室町時代の能役者,能作者。観阿弥とほぼ同時代に活躍した金春権守(こんぱるごんのかみ)の孫で,金春弥三郎の子。通称不明。実名氏信。ただし1437年(永享9)までは貫氏と称したらしい。大和猿楽四座の本家格たる円満井座(えんまんいざ)/(えまいざ)(竹田の座)の30代目の棟梁と自称し,〈金春式部大夫〉と署名している。晩年に出家し,法名が賢翁禅竹。後世は大夫号と法名を結んで金春禅竹と呼ばれることが多い。竹田大夫とも呼ばれ,〈竹翁居士〉と署名してもいる。世阿弥の女婿。祖父の金春権守は,世阿弥には田舎猿楽視された(《申楽談儀》)ものの,かなりの達者だったらしく,金春の名は彼に始まり,《昭君》の作者でもあった。父の弥三郎は1386年(元中3・至徳3)に興福寺衆徒から大夫に補任され,後に円満井座の棟梁の地位を金春権守の長兄光太郎の子の毘沙王(びしやおう)次郎から譲られたものの,早世したらしく,禅竹は父の芸についてひと言もふれていない。そのためか禅竹は岳父の世阿弥に教導を仰ぐことが多かったようで,金春大夫になった後の1428年(応永35)には《六義(りくぎ)》を,1428年(正長1)には《拾玉得花》を世阿弥から相伝されており,その奥書や《却来華》の文言から,世阿弥が禅竹の将来に嘱望していたことが知られる。義兄の観世元雅も〈一大事の秘伝の一巻〉(《花鏡》か)を見せるなど,禅竹に好意的であった。現存する2通の禅竹あて世阿弥書状も両者の親密な関係を語っており,世阿弥の佐渡配流中に禅竹が料足を送り,世阿弥の妻の寿椿(じゆちん)を扶養していたことも知られる。世阿弥著述の秘伝書を預かってもいたらしく,37年(永享9)貫氏書写の宝山寺本《花鏡》は,その間に禅竹が写したものと推定されている。
世阿弥没後の能界を代表したのは観世の音阿弥(おんあみ)と金春の禅竹であった。将軍に後援された音阿弥ほど花やかではなかったが,禅竹は,本拠地の大和はもとより河内,丹波,近江,山城から北陸にまで及ぶ広範な活動で,金春座を観世座に対抗する勢力たらしめ,晩年には音阿弥とともに斯界の双璧視されていた(心敬《ひとりごと》等)。金春流中興の祖といえよう。60歳ころに子の七郎元氏に家督を譲って出家し,64歳の1468年(応仁2)には山城の薪庄の多福庵に住んでいた(《猿楽縁起》)が,3年後の文明3年には故人であった(一条兼良《申楽後証記》)。
禅竹は究理的性格の持ち主だったらしく,能楽論書著述の面で世阿弥の後継者であった。《五音之次第》《歌舞髄脳記》《五音三曲集》《六輪一露之記》《六輪一露之記注》,《六輪一露秘注(寛正本・文正本)》《至道要抄》《明宿集(めいしゆくしゆう)》などが彼の著で,その論はかなり難解で,理論的脆弱(ぜいじやく)さをも含んでいるが,仏教的哲理や歌論などを借りて能の本質を説明しようとしている点に特色がある。禅竹の理論の中核である六輪一露説に,前関白一条兼良,東大寺戒壇院の普一国師志玉,堺の禅僧南江宗沅(そうげん)らが協力しており,一休宗純と親しかったという説には根拠がないものの,禅竹が当代一流の人物から後援を受けていたことは確かである。そのことが彼の能楽論の深化に役立っていない点が惜しまれる。禅竹はまた能の作者としても注目に値する業績を残した。《賀茂》《定家》《芭蕉》《玉葛》《楊貴妃》《雨月》《小塩(おしお)》《小督(こごう)》など10数曲が彼の作と推定されており,主題不明確の難はあるものの,花やかさの中に哀愁感や渋みをたたえた佳曲が多い。能楽論の場合と同様に同等の評価はできないが,能作の面でも禅竹は岳父世阿弥の後継者であったと言えよう。
執筆者:表 章
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(松岡心平)
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室町中期の能役者、能作者。金春流シテ方。実名は七郎氏信(うじのぶ)。金春流中興の大夫(たゆう)として、奈良を中心に活躍。世阿弥(ぜあみ)の娘婿。温厚誠実な人柄だったらしく、世阿弥の佐渡配流中は物心両面の援助をしており、芸の指導を仰いでいる。世阿弥から数々の伝授を受け、音阿弥(おんあみ)と併称された名手だが、演能活動の華々しい音阿弥に対し、芸術論、作能の分野で真価を発揮している。理論書に『六輪一露(ろくりんいちろ)』『歌舞髄脳記(かぶずいのうき)』『五音三曲集』『明宿集(めいしゅくしゅう)』ほか。世阿弥の理論を哲学的、仏教的に深め、また歌道との合一を説くが、抽象論に傾いている。これは、学僧の志玉、歌人の正徹(しょうてつ)、学者の一条兼良(かねら)との交友の影響もあろう。作品は世阿弥の夢幻能の系統に属し、『雨月(うげつ)』『芭蕉(ばしょう)』『玉葛(たまかずら)』『小塩(おしお)』など。閑雅な作風。『嵐山(あらしやま)』『一角仙人(いっかくせんにん)』などの作者、金春禅鳳(ぜんぽう)は禅竹の孫。
[増田正造]
『表章・伊藤正義編『金春古伝書集成』(1968・わんや書店)』
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1405~70?
