能の曲目。四番目物、または三番目物にも扱う。観世、宝生(ほうしょう)、金剛、喜多の四流現行曲。世阿弥(ぜあみ)による古作の改作であるが、現行の曲は世阿弥以後の改作。雲林院を訪れた『伊勢(いせ)物語』マニア(ワキ)の前に老人(前シテ)が現れ、桜に関する歌問答のすえ、在原業平(ありわらのなりひら)であることを暗示して消える前段、業平の亡霊(後シテ)が殿上人(てんじょうびと)の姿で登場し、二条の后(きさき)との恋を物語り、美しい叙情を舞う後段が現行の形である。世阿弥自筆本が残されているが、後半に二条の后と、その兄の藤原基経(もとつね)が鬼の姿で現れる全然違った内容で、中世に流行した『伊勢物語』に関する口伝の立体化という色彩がいっそう強い。世阿弥本による復活上演は、1982年(昭和57)8世観世銕之丞(てつのじょう)ほかの手で実現した。
[増田正造]
「うんりんいん」ともいう。京都市紫野大徳寺の南にあった寺。現在、雲林院(うじい)の地名として残っている。淳和(じゅんな)天皇の離宮雲林亭が、仁明(にんみょう)天皇の離宮となり、第7皇子常康親王に与えられた。親王はのち出家し、死去に際して天台の教えを伝えるように、法眼(ほうげん)遍昭(へんじょう)(のちに僧正)に付嘱(ふしょく)した。遍昭は元慶寺(がんけいじ)の別院とし、仁明天皇の忌日には『金光明経(こんこうみょうきょう)』を、安居(あんご)の九旬の間には『法華経(ほけきょう)』を講じさせることとした。のち、遍昭の子少僧都(しょうそうず)由性(ゆいしょう)が別当となった。サクラ、紅葉の名所として知られ、古来、多くの和歌に詠まれた。歴史物語『大鏡(おおかがみ)』は、当寺の菩提講(ぼだいこう)(5月に『法華経』を講ずる)に詣でた老人たちと若侍の対話を記録した形をとっている。
[田村晃祐]
かつて京都大徳寺の南にあった大寺。もとは淳和天皇の離宮紫野院。869年(貞観11),遍昭僧正が寺に改め,平安・鎌倉時代に天台の官寺として栄えた。そのころ当寺は菩提講と花の名所で有名で,《今昔物語集》《大鏡》の題材となり,また《古今集》以下の歌集で歌の名所となった。在原業平が《伊勢物語》の筋を夢で語る謡曲《雲林院(うんりんいん)》の舞台にもなったが,やがて当寺は応仁の乱で廃絶した。
執筆者:藤井 学
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…そのころ当寺は菩提講と花の名所で有名で,《今昔物語集》《大鏡》の題材となり,また《古今集》以下の歌集で歌の名所となった。在原業平が《伊勢物語》の筋を夢で語る謡曲《雲林院(うんりんいん)》の舞台にもなったが,やがて当寺は応仁の乱で廃絶した。【藤井 学】。…
…船岡山の西,往古葬送地として知られた蓮台野も紫野の一部であった。大徳寺の地にあった雲林(うりん)院は,はじめ淳和天皇の離宮として創建され,紫野院と称された。【奥村 恒哉】。…
※「雲林院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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