南北朝時代の能役者。初代の観世大夫で能楽シテ方観世流の始祖。世阿弥の父。〈かんなみ〉とも呼ぶ。実名は清次(きよつぐ)。芸名が観世。観世が子孫に世襲され,後に座名ともなった。出家号(法名)が観阿弥陀仏で,観阿,観阿弥はその略称。大和の多武峰(とうのみね)近辺で活動したらしい山田猿楽の,美濃大夫の養子の三男で,長兄が宝生大夫だった。多武峰寺(談山神社)・興福寺・春日神社の神事芸能に参勤する義務と権利を持つ大和猿楽四座の一つの結崎(ゆうざき)座(創立は鎌倉中期以前か)に所属し,早くから同座の能役者の棟梁だったらしい。南北朝期には猿楽能より田楽能の質が高く,足利尊氏らの権力者も田楽の本座・新座を後援していた。観阿弥は田楽本座の一忠(いつちゆう)を模範として芸を磨き,後述する音曲改革などで台頭してきた。本拠の大和以外の地でも活動し,1371年(建徳2・応安4)に摂津の須磨で観世大夫が勧進能を催した旨の記録もある。その前後の醍醐寺での演能以来京洛に名声が高まり,京極道誉や海老名南阿弥ら有力者にも引き立てられた。
75年(天授1・永和1)かその前年かに子の世阿弥(当時12歳)を伴って京都の今熊野で猿楽能を催したが,それを将軍足利義満が見物し,以来彼は観世親子に絶大な後援を与えるようになった。そのおかげで,観阿弥は天下に名声を挙げ,観世大夫が将軍のお抱え役者的地位を占めるに至ったのである。それまでは翁猿楽専門の長老が演じる定めだった《翁》を観阿弥が演じ,能役者が《翁》を演じる先例を開いて,本来の座衆たる翁猿楽専門の芸人と能役者の分離が進んだのも今熊野猿楽以来で,この催しは日本芸能史上の画期的なできごとであった。猿楽能が田楽能と対等の評価を獲得したのもこの催しで,以後は漸次猿楽能が田楽能を凌駕するに至る。晩年の観阿弥は還俗して清次に戻り,当時は時期不定だった興福寺の薪猿楽を2月上旬に固定するのに寄与したりしている。84年,観阿弥は駿河へ下り,5月4日には浅間神社で老木の花の咲くごとき名演を見せたが,5月19日に同地で没した。享年52歳。なお,幼名観世丸(みよまる)説,将軍同朋説,伊賀出身説,伊賀小波多創座説,結崎座創立説などの観阿弥伝に関する旧説は,根拠がなく,みな誤りと思われる。
世阿弥伝書の記事によると,観阿弥は,大男だったのに女能では細々とした印象を与える卓越した演技力を持ち,大和猿楽の伝統たる物まね・義理のおもしろさ主体の能や鬼能のみならず,歌舞主体の幽玄な能をも得意とする芸域の広い役者で,都鄙上下の観客を魅了したという。とくに音曲に天才的能力を有し,能の音曲に大改革を加えて成功したことが,彼の出世の背景であり,最大の業績でもあった。それまでの猿楽能の謡は,旋律(メロディ)のおもしろさを主眼とする小歌がかりだったが,観阿弥は,白拍子系統の叙事的歌舞で南北朝期に流行した曲舞(くせまい)の音曲の長所を摂取し(曲舞の一派たる賀歌女(かがじよ)の乙鶴に学んだ),拍子(リズム)のおもしろさを加えた新風の謡(曲舞がかり)をうたい出した。応安(1368-75)初年のことで,独立の謡い物として作詞作曲した《白髭の曲舞》が最初の新風音曲である。続いて《由良湊曲舞》《西国下》等を作曲したが,この新風の謡が人気を博し,やがて観世節(観阿弥風の謡)が一世を風靡したという。既存の曲をもほとんど歌い替え,観阿弥時代に能の音曲は大転換をとげたらしい。また観阿弥は能の作者でもあった。《自然居士(じねんこじ)》《小町(卒都婆(そとば)小町)》《四位少将(通(かよい)小町)》が代表作で,世阿弥時代に改作されたらしく,後代の詞章が観阿弥作のままとはいえないものの,素材が民衆に身近で,劇的な起伏に富み,会話が生き生きとし,物まね的おもしろさと歌舞的興趣が混融している点に特色がある。