中央アメリカ東端、南北アメリカ大陸を結ぶパナマ地峡を占める国。正称はパナマ共和国República de Panamá。北はカリブ海、南は太平洋に面し、東はコロンビア、西はコスタリカに接する。中央部に地域を貫通するパナマ運河がある。面積7万5517平方キロメートル(運河面積を含む)、人口328万4000(2006年推計)、340万5813(2010年センサス)。首都はパナマ市。
[今野修平]
パナマの国土は、北緯9度線と西経80度線がほぼ中央を走り、南北アメリカ大陸がもっとも狭くなった地峡部を占めている。コルディエラ造山褶曲(しゅうきょく)帯による褶曲山脈が、東西を長軸にする緩いS字型に湾曲している部分にあたり、北のカリブ海にモスキトス湾、南の太平洋にパナマ湾を形成している。パナマ湾の西側はアスエロ半島が南に突き出し、その西にコイバ島が浮かぶ。国土の骨格をなす褶曲山地はパナマ運河地帯を鞍部(あんぶ)として、東西両方向へ高さを増している。コスタリカ国境に近い西部地域は標高1000メートル以上の高地となり、最高峰はチリキ火山(バルー火山。3475メートル)である。最大幅150キロメートル程度の細長い国土の中央を脊梁(せきりょう)山脈が走るため、大きな河川には恵まれない。コロンビア国境に近い東部地域やカリブ海沿岸の低地帯は雨量が多く、深い熱帯雨林に覆われて人口希薄の所が多い。西部太平洋岸は乾期(1~4月)もあり、アスエロ半島と鞍部の中央地帯がおもな居住地域となっている。
[今野修平]
1501年スペイン人ロドリゴ・デ・バスティーダスRodrigo de Bastidasがパナマ地峡を「発見」。1502年、コロンブスの第4回(最終回)航海でモスキトス湾岸が探査され、1510年には早くも東部のダリエン湾岸にスペインの植民地が建設された。1513年にはダリエンの知事・探検家バルボアが地峡部を越えて太平洋岸に達し、アメリカ大陸の交通の要衝として注目されるに至った。1519年にはパナマ市の地に植民地が建設され、またコロン北東のポルトベロに港湾がつくられ、パナマはスペインが南アメリカに植民する基地としての役割を果たした。1821年には、スペインから独立した大コロンビア連邦共和国の一州として植民地支配から脱した。19世紀中ごろ、アメリカのカリフォルニアで金鉱山が開発されると、アメリカの東部と西部を結ぶ交通路として、パナマ地峡が大きな注目を集め、1855年にはカリブ海岸と太平洋岸の間に地峡横断鉄道が完成した。1881年にはフランス運河会社がレセップスの指導で運河建設に着手したが失敗した。その後を継いだアメリカ政府は、運河建設にかかわる条約の締結をコロンビアに拒否されたため、利害の一致するパナマ地峡住民の独立運動を援助し、その結果、1903年11月パナマ共和国として独立が達成された。
独立後、アメリカはパナマと運河条約を締結し、運河の両側各8キロメートルの地帯(パナマ運河地帯)の永久租借権、治外法権、武力干渉権を確保し、1914年にパナマ運河はアメリカによって完成した。パナマ運河の建設は、資金や人口の流入などによりパナマの経済の発展を促し、とくに運河の入口に位置するパナマ市の繁栄をもたらした。しかし、独立後のパナマの政情は不安定で、1930~1960年代にいくつかの政権が交代した。この間、運河条約に典型的に示されているアメリカの植民地的支配に反対する運動が広がった。
