日本歴史地名大系 「養泉寺」の解説 養泉寺ようせんじ 京都府:福知山市中村養泉寺[現在地名]福知山市字中 上中上中(かみなか)の南端右手にある。山号明光山、臨済宗南禅寺派、本尊薬師如来。開山は三光国済国師、創建は暦応二年(一三三九)というが、縁起書は明治二九年(一八九六)の火事で焼失。「丹波志」に「猪崎村醍醐寺末寺、(中略)境内東西十七間南北十四間、外ニ山林二ケ所、醍醐寺創建ノ前、国済国師住之、寺八間ニ四間、観音堂、鎮守熊野権現」とある。「横山硯」は、足利尊氏が猪崎(いざき)に醍醐(だいご)寺建立を決心し、弟直義を普請奉行として丹波へ下した時、国師を養泉庵という小庵へ招き、国師はそこから普請所へ日々通ったという話を記す。 養泉寺ようせんじ 兵庫県:姫路市旧印南郡地区福泊村養泉寺[現在地名]姫路市的形町福泊龍古山と号し、浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来。「増訂印南郡誌」によれば、和泉堺の医師養泉が蓮如に帰依し出家、明応八年(一四九九)実如から絵像を下付され開基となったという。天文六年(一五三七)二世養安が証如から木仏・寺号を下付され、寛保二年(一七四二)順誓によって再建されたという。末寺帳によれば、享禄三年(一五三〇)建立で、開基は円了、帰参年次は不詳。播州船場本徳寺縁起(智恵袋)によれば、慶長(一五九六―一六一五)頃には本徳(ほんとく)寺教円(准専)に供奉した本覚(ほんがく)寺(のち佐土福乗寺)明順の甥円了が住した。 養泉寺ようせんじ 千葉県:成田市東和泉村養泉寺[現在地名]成田市東和泉松巌山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。近世は上総国真里谷(まりやつ)(現木更津市)の真如(しんによ)寺の末寺であった。寛永一〇年(一六三三)の龍穏寺本末帳に「山屋敷在之」として下総養泉寺とみえ、当寺のこととみられる。天正九年(一五八一)当地の和泉(いずみ)城(東和泉城)が滑川(なめがわ)城(現下総町)城主織田左京大夫政治の攻撃を受け、城主大須賀八郎教胤は自ら火を放ち落城したという。 養泉寺ようせんじ 三重県:松阪市松坂城下職人町養泉寺[現在地名]松阪市中町山号は龍松山、曹洞宗。本尊は釈迦如来。「権輿雑集」に引く寺伝に「開山実山禅真和尚者、相州之産、彼地兵乱故、離郷行脚、伊勢参宮之序、松ケ嶋に止宿、語其家主云、我是行脚之僧也、此辺若有棲息之地、可留錫、主云、当郷有古寺、謂養泉寺、此寺年代深遠而堂宇幾飽風霜、今幸無住也、遂相約令住持」とあり、開山禅真が相模国から流浪して松(まつ)ヶ島(しま)養泉寺に住持として定住した経過を記し、次いで松坂城下建設とともに移転したこと、禅真が勅許を得、紫衣などを与えられ永照禅師の号をうけた事情などを述べている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by