広い階層に支持された彼の芸風がそのまま反映し,発展期の能の自由な様式の生きた作風といえよう。観阿弥の手に成る多くの能が,夢幻能が主流となった世阿弥時代に埋没してしまったことが惜しまれる。そうした能の創作や音曲の改革によって能の質を著しく向上させ,今熊野猿楽を契機として室町幕府と観世座を結びつけ,600年に及ぶ能楽の発展の基礎を築いたのが観阿弥であった。その基礎に立脚して舞歌幽玄能の花を咲かせた子の世阿弥とともに,能の大成者として評価されているのは当然のことといえよう。
執筆者:表 章
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南北朝時代の能役者、能作者。観世(かんぜ)流の初代大夫(たゆう)。実名結崎清次(ゆうざききよつぐ)、通称三郎、芸名観世。大和(やまと)(奈良県)の古い山田猿楽(さるがく)の家に生まれ、のちに結崎座(観世座)を創立する。1374年(文中3・応安7)初めて京都に進出し、12歳の長男世阿弥(ぜあみ)とともに今熊野(いまくまの)で演じた新しい芸能は、青年将軍足利義満(あしかがよしみつ)の心をとらえた。以後は義満後援のもとに世阿弥と2代にわたって能を大成した。座の属した大和猿楽の演劇性を基礎としながら、ライバル的芸能であった田楽(でんがく)の長所や、近江(おうみ)猿楽の唯美主義を取り入れ、世界でも類のない長い生命力をもつ演劇、現代まで演じ継がれる能の基礎を打ち立てた。当時流行していた曲舞(くせまい)を能の主要部分に導入し、従来のメロディ本位の小謡節(こうたぶし)に、リズムとテンポのおもしろさを加えた音楽上の改革も観阿弥の大きな功績である。作品に『自然居士(じねんこじ)』『卒都婆(そとば)小町』『四位少将(しいのしょうしょう)』(『通(かよい)小町』の原作)などがあり、いずれも創成期の生気に満ちた傑作である。とくに俗語までを駆使した会話のおもしろさは比類がない。ほかに『江口(えぐち)』『求塚(もとめづか)』の作曲(あるいは作詞も)、『松風』の原作などもある。芸術論としての著書は残していないが、世阿弥の『風姿花伝(ふうしかでん)』(花伝書)は観阿弥の教えを忠実に祖述したものである。いかにして観客の心をとらえるかという「花」の戦術論と、「幽玄」の美の本質、歌舞の二道、つまり音楽的要素と舞踊的要素の融合による演劇の方向が述べられ、日本を代表する芸術論である。役者としても力感に満ちた幽玄無上の名人であり、大男ながら女性の役に扮(ふん)すると細々とみえ、『自然居士』では10代の美少年を演じきったという。晩年に至るまであらゆる芸域にわたる能をみせ、貴族階級から遠国の一般大衆までを魅了したことが、世阿弥の遺著によって知られる。駿河(するが)(静岡県)に巡業中、52歳で客死。1983年(昭和58)には没後600年の催しが各地で行われた。
[増田正造]
『野上豊一郎著『観阿弥清次』(1949・要書房)』▽『戸井田道三著『観阿弥と世阿弥』(岩波新書)』
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(松岡心平)
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1333~84.5.19