1968年の軍部のクーデター後実権を握ったオマール・トリホス将軍は運河条約の改定交渉に乗り出し、1977年には新パナマ運河条約が締結され、アメリカは1999年12月31日をもってパナマ運河を全面的にパナマに返却することになった。1981年トリホスが航空機事故で急死、その後司令官ノリエガManual Antonio Noriega Moreno(1934―2017)が軍政をしいたが、1989年末アメリカが軍事侵攻し、1990年には麻薬密輸の容疑でノリエガを逮捕した。1994年に大統領選挙が行われ民主革命党(PRD=Partido Revolucionario Democrático)のバジャダレスErnesto Pérez Balladares Gonzálezが当選して政情は落ち着いた。大統領の連続再選は禁止されており、1999年の大統領選挙ではアルヌルフィスタ党(現、パナメニスタ党)のミレヤ・モスコソMireya Elisa Moscoso de Ariasが当選し、パナマでは初の女性大統領となった。パナマ運河は新運河条約の下、1999年12月31日に返却された。また同年11月には独立以来駐留していたアメリカ軍基地13も返還され、アメリカ軍は全面撤退した。
[今野修平]
政体はアメリカに倣った立憲共和制である。政治の実権は、かつては他のラテンアメリカ諸国と同様、地主をはじめとする一部の富裕階級の手に握られていた。1968年の軍部のクーデター以後、軍が有力な政治勢力となり、軍主導で政治が展開されたが、1983年の憲法改正を経て、民政確立の道を歩んでいる。1989年のアメリカ軍侵攻、翌1990年のノリエガ逮捕といった混乱もあったが、1994年の大統領選挙以降、大きな混乱はない。
政体は内閣の首班でもある元首の大統領、これを補佐する副大統領を頂点とする行政府、71議席の一院制議会、三審制の司法で構成され首相はいない。政党はパナメニスタ党(PP=Partido Panameñista)20議席、民主変革党(CD=Cambio Democrático)18議席、民主革命党(PRD)26議席(議席数は2011年8月時点)等があり、2009年の大統領選挙で野党連合のリカルド・マルティネリRicardo Alberto Martinelli Berrocal(1952― )が当選、約40年間続いたPRDとPPによる二大政党政権交代の構図が崩れた。
外交の基本は国連中心の全方位外交であり、国連加盟は1945年。台湾との外交関係を維持し、2010年パナマを含む中米6か国はヨーロッパ連合(EU)と自由貿易協定(FTA)の締結に最終合意した。
外交の素地となる国民感情はアメリカの植民地支配に対する反米感情も一部で根強い反面、パナマ運河が経済的な中心であるだけにアメリカとの関係は多面的で深いものがある。軍隊は1989年のアメリカ軍侵攻により1990年に解体、1999年のパナマ運河の正式返還に伴いアメリカ軍基地も閉鎖され、これにかわって国家保安隊が編成された。国家保安隊は国家警察隊(約1万1000人)、海上保安隊(約600人)、航空保安隊(約400人)からなり、治安予算は2億6900万ドルである(2009)。
2009年に策定された国家5か年計画(2010~2014)によると、流通、観光、農業の3分野を、今後の経済を担う重要な分野としてインフラ整備や政策立案・組織強化等を進め、また社会問題の解決を図るために教育・産業分野の人材育成を進めるとしている。
[今野修平]
パナマ経済は、建国以来パナマ運河を中心とする西半球の通商センターとしての地理的位置を、最大の経済基盤としてきた。そのためパナマ運河、港湾、コロン自由貿易地域(パナマ運河の大西洋側出入口コロンの一角)を中心とする第三次産業がGDP(国内総生産)の約75%を占める(2008)。これにパナマ運河関係の収入を加えると、約80%に達し、消費財の大半を輸入に依存して国民生活を成り立たせている。そのため、他のラテンアメリカ諸国と比べると農林水産業や工業が脆弱(ぜいじゃく)で運輸、金融、商業、観光のサービスを主体にするきわめて特異な経済であるが、GDPが230億9000万ドル(2008)、1人当りGNP(国民総所得)6180ドルとラテンアメリカでは高い水準を示してきた。
