辰松八郎兵衛(読み)タツマツハチロベエ

デジタル大辞泉 「辰松八郎兵衛」の意味・読み・例文・類語

たつまつ‐はちろべえ〔‐ハチロベヱ〕【辰松八郎兵衛】

[?~1734]江戸中期人形遣い初世。女方人形名手竹本義太夫協力近松門左衛門の「曽根崎心中」のお初などで人気を博す。のち江戸に下り、辰松座を興した。

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精選版 日本国語大辞典 「辰松八郎兵衛」の意味・読み・例文・類語

たつまつ‐はちろべえ【辰松八郎兵衛】

  1. 人形遣い。初世。女形人形の名手。突っ込み遣いの代表者竹本座創立以来の功労者。「曾根崎心中」のおはつ、「用明天皇職人鑑」の女形人形出遣いで有名。晩年江戸で辰松座を起こし、人形芝居を興行。享保一九年(一七三四)没。

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朝日日本歴史人物事典 「辰松八郎兵衛」の解説

辰松八郎兵衛

没年:享保19.5.9(1734.6.10)
生年:生年不詳
江戸前・中期,人形浄瑠璃の人形遣いの名手。出身地未詳。人形浄瑠璃竹本座に創設当初から加わり,女形人形を遣うのを得意としていたが,当時主流であった一人遣いの素朴な人形に,手妻人形,からくり人形をも併用し,付舞台での出遣いで片手人形,三つ人形,五つ人形などの妙技を見せた。人形を操る人間の身体が客席から透けて見える捩手摺を考案したり,女形人形に足を付けて遣うなど,演出や舞台機構にも終始意欲的に臨み,人形浄瑠璃の発展に寄与した。「曾根崎心中」(1703)の「観音廻り道行」におけるお初の所作は歌舞伎の女形が真似するほどの評判を取り,その後京都の歌舞伎にも客演,「用明天王職人鑑」の「鐘入りの段」の出遣いにも成功した。宝永4(1707)年には,旗揚げ後間もなく豊竹座が不振により中断していたのを初代豊竹若太夫と相座本で再興させた。正徳5(1715)年には再び竹本座で傑作「国性爺合戦」上演に加わった。享保4(1719)年江戸に下り,堺町に辰松座を創設。一子幸助ほか門人も多く,彼自身や彼の遣う女形人形の髪型が辰松風,辰松島田などと呼ばれ庶民に好まれた。「傾城八花形」「曾根崎心中」「卯月の紅葉」などの彼の舞台図や口上書きが残っている。<参考文献>『義太夫年表/近世篇1』,人形舞台研究会編『人形浄瑠璃舞台史』

(平田澄子)

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改訂新版 世界大百科事典 「辰松八郎兵衛」の意味・わかりやすい解説

辰松八郎兵衛 (たつまつはちろべえ)
生没年:?-1734(享保19)

江戸初期の人形遣い。竹本座に出演してその手妻芸で早くから評判をとり,1703年(元禄16)の《曾根崎心中》〈観音めぐり〉の出遣いで不動の地位を固め,歌舞伎の座にも招かれた。06年(宝永3)江戸に下り,翌年帰坂して豊竹若太夫と豊竹座の相座本となり,正徳年間(1711-16)また竹本座に復帰する。19年(享保4)江戸に下って葺屋町に辰松座を興し,34年病没するまで活躍した。彼は手妻人形の妙手として聞こえ,五つの人形を操り,片手で男人形を鬼,観音,もとの男人形,さらに女人形と自在に変化させたり,その至芸のほどは江戸城二の丸上覧興行に結実する。興行手腕も確かで,彼の江戸進出が義太夫節の東漸に果たした役割は大きい。辰松座は弟幸助が2世八郎兵衛を名乗って継承した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「辰松八郎兵衛」の意味・わかりやすい解説

辰松八郎兵衛
たつまつはちろべえ

[生]?
[没]享保19(1734)
人形遣い,人形浄瑠璃座本。元禄~享保期 (1688~1736) の女方人形遣いの名手として知られ,元禄 16 (1703) 年,竹本義太夫 (筑後掾) 演奏の『曾根崎心中』初演で,お初を出遣いで演じた。宝永3 (06) 年1世豊竹若太夫と相座本で豊竹座を経営。その後竹本座で『国性爺合戦』の錦祥女を遣う。享保4 (19) 年頃江戸へ下り,辰松座を創立。以後,江戸人形浄瑠璃の先駆者として活躍した。一人遣い人形の技芸の最高峰といわれ,手妻人形なども見せた。2世は1世の弟幸助が襲名。名跡襲名は3世までで,4世以後6世までは座本のみ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「辰松八郎兵衛」の意味・わかりやすい解説

