金丸こがねまる村、西は岐志きし村。可也かや山の西麓に沿って貝塚川(沖田川)が南流する。郡内で一桑(桑原)・二荻(荻浦)・三貝塚と称された好村(元岡村誌)。本来の村名は可也塚であったという(続風土記)。天正一四年(一五八六)四月二九日付で藤瀬織部允が作成した小金丸村指出(藤瀬文書/筑前怡土荘史料(九州荘園史料叢書))に貝塚村とみえ、天神免一段があった。同一九年三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)に小金丸のうち「かいつか村」とあり、田三町余・畠三町七段余。小早川時代の指出前之帳では御床みとこ村のうち。慶長石高帳には貝塚村が二筆みえ、慶長七年(一六〇二)東貝塚村分の検地高二二〇石余、うち大豆三七石余。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]貝塚市海塚うみづか・海塚三丁目・ほり一丁目

貝塚寺内の南東隣にある村で、貝塚寺内とは本来一村であったと推定されている。南郡に属する。海塚村とも書く。元禄郷帳に「海塚かいづか村」、天保郷帳に貝塚村とあり、南海塚みなみかいづか村ともいった(和泉志)。江戸時代中頃から村方を海塚、寺内を貝塚と区別して表記する傾向が強いが、明治一八年(一八八五)内務省地理局編「地名索引」、大正一二年(一九二三)刊「市町村大字読方名彙」には海塚と書いてカイヅカと読ませており、海塚をウミヅカと読むようになったのは近年である。中世、一部は高野山丹生神社領近木こぎ庄に含まれていたようで、永享三年(一四三一)一〇月日付の近木庄高野御段銭田数散用状(高野山文書)に「海塚弐段」とみえる。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]小見川町貝塚

阿玉台あたまだい村の東に位置する。「家忠日記」天正二〇年(一五九二)九月九日条に「かいつか神角介所より使者、音信ニ水鳥十ワ、柿一枝」とみえる。神角介は出自不明であるが、当地に根付き土豪化しつつあった人物といわれ、新領主松平家忠も在地勢力との仲介者として無視できなかったようで、連歌の席にも度々加わっていた(同書同年一〇月二四日条など)。また同書文禄二年(一五九三)一二月二一日条には貝塚来迎らいこう寺とみえる。寛永二年(一六二五)知行宛行状に村名がみえ、高六〇〇石が旗本荒尾領となっている。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]若葉区貝塚町・都賀つが一―二丁目・同四丁目・西都賀にしつが四丁目・桜木町さくらぎちよう

高品たかしな村の南東にある。「千学集抜粋」に「貝塚に物見はたけといへるありて、宮窪と論ありける(中略)神領に落付きぬ」とみえる。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、一〇町の道普請を負担。元和五年(一六一九)から高四一七石余が江戸南町・北町両奉行与力給知となる(「元禄年中地頭所取扱村々記」小倉家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四七〇石で旗本保田領。宝暦一二年(一七六二)当時は南町奉行与力給知(「町奉行与力給知両総村高石高割帳」飯高家文書)。天保七年(一八三六)には筒井伊賀守組与力給知(高橋家文書)


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]金井町貝塚

北は西方にしがた村・横谷よこだに村、東は横谷村・中島なかじま村、西は新保しんぼ村、南は国府こうの川を隔てて皆川みながわ(現新穂村)大部分国仲くになか丘陵の中位段丘にあるが、国仲平野にもかかる。寛文―延宝(一六六一―八一)の頃、大森五右衛門・萩野兵太夫による見立新田の開発があり、このための新田江として殿との江が開削され、このとき集住した住民を田屋と称している(金沢村誌稿本)。元禄七年(一六九四)の検地帳(貝塚区有)では戸口は九五軒・三四〇人。耕地の江領免えりようめん灌漑用水にかかわる地名とみられ、「はり山組七人仲間」の所有で、江は七人の仲間で開発されたと考えられる。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]八日市場市貝塚

飯倉いいぐら村の西に位置する。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属し、一五世紀以降在地領主として千葉氏族の三谷氏が知られる。年月日未詳の宝光寺記録(神作文書)に、応永年間(一三九四―一四二八)(貝塚)村領主三谷蔵人佑」とみえる。同一七年の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に「四百文 未請取出 三谷蔵人殿」とあり、香取社の造営料の額から推算される三谷氏の所領のうち田数一町六反程度は当村にあったものとみられる。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]蓮田市貝塚

蓮田台地の北東部にあり、元荒川の右岸に位置する。西は上閏戸かみうるいど村、南は中閏戸村、東は元荒川を隔てて白岡しらおか(現白岡町)。村内にやまかみ沼と称される五町ほどの池沼がある。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)までは閏戸村に含まれたといわれるが(同書)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)によると、臨時助人馬指定村として「かいつか村」があげられており、この頃から分村化が進んでいたとみられる。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]取手市貝塚