経済成長率は2004年以来年7%を超え、2007年には11.5%に達した。世界経済危機の影響もさほど深刻でなく、2009年の経済成長率は2.4%であった。しかし産業間所得格差は大きく、国土利用でも地域格差が生じて、パナマ市中心の大都市圏に集中した産業立地と近隣諸国も含めた地方からの激しい人口流入が課題となっている。この基本的経済体質を活用し、かつ弱点克服を期待して1953年に設立されたコロン自由貿易地域は1600社に達する外国企業が進出する世界有数の中継貿易センターに発展し、パナマの国民経済を支える主役となり、流通加工化もあって工業発展の道も切り開いてきた。
第一次産業の主要産品は米とサトウキビで漁業ではエビの生産が多く、近年はバナナ、コーヒー、パイナップルが輸出能力を高め、総輸出額(FOB)の約15%に達するようになった(2008)。農林水産品の輸出能力は小さいが食料自給率は低くなく、畜産は西部サバナ気候地域で肉牛の生産がなされている。国内市場が小さいことが第一次産業、第二次産業ともに発展の阻害要因の一つであり、運河やコロン自由貿易地域のもつ通商センター機能を活用して外国の市場・資本と結びついた発展が基本条件となってきた。コロン自由貿易地域に次ぐ第二の戦略プロジェクトは、1970年の国際金融センターの開設で、順調に成長して1990年代末には金融機関数は126行に達し、外貨導入および輸出志向工業の振興政策と結びついてコロン自由貿易地域との相乗効果をもたらしている。第三の戦略プロジェクトは、急進展した世界のコンテナ輸送で狭隘(きょうあい)化したパナマ運河の拡張工事である。かねてより日本、アメリカ、パナマを中心に第2パナマ運河構想等が検討されていたが、2006年パナマ運河の拡張の是非を問う国民投票が実施され、圧倒的な多数で承認された。これまでの水門にほぼ並行する形で新たな接続航路と3段式水門を建設することが決定し、2007年に起工、運用開始は2016年6月になった。水深12メートル、幅員33.4メートルのドックが、水深15.2メートル、幅員55メートルに拡幅増深され、コンテナを約1万3000個積むことができる(2012年時点では4500個積み)大型コンテナ船の通航が可能となり、世界の海上交通地図を大きく変えることになる。
2010年度のパナマ運河の年間通航船舶数は1万4230隻、通航収入は14億8209万ドル、貨物量2億0482万トン。東アジア経済の活性化を反映して徐々にアジア出入貨物が増えている。このほかに、パナマ市郊外にある国際空港では南北アメリカ航空路の中継基地機能と中米・カリブ海地域のハブ空港としての機能拡充強化を進めており、国際交通の拠点強化をして通商センター、金融センターと重ね合わせて中枢機能の盤石化を図っている。
地峡部には横断道路と横断鉄道があるが、最大の基幹道路であるパン・アメリカン・ハイウェーはパナマ市の東250キロメートルの国境近くでとぎれて未通区間を残しており、コロンビアには抜けられない。今後は渋滞化が進む大都市圏での交通整備が課題で、着工している地下鉄建設への期待が大きい。
財政は歳入の伸び悩みと内外債務の金利支払いに追われているが、経済成長率は公共事業投資や大都市圏への経済集積による旺盛(おうせい)な都市需要にも支えられ高い水準を維持している。歳出は教育費がもっとも多く、政策的に教育の向上が重視されている。貿易は輸入超過で、おもな輸出品目は農水産品、衣料、おもな輸入品目は石油、工業製品、消費財である。貿易相手国はアメリカと近隣諸国が多く、入国者、観光客の流入も同様である。使用通貨はバルボア。
[今野修平]
住民の70%はメスティソ(混血)で、ほかに黒人14%、白人9%および30万人弱の先住民族がいて、先住民自治区が5地区設定されている。
公用語はスペイン語、宗教はキリスト教のカトリック教徒が多数を占める。識字率は政府の努力もあって高く95%を超えるが、農村部は都市部よりも非識字率が高い。教育施設は高校が574(公立369、私立205)、大学が34(国公立5、私立29)あり、年々卒業生が増加している。そのほかに職業訓練センターが35ある(2007)。
