門田村(読み)もんでむら

日本歴史地名大系 「門田村」の解説

門田村
もんでむら

[現在地名]庄原市門田町

西城さいじよう川の北岸に位置し、東と北は川北かわぎた村、西は濁川にごりかわ村と接する。恵蘇えそ郡に属した。文永二年(一二六五)三月二五日付の山内宗光譲状(山内首藤家文書)に「備後国地庄内河北郷本門田参町壱反、畠のさかいハほんけんに顕然也、屋敷相具地頭職事」とあり、中世にはじび庄内河北かわぎた郷に含まれた。文保元年(一三一七)一二月一二日付の関東下知状(同文書)にも「備後国地庄河北村内門田」とみえ、その他の中世文書にも「河北内門田」の記載がある。

庄の地頭山内氏は、荘内各所には庶子家を配置し、領主権の拡大につとめたが、山内宗光の子孫(のちに万田を名乗る)が門田の地頭職を相伝しており、貞和三年(一三四七)一〇月二三日付の左衛門尉家政請文案(山内首藤家文書)では万田家資が地頭であったことが知れる。


門田村
かどたむら

[現在地名]岡山市東山ひがしやま一―三丁目・御成町おなりちよう徳吉町とくよしちよう一―二丁目・奥市おくいち門田文化町かどたぶんかまち一―三丁目・門田本町かどたほんまち一―四丁目・平井ひらい三丁目・国富くにとみ二丁目

網浜あみのはま村の北、旭川の下流左岸に位置し、岡山城下に東接する。牛窓うしまど往来が通る。伝承によると地名は玉井たまい宮の門前に集落が開けたことにちなむという。寛永九年(一六三二)池田光政入封後、当地に侍屋敷(門田屋敷)が建てられたため、農家(村方)は東方山寄りの地に移された。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)宇治うじ郷のうちに村名がみえ、寛永備前国絵図では高五四二石余。


門田村
もんでんむら

[現在地名]井原市門田町

木之子きのこ村の南にあり、東は走出はしりで(現笠岡市)、西は西方にしがた村。慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状(高山公実録)に村名がみえ、後月しつき郡に属し高七〇五石余、伊予の藤堂高虎に加賜されている。寛永備中国絵図では山崎家治先知とあり、正保郷帳では幕府領で枝村に小山村が記される。延宝五年(一六七七)検地帳(後月郡誌)には古検有畝六〇町余とあり、田方四六町余・分米五九五石余、畑方二四町九反余・分米一五七石余、屋敷一町五反余・分米一五石余で、茶六四株・楮六三株。


門田村
かどたむら

[現在地名]弥栄村門田

長安本郷ながやすほんごうの北東に位置し、長安川の支流門田川に沿う。郷帳類では長安村に含まれた。中世は永安ながやす別符のうち。延慶三年(一三一〇)一一月三日の尼良円譲状案(吉川家文書)に「かとた」とみえ、尼良円(永安兼祐後家)が永安別符を分割し、永安本郷を弥二郎(兼員)に、残る門田を孫夜叉(尼良海、吉川経茂室)に譲っている。しかし、永安兼員と姉の良海の間で所領争論となり、正中二年(一三二五)九月、個々の所領を等分することで和解が成立した。翌嘉暦元年(一三二六)一二月一〇日,兼員が提出した石見永安別符以下地頭職分文(吉川家文書)によると、門田分一三町は門田川に沿って、大歳宮本までは北を兼員領、南を良海領とし、宮下から土橋渡瀬本・二段田尻道までは北を良海領、南を兼員領と定めている。


門田村
もんでんむら

[現在地名]大分市皆春みなはる

乙津おとづ川左岸の沖積地に位置し、西は千歳せんざい村、東は中島なかしま村。中世高田たかた庄門田名の遺称地。慶長一三年(一六〇八)の大分郡門田村之内中島村検地帳写(二巻本「大分市史」)があった。寛永一一年(一六三四)亀川藩(のち中津留藩・高松藩)領になったと考えられ、明暦四年(一六五八)松平(大給)忠昭の府内入部の際幕府領になり(同年「御取ヶ郷帳」府内藩記録など)、天和二年(一六八二)から貞享三年(一六八六)の日田藩領時代を除いて正徳二年(一七一二)まで幕府領(寛文五―六年肥後熊本藩預地)、正徳二年日向延岡藩領となり幕末まで変わらず。


門田村
もんでむら

[現在地名]作木村門田

東から西へ突出した山塊を村域とし、南西北の三方をごうの川が囲む。集落は山塊の縁の川辺に点在する。東は香淀こうよど村、対岸は高田郡の諸村。「芸藩通志」は「もんでん」と訓ずる。慶長年間(一五九六―一六一五)別作べつさく村が三ヵ村に分村して成立した村(国郡志下調書出帳)で、元和五年(一六一九)の備後国知行帳は「文田村」として高二四六・七九八石を記す。

