(平田澄子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸初期の人形遣い。竹本座に出演してその手妻芸で早くから評判をとり,1703年(元禄16)の《曾根崎心中》〈観音めぐり〉の出遣いで不動の地位を固め,歌舞伎の座にも招かれた。06年(宝永3)江戸に下り,翌年帰坂して豊竹若太夫と豊竹座の相座本となり,正徳年間(1711-16)また竹本座に復帰する。19年(享保4)江戸に下って葺屋町に辰松座を興し,34年病没するまで活躍した。彼は手妻人形の妙手として聞こえ,五つの人形を操り,片手で男人形を鬼,観音,もとの男人形,さらに女人形と自在に変化させたり,その至芸のほどは江戸城二の丸上覧興行に結実する。興行手腕も確かで,彼の江戸進出が義太夫節の東漸に果たした役割は大きい。辰松座は弟幸助が2世八郎兵衛を名乗って継承した。
執筆者:信多 純一
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江戸中期の人形遣い。本名、出生地不詳。竹本座創設ごろの女方遣いの名人で、『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』のお初や『用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』の遊女室君などで人気を博し、その好みの髪形は辰松風とよばれて庶民の間に流行したという。1707年(宝永4)豊竹若太夫(とよたけわかだゆう)と相座本(あいざもと)として豊竹座の再興に尽力。のち竹本座に戻り、筑後掾(ちくごのじょう)(初世竹本義太夫(ぎだゆう))没後の危機乗り切りに功があった。19年(享保4)ごろ江戸に下り辰松座をおこし、手妻(てづま)人形と称して妙技を披露した。その子の幸助(1685?―1750)が2世を襲名したが、その年月は不詳。
[山田庄一]
?~1734.5.9
江戸前期の人形浄瑠璃の人形遣い。元禄期から大坂竹本座で活躍。女方人形の名手で1703年(元禄16)の「曾根崎心中」初演ではお初をつかう。07年(宝永4)の再興豊竹座では豊竹越前少掾(しょうじょう)とともに座本に名を並べるが,竹本義太夫没後,15年(正徳5)の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」を機に竹本座に戻る。19年(享保4)江戸に下り,翌年葺屋町に辰松座を創始。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…江戸中期以後は,これらの髻形を基本として,辰松(たつまつ)風,文金風,本多風という三つの流れをもつ髻形へと移行した。辰松風とは,享保年間(1716‐36)辰松八郎兵衛という人形遣いの名人の結った髻で,髻の刷毛先が短く,先端が急こう配に折れ曲がっていて,根を高く巻きあげその芯に針をさして固定したともいう。文金風とは,上方浄瑠璃の名人宮古路豊後掾の考案と伝えられる。…
…義太夫は1684年(貞享1)竹本座を道頓堀に創設,近松の《世継曾我》で好評を得る。98年(元禄11)筑後掾受領,1705年(宝永2)11月の《用明天王職人鑑》以後,竹田出雲(座本),近松門左衛門(作者),辰松八郎兵衛(人形),竹沢権右衛門(三味線)を擁し活躍した。その没後は竹本政太夫(《吉備津彦神社史料》《熊野年代記》に筑後掾悴義太夫の名があり,政太夫は2世義太夫とされてきたが3世か)が近松作品を深く語り分け,豊竹座の若太夫(豊竹若太夫,越前少掾)も紀海音の義理にからむ作風を巧みに観客の時代感覚に訴えて,西風(竹本),東風(豊竹)が競演し,浄瑠璃の近世意識が最高に発揮された。…
…人形の下から手を突っ込んで遣ういわゆる一人遣いから二人遣い,三人遣いの3方法がある。1703年(元禄16)に《曾根崎心中》のお初を遣った辰松八郎兵衛は突込み人形の名人といわれるが,彼はこのほか,片手人形や手妻(てづま)人形を遣ったという。片手人形は,人形の胴の背後から手を入れて片手で遣ったところから名付けられたが,ときには両手で2体,3体,5体,7体の人形を遣った。…
※「辰松八郎兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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