日本の巡礼の一つで,とくに四国地方を一巡する四国八十八ヵ所霊場巡拝をさす。今日ではふつう〈遍路〉と書かれるが,この文字が使われるのはおもに明治時代に入ってからで,江戸時代以前はもっぱら〈辺路〉〈辺路〉と記され,ごくまれに〈徧礼〉と書かれることもあった。鎌倉時代の弘安年間(1278-88)のものと思われる醍醐寺文書の一通にはすでに,修験者たちの修行の方法として山林抖擻(とそう)(山野をめぐり歩くこと)や山ごもり,西国巡礼とならんで〈四国辺路〉があげられている。さらに平安時代にまでさかのぼると,四国の霊場をあらわすことばは〈四国の辺地〉であった。《梁塵秘抄》には,〈我等が修行せしやうは,忍辱(にんにく)袈裟をば肩に掛け,又笈を負ひ,衣はいつとなくしほたれて,四国の辺地(へち)をぞ常に踏む〉と歌われていて,このころ一群の宗教者たちが,都を遠くはなれた辺境の地,つまり〈辺地〉を修行の場としていたことがわかる。また《今昔物語集》では,〈四国の辺地〉とは伊予,讃岐,阿波,土佐の海辺を巡る道だとされている。この辺地ということばは,今日四国地方で四国巡拝者をさすもう一つの呼び名,〈ヘンド(辺土)〉とも相通じると思われる。つまり,かつて四国の辺地,辺土で修行した行者たちの間に弘法大師(空海)の聖蹟を巡るという意識が高まるにつれ,やがて辺地を巡る道,すなわち〈辺路〉ということばが生み出され,定着してきたのであろう。
→四国八十八ヵ所
執筆者:真野 俊和
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日本の各種の巡礼のなかで、四国八十八か所霊場を巡る巡礼をとくに遍路といい、その巡礼者そのものも遍路(お遍路さん)という。この文字は中世末から江戸時代初めに用いられ始めたもので、それ以前は「辺路」と書かれ、『今昔(こんじゃく)物語集』(12世紀前半)や『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』(12世紀後半)では「へじ」と読まれた。これが海辺の路(みち)をさしたことは『今昔物語集』(巻31第14話)で明らかであるが、それには「四国辺地」と書かれている。このような「海辺ノ廻(めぐり)」の修行が四国の弘法大師(こうぼうだいし)信仰と結合して、弘法大師空海の旧跡を巡る巡礼になったのが遍路である。
[五来 重]
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…四国の島内に散在する,弘法大師(空海)ゆかりの霊場88ヵ所を,順を追って参詣する巡礼コースで,四国八十八ヵ所弘法大師霊場とも称する。一般にはこれを〈遍路〉〈お四国〉などと呼んで,観音霊場の巡礼と区別している。遍路が霊場に参詣すると,そのしるしに〈南無遍照金剛〉と弘法大師の宝号を記した札を納めることから,八十八ヵ所の寺々を札所(ふだしよ)ともいう。…
…それも単に来世への願いだけでなく,家族の年忌供養とか病気平癒の願いとか,ときには千人宿などの願をたててするなどさまざまな意味あいがこめられていたため,かつてこの風習は非常にさかんであった。ことに四国霊場を巡拝する遍路(へんろ)などは托鉢と接待宿だけで四国を一巡できるほどだったという。宿を恵まれた場合は必ずその家の仏壇に供養し,出立のときは納札を1枚置いていくのがならわしであった。…
※「遍路」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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