市之代いちのだい村の南に所在。当村の水田はヤツ田で深田であり、農業基盤整備が完成するまではしばしば悪水に悩まされた所で、小貝こかい川のおか(現北相馬郡守谷町)の水落しで問題を起こしていた。田植の婿が帰らないので迎えに行ったら、帽子だけが浮いていて、姿がなかったという伝説を残している。以前は蓮の栽培によって生計をたてる家もあった。

村の成立は定かでないが、昔は上高井かみたかい村・下高井村とともに一村を形成したともいわれている(茨城県町村沿革誌)


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]四日市市貝塚町

内堀うつぼり村の南、内部うつべ川と鈴鹿川の間の平坦地にあり、当村の東方で両河川は合流する。江戸時代は津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の「宗国史」では戸数一七、ほかに郷士一、人数七三。神祠は牛頭ごず天王・八将はつしよう神。寺院は法蔵ほうぞう(臨済宗妙心寺派)。天保一四年(一八四三)に郷蔵を建替えた経費は銀六五八匁五分。この建築は隣村川原田かわらだ村の大工が請負っている(天保一四年「大庄屋記録」鈴鹿市立図書館蔵服部家文書)。この地域は内部川・鈴鹿川の影響を受け耕地は不安定であった。同一五年一〇月には、村方より九・六町余、分米にして一二一石余の地を「皆無畝数願高」として免除を願い、調査の結果六町三反余、七八石余が認められている。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]九十九里町下貝塚しもかいづか

西野にしの村の南東に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高七九石。慶長一四年(一六〇九)の知行宛行状で山辺やまべ郡の「かいつか」三二石余が旗本戸塚氏に与えられた。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では西野組に属し、高七〇石、与力給知。北町奉行組与力給知石高覚(飯高家文書)には下貝塚村とあり、元和五年(一六一九)から江戸南町奉行組与力給知となったとみられる。幕末まで同給知(九十九里町誌)


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]市川市下貝塚しもかいづか一―三丁目・南大野みなみおおの一丁目

曾谷そや村の東に位置し、集落は台地下部に形成されている。南西は宮久保みやくぼ村。延文三年(一三五八)五月三日の日樹置文(弘法寺文書)によると弘法ぐぼう寺の毎月一三日・一五日の講会を「宮窪・貝塚・九栗谷」などの僧俗が勤仕している。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二八二石余、幕府領。以後同領で幕末に至った(旧高旧領取調帳)。天保郷帳では高二一三石余と減少。天明四年(一七八四)の松戸宿の明細帳(山崎家文書)によると、同宿の大助郷に指定され、水戸徳川家や諸大名家の通行の際、人足二人・馬三疋を負担していた。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]川口市東貝塚ひがしかいづか

前野宿まえのしゆく村の北東に位置し、台地と低地が複雑に入組む。村名は台地上に散積する貝の古塚に由来するという(風土記稿)。田園簿では田一九石余・畑一四石余、幕府領。元禄一〇年(一六九七)の検地帳(増田家文書)によると高二四石余、うち田一三石余・畑一一石余、反別田二町五反余・畑三町四反余・屋敷三反余、分米は田一三石余・畑屋敷一一石余。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]加治川村貝塚

紫雲寺しうんじ潟の潟端に位置し、北は小中山こなかやま村、東はうら村、南は寺尾新てらおしん村。正保国絵図に二五〇石余とあり、村上藩領。寛文一三年(一六七三)の組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では金山組に属し、延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)には高二六六石五斗余・反別二〇八町三反余、家数二四・人数一七五とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となるが、享保九年(一七二四)に村の一部が三日市藩領となり、同年の郷村高辻帳(伊藤喜太郎氏蔵)に貝塚村之内一四九石一斗余、同所新田一六石五斗余とある。


貝塚村
かいづかむら

[現在地名]流山市上貝塚かみかいづか

きり村のうち南東部の旗本古田領分が同村から分村して成立した。幕末まで同領(旧高旧領取調帳など)。元禄三年(一六九〇)の訴状(船橋市西図書館蔵)に村名がみえる。享和三年(一八〇三)の小金町六拾七ヶ村高帳では高五二石。上野かみの牧の野付村で野馬捕人足を三人負担、また同牧内に六町八反余の持添新田を開き、享保一五年(一七三〇)桐ヶ谷新田内に一五石余が幕府領として高入れされた。


貝塚村
かいづかむら

現港区の増上寺・青松せいしよう寺の旧地と伝える地名。現在地不明。「江戸名所図会」では麹町一帯の旧称とする。北条氏所領役帳には太田大膳亮が「一木貝塚」で六二貫六〇〇文の知行が記載されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android