南北朝期の能役者・能作者。初代観世大夫でシテ方観世流の祖。実名清次(きよつぐ)。芸名観世,のちにこれが座名となる。観阿弥は擬法名観阿弥陀仏の略称。世阿弥の父。大和国の山田猿楽,美濃大夫の養子の三男で,通称三郎。大和猿楽四座の結崎(ゆうざき)座に属し,能役者の棟梁として大和国以外でも活動し,1375年(永和元・天授元)頃に京都今熊野(いまくまの)の能で将軍足利義満(よしみつ)に認められ,天下に名声を博した。この催しで,猿楽座本来の座衆である翁(おきな)猿楽専門の芸人と能大夫の分離が決定的となり,芸能史上の画期とされる。広い芸域で観客を魅了し,能の音曲に革命をもたらした。能作者としても「自然居士(じねんこじ)」「四位少将(しいのしょうしょう)(通小町(かよいこまち))」などが知られる。84年(至徳元・元中元)駿河国で客死。
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…観世が子孫に世襲され,後に座名ともなった。出家号(法名)が観阿弥陀仏で,観阿,観阿弥はその略称。大和の多武峰(とうのみね)近辺で活動したらしい山田猿楽の,美濃大夫の養子の三男で,長兄が宝生大夫だった。…
…また南北朝から室町初期にかけて猿楽者の集団は座の体制をとるようになり,各地に猿楽の座が存在した。なかでも大和猿楽の四座,近江猿楽六座が名高く,ことに大和の結崎(ゆうざき)座の観阿弥・世阿弥父子によって今日の能の基礎が固められるのである。
[猿楽の役者]
当時の有名な役者たちを挙げると,〈田楽〉の一忠・花夜叉・喜阿弥・高法師(松夜叉)・増阿弥(〈田楽〉も猿楽とさして距離をおかぬものであって,世阿弥伝書にも総合的に論じられている),近江猿楽の犬王(いぬおう),大和猿楽の金春権守(こんぱるごんのかみ)・金剛権守などである。…
…室町時代初期の能役者,謡曲作者。観阿弥の子で2代目の観世大夫。生年は貞治3年とも考えられ,正確な没年・享年は不明(1436年には健在)。…
…老女物。観阿弥作。シテは老後の小野小町。…
…大和猿楽の中心は興福寺支配の4座,すなわち円満井(えんまい),坂戸,外山(とび),結崎(ゆうざき)の座で,これが後に金春(こんぱる)座(金春流),金剛座(金剛流),宝生座(宝生流),観世座(観世流)と呼ばれるようになる。結崎座を率いる観世という名の役者(後の観阿弥)は,技芸抜群のうえくふうに富み,将軍足利義満の愛顧を得て京都に進出し,座勢を大いに伸ばした。観阿弥の功績は,物まね本位だった大和猿楽に,近江猿楽や田楽の歌舞的に優れた面をとり入れたこと,伝統であった強い芸風を幽玄(優美とほぼ同義)な芸風に向かわせたこと,リズムを主とした曲舞(くせまい)の曲節を導入したことなどである。…
…狂女物。世阿弥作だが,クセは観阿弥作曲の《李夫人の曲舞(くせまい)》。シテは照日前(てるひのまえ)(狂女)。…
…鬘物(かつらもの)。古作の《汐汲(しおくみ)》を原拠にした観阿弥作の能に,世阿弥が改作の手を加えたもの。シテは海人(あま)松風の霊。…
…ただ,興福寺属となった後でも法隆寺の祭礼には勤仕していたらしい。金剛座という呼称は観阿弥と同時代の金剛権守に由来するようである。また外山座と結崎座の歴史がある程度明確になってくるのは,〈山田みの大夫〉なる猿楽の孫の宝生大夫,生市(しよういち),観世の3兄弟のうち,長兄の宝生大夫が外山座の,末弟の観世(観阿弥)が結崎座のそれぞれ大夫となった南北朝ころからである。…
…結崎が歴史地名として著名なのは,能楽の観世座がその草創期にここに本拠をすえたことによる。観世流の祖観阿弥清次は,伊賀国で成長し,小波多(現,名張市)で一座を結成し,結崎に移って座名も結崎座(ゆうざきざ)と改めたといわれてきた。芸風の上でも経済的にも一座の基礎を固め,結崎座は大和猿楽四座の一つとなった。…
※「観阿弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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