享保七年(一七二二)写の三次郡覚書(広島大学蔵)によると、毛付高は田がわずかに六町三反余(高七七石余)、畠は一六町余(高九八石余)で田一反当りが一石二斗余、畠のそれは六斗一升余にすぎない。


門田村
もんでんむら

[現在地名]酒田市穂積ほづみ

日向につこう川中流左岸、若王寺やこうじ村の西にあり、地内を井皿いざら溝が西流する。吹浦ふくら(現飽海郡遊佐町)大物忌おおものいみ・月山両所宮の獅子頭御鉾を荒瀬郷に渡すとき、当地を首途とすることにちなんで首途かどで村と称し、のち門田の字を用い、さらにもんでんと称したという(「出羽国風土略記」など)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高八石余。寛永元年庄内高辻帳では門田村・西方にしかた村が併記され、高六五石余。


門田村
かどたむら

[現在地名]酒田市門田、東田川郡余目あまるめ久田きゆうでん

木川きがわ村の南、最上川下流左岸に位置し、酒田街道が通る。正平一九年(一三六四)奥州なか(現福島県相馬市)の相馬顕胤領となり、代官が門田館に居住したと伝える(旧山形県史)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では枝郷の久田村(現余目町)と合せて高四七三石余。寛永元年庄内高辻帳の高は一千九〇石余。元禄八年(一六九五)には久田村をのぞいて田高七五〇石余・畑高八三石余(「反別帳」門田区有文書)


門田村
かどたむら

[現在地名]東郷町門田

長和田なごうた村の西、東郷池に流入する羽衣石うえし埴見はなみ両川下流の沖積平野大平おおひら山東麓に位置する。なお正嘉二年(一二五八)一一月作成の東郷庄下地中分絵図や条里復元の結果などから、東郷池は当地の集落近くまで及んでいたと考えられ、近世以降に干拓されたものとみられる。天文二三年(一五五四)三月の検注注文断簡(岡本家文書)に作人として「門田ノまんさい」の名がみえる。


門田村
かんたむら

[現在地名]弥生町門田

小田こだ村の南西、提内ひさぎうち川が番匠ばんじよう川に合流する地点南に位置。郷帳類では切畑きりはた村に含まれたと思われる。文政六年(一八二三)の懐中記(弥生町教育委員会蔵)に切畑村組の一村として村名がみえ、田高四四一石余・反別三四町七反余、畑高二八五石余・反別三二町余、免四ツ三分、御立林五ヵ所がある。旧高旧領取調帳では高八三八石余。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)によれば、地内に深田ふかた須平すひらさこ久保野平くぼのひらがある。


門田村
もんでむら

[現在地名]総社市門田・駅前えきまえ一丁目・中央ちゆうおう二丁目

八田部やたべ村の北に位置する。「備中誌」に「古ハ井尻野、小寺、門田、福井、一村と云」とある。寛永備中国絵図では高四〇六石余、旗本蒔田領。正保郷帳では同領井尻野いじりの村の枝村に記されるが、元禄郷帳では独立して記され同領。以後幕末まで同領。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では高五八四石。文久三年(一八六三)蒔田広孝は江戸市中警備の功によって一万石に高直しされて大名に列せられ、当村の浅尾あさおに陣屋を置いた。


門田村
もんたむら

[現在地名]中之口村中之口・門田

船越ふなこし村の北に位置し、元来小吉こよし村の一部で船越村市右衛門新田として寛永八―一二年(一六三一―三五)に分離、寛文八年(一六六八)門田村を称したといわれ、集落は通称東門田と西門田に分れる。寛永一三年の新潟与亥御成ケ本帳(菊屋文書)によれば前年に五一石八斗の年貢米を上納とみえ、同一八年の新潟与巳割付本帳(同文書)には「船越市(ママ)新田」として高二七六石五斗余、うち三石八斗余が枯引、残り二七二石七斗余は免四ツ・取米一〇九石余、ほかに見取一石二斗を合せ取米合計一一〇石二斗余とある。


門田村
かどたむら

[現在地名]八千代町門田

赤坂あかさか村の北に位置し、野間のま川が南流する。慶長国絵図に村名が記載される。正保郷帳では田方三七石余・畑方一〇石余、山役・鉄砲役・いかき役があり、幕府領。旧高旧領取調帳でも同領。野間川沿いの竹藪がいかきの材料の供給地であり、とくに当村の門田箕は知られている。天保郷帳では高四五石余。当村は一戸当りの平均持高が一石八斗余で少ない。


門田村
もんでむら

[現在地名]浜田市治和町ちわちよう

三宅みやけ村の東に位置し、東は周布すふ川を隔てて周布村、南は吉地よしじ村。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高一一三石余、年貢高は田方六四石余・畑方七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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