辰松八郎兵衛
たつまつはちろべえ
(?―1734)

江戸中期の人形遣い。本名、出生地不詳。竹本座創設ごろの女方遣いの名人で、『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』のお初や『用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』の遊女室君などで人気を博し、その好みの髪形は辰松風とよばれて庶民の間に流行したという。1707年(宝永4)豊竹若太夫(とよたけわかだゆう)と相座本(あいざもと)として豊竹座の再興に尽力。のち竹本座に戻り、筑後掾(ちくごのじょう)(初世竹本義太夫(ぎだゆう))没後の危機乗り切りに功があった。19年(享保4)ごろ江戸に下り辰松座をおこし、手妻(てづま)人形と称して妙技を披露した。その子の幸助(1685?―1750)が2世を襲名したが、その年月は不詳。

[山田庄一]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「辰松八郎兵衛」の解説

辰松八郎兵衛
たつまつはちろべえ

?~1734.5.9

江戸前期の人形浄瑠璃の人形遣い。元禄期から大坂竹本座で活躍。女方人形の名手で1703年(元禄16)の「曾根崎心中」初演ではお初をつかう。07年(宝永4)の再興豊竹座では豊竹越前少掾(しょうじょう)とともに座本に名を並べるが,竹本義太夫没後,15年(正徳5)の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」を機に竹本座に戻る。19年(享保4)江戸に下り,翌年葺屋町に辰松座を創始。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「辰松八郎兵衛」の解説

辰松八郎兵衛(初代) たつまつ-はちろべえ

?-1734 江戸時代前期-中期の人形浄瑠璃(じょうるり)の人形遣い。
大坂の竹本座で創設時から活躍。元禄(げんろく)16年「曾根崎心中」でお初の人形をつかって評判となり,一人遣いの名手とうたわれた。宝永4年豊竹若太夫と豊竹座を再興,のち江戸で辰松座をおこした。享保(きょうほう)19年5月9日死去。

辰松八郎兵衛(2代) たつまつ-はちろべえ

1685-1750 江戸時代中期の人形浄瑠璃(じょうるり)の人形遣い・作者。
貞享(じょうきょう)2年生まれ。初代辰松八郎兵衛の弟。江戸の辰松座で活躍。享保(きょうほう)19年兄の病没後2代を襲名し,辰松座をついだ。寛延3年11月24日死去。66歳。初名は幸助。作品に「愛護若都の富士」など。

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世界大百科事典(旧版)内の辰松八郎兵衛の言及

【髪形】より

…江戸中期以後は,これらの髻形を基本として,辰松(たつまつ)風,文金風,本多風という三つの流れをもつ髻形へと移行した。辰松風とは,享保年間(1716‐36)辰松八郎兵衛という人形遣いの名人の結った髻で,髻の刷毛先が短く,先端が急こう配に折れ曲がっていて,根を高く巻きあげその芯に針をさして固定したともいう。文金風とは,上方浄瑠璃の名人宮古路豊後掾の考案と伝えられる。…

【浄瑠璃】より

…義太夫は1684年(貞享1)竹本座を道頓堀に創設,近松の《世継曾我》で好評を得る。98年(元禄11)筑後掾受領,1705年(宝永2)11月の《用明天王職人鑑》以後,竹田出雲(座本),近松門左衛門(作者),辰松八郎兵衛(人形),竹沢権右衛門(三味線)を擁し活躍した。その没後は竹本政太夫(《吉備津彦神社史料》《熊野年代記》に筑後掾悴義太夫の名があり,政太夫は2世義太夫とされてきたが3世か)が近松作品を深く語り分け,豊竹座の若太夫(豊竹若太夫,越前少掾)も紀海音の義理にからむ作風を巧みに観客の時代感覚に訴えて,西風(竹本),東風(豊竹)が競演し,浄瑠璃の近世意識が最高に発揮された。…

【人形浄瑠璃】より

…人形の下から手を突っ込んで遣ういわゆる一人遣いから二人遣い,三人遣いの3方法がある。1703年(元禄16)に《曾根崎心中》のお初を遣った辰松八郎兵衛は突込み人形の名人といわれるが,彼はこのほか,片手人形や手妻(てづま)人形を遣ったという。片手人形は,人形の胴の背後から手を入れて片手で遣ったところから名付けられたが,ときには両手で2体,3体,5体,7体の人形を遣った。…

※「辰松八郎兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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