室町中期の能役者・能作者。大和猿楽四座の本家格の円満井(えんまんい)座の棟梁で金春大夫。実名貫氏(つらうじ)・氏信。法名賢翁禅竹。竹翁(ちくおう)・賢翁・式部大夫・竹田大夫とも称する。金春権守の孫。父は弥三郎。世阿弥の女婿。没年は1468~71年(応仁2~文明3)の間。大和を中心に各地で活動し,晩年は音阿弥に匹敵する実力者となった。禅竹は世阿弥に師事し,主要伝書はすべて所持または一見したらしく,世阿弥理論を総合して独自の論も加え,「歌舞髄脳記」「五音三曲集」「六輪一露之記」「至道要抄」「明宿集(めいしゅくしゅう)」などを著した。能では「芭蕉(ばしょう)」「定家」「小塩」「玉鬘(たまかずら)」「楊貴妃」などが彼の作と推定され,世阿弥の歌舞能を継承しつつ,哀愁美にみちた独自の世界を築いた。
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… このように猿楽能の大成に力を尽くしたのは観阿弥・世阿弥父子であるが,なんといっても,観阿弥における小歌がかりのメロディと,早歌のリズム(拍節理論)の結合,世阿弥における幽玄化の推進と複式夢幻能の確立・昇華という内的拡充,南都の春日神社・興福寺,多武峰(とうのみね)の談山神社・妙楽寺,それに室町幕府の庇護という外的条件が,この系統を正統化し,永続させるエネルギーとなるのである。世阿弥の長男観世元雅は,現世に生きる人間の魂の極限状況を叙すことをライフワークとし,世阿弥の女婿金春禅竹は,実作,理論ともに,岳父の世界の延長線を描いて,両人ともに卓抜である。このあたりが,猿楽能の第1次完成期であろう。…
…三番目物。金春(こんぱる)禅竹作か。シテは式子(しきし)内親王の霊。…
…近江猿楽には犬王(いぬおう)(後の道阿弥)という幽玄風の名手が出たが,後継者に恵まれず,室町中期から急速に衰えた。一方,大和猿楽は観世座を先頭に他の3座も力を伸ばし,観世元雅(もとまさ),金春禅竹(ぜんちく),観世信光(のぶみつ)らがそれぞれの持ち味の作能を行うなどして,他の地方の猿楽を圧倒した。 桃山時代の豊臣秀吉は大の能好きで,猿楽者の保護に気を配り,みずから舞台にも立った。…
… 世阿弥以降も夢幻能は能作の中心,または基本であった。世阿弥の子息観世元雅(もとまさ)作の夢幻能は,彼が早世したこともあって《吉野琴》(廃曲)1曲しか確認できないが,女婿にあたる金春(こんぱる)禅竹には《定家(ていか)》《芭蕉》《玉葛》などがあり,花やかさを押さえた寂寥(せきりよう)感の漂う作風を特色とする。作者不明の《野宮(ののみや)》《東北(とうぼく)》《三輪》など,今日上演頻度の高い女能も世阿弥以後の作のようである。…
…鬘物(かつらもの)。金春禅竹(こんぱるぜんちく)作ともいう。シテは楊貴妃の霊。…
…能楽論書。大和猿楽の金春(こんぱる)座中興の名手,金春禅竹(ぜんちく)の代表的著述の一つ。内容は,禅竹自身の六輪一露の説に,南都戒壇院の普一国師志玉(1379‐1463)が仏教の教理で,関白一条兼良(いちじようかねら)(1402‐81)が儒学,とりわけ宋学の立場からそれぞれ理論づけした加注を添え,さらに臨済宗の僧で後に還俗した南江宗沅(なんこうそうげん)(1356‐1463)の跋文を付して一書に編んでいる。…
※「金春禅竹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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