高町(読み)たかまち

日本歴史地名大系 「高町」の解説

高町
たかまち

[現在地名]浜松市高町

本坂通に沿う武家屋敷地で、紺屋こうや町の西の坂上に位置。徳川家康が浜松入城を果した折、家臣榊原小平太が高町の万松院に居を構えたという(曳駒拾遺)元禄(一六八八―一七〇四)頃の青山家御家中配列図(浜松市博物館蔵)などによると東高町と西高町に分れ、南に連なる秋葉あきは町・半頭はんとう町も含め屋敷数八〇。中級家臣の屋敷が多かった。当地の桜は有名で、青山忠雄や賀茂真淵も遊んだという(「仰青録」財団法人青山会蔵)。天保一〇年(一八三九)水野忠邦が藩校の経誼けいぎ館を、水野氏移封後に井上正春がその跡地克明こくめい館を置いた(浜松市史)


高町
たかまち

[現在地名]氷見市伊勢大町いせおおまち一丁目・南大町みなみおおまち本町ほんまち地蔵町じぞうまち

南十町の一つで、氷見町の外畑の高地に寛政年間(一七八九―一八〇一)人々が居住するようになって当町ができ(氷見市史)、高地だったので高町と名付けられたという。散町の一つ。祇園祭礼に文政一二年(一八二九)初めて曳山を南一〇町の一つとして曳回しており(応響雑記)、曳山を造るだけの財力をもつようになった。



たかつじちよう

下京区室町通高辻下ル

南北に通る室町むろまち(旧室町小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条三坊二保五町東側及び同三保一二町西側。平安中期以降は高辻室町小路南の地。

「後法興院記」明応四年(一四九五)一〇月二二日条に「於高辻室町土一揆数十人打取云々、町人并土蔵方衆相戦云々」とあり、この時は土一揆が洛中に乱入して二条辺りまで攻上り、所々の土倉を襲っているが、当町周辺では土倉衆と町衆が協力して一揆勢を討取っている。


高町
たかまち

[現在地名]有明町大字

廻里めぐり村の北にあり、長崎街道多良たら往還に沿った田園地帯にある街村。慶長絵図に町名がみえる。

この地域は鎌倉時代は日向通益(のちの白石氏)の所領で代々白石氏の領地であったが、室町時代以後平井氏の所領となり、天正二年(一五七四)竜造寺隆信のため平井氏は敗れ、江戸時代は佐賀藩の大配分としての須古すこ領。


高町
たかまち

[現在地名]鶴岡市山王町さんのうまち

新山下しんざんしたの東、新山東小路しんざんひがしこうじより一本東側にあり、北部で東へ折れて下山王社(現日枝神社)南を通り、あら町へ突き当る町並。下山王社の社人蓮池(伊予守)氏の屋敷と足軽・中間屋敷がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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