パナマはスペイン人によるアメリカ大陸植民の最初の基地となったこともあり、16世紀に建設されたスペイン都市跡地(パナマ・ラ・ビエハ)、パナマ旧市街地、ポルトベロ要塞(ようさい)群の世界文化遺産や先住民村など国際観光文化資源に恵まれ、注目を集めている。
[今野修平]
日本とは1904年(明治37)に国交を樹立し、1962年(昭和37)相互に大使館を開設している。中継貿易の関係で、日本にとってパナマは中米諸国のなかで最大の貿易相手国となっている。日本にとってパナマ運河の存在は大きく、2007年(平成19)10月から2008年9月までのパナマ運河通過貨物量の発着国比率をみると、日本はアメリカ、中国、チリに次いで第4位となっている。このため第2パナマ運河構想の検討等パナマ運河の機能拡充分野を中心に1980年代より技術協力、経済援助等が進められ、対パナマ経済協力実績でもアメリカ、スペインに次いで第3位となっている(2004~2007)。また、日本の船舶登録の約70%がパナマ籍船で、このためパナマの日本からの輸入には便宜置籍船(事実上の船主の所在国とは異なる国に籍を置く船)が計上されていることもあり、輸入額が統計上日本への輸出額の615倍にもなるという極端な輸入超過となっている。最近ではパナマ運河拡張や首都圏の都市建設需要に支えられ、日本からショベルカー、ブルドーザー類などの建設機械の輸入が急増している(2008)。
日本在住のパナマ人はわずか64人(2009)で、中米6か国ではもっとも少なく文化交流も盛んとはいえない。パナマ政府の国家5か年計画(2010~2014)とも絡み、今後の課題といえよう。ラテンアメリカ諸国のなかでも、ブラジル、メキシコに次いで日本企業の進出が多いが、1980年以降は減少傾向が続いており、現地の日本人学校の生徒数も減少している。
[今野修平]
『日本貿易振興会編・刊『パナマ』(1984)』▽『国本伊代・小林志郎・小沢卓也著『パナマを知るための55章 エリア・スタディーズ』(2004・明石書店)』▽『小林志郎著『パナマ運河拡張メガプロジェクト』(2007・文眞堂)』
中央アメリカ、パナマ共和国の首都。パナマ湾に面し、パナマ運河の太平洋側入口近くに位置する。人口46万3093(2000)。パナマ運河地帯に入り込んでいるが、衛生、検疫を除きパナマの主権下にある。ラテンアメリカの他国の首都と異なり、標高が低いため高温多湿で、最高気温は各月とも30℃を超え、平均気温も27℃前後で年間の温度変化はほとんどない。雨期には午後に大粒のスコールが降り、赤色の表土を溶かした水が街路にあふれ、豪雨のため都市機能が停止するほどである。1519年に建設され、スペインのラテンアメリカにおける植民地支配の拠点となったが、1671年イギリスの海賊によって破壊され廃墟(はいきょ)と化した。1674年旧市街地の東方10キロメートルの現在地に再建され、カリブ海沿岸のコロンに通じる鉄道の開通やパナマ運河の建設によって急速に発展し、1903年首都となった。台地上の山の手地区は並木のある街路が整ったスペイン風の町並みが残る歴史地区で、政庁、大統領官邸、教会、商社や高級住宅街がある。ここには南アメリカ独立運動の指導者シモン・ボリーバルの会議場(サロン・ボリーバル)が残っており、歴史地区とともに1997年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。低地の下町は密集した市街地で、社会資本の整備も立ち遅れている。国際運河、国際空港、国際金融センター、国際賭博(とばく)場などの施設が集積する国際都市である。
[今野修平]
中南米に産するパナマソウの葉を細かく裂き漂白したもので、これを繊維に使い織成または編組(へんそ)して生地(きじ)とし、帽子、座ぶとんなどをつくる。この模造品に三角藺(い)(台湾産のパナマ帽子の原料で、本パナマの模造品として使われた)を使ったものや紙製のものもある。
また、梳毛(そもう)織物の一種で、経(たて)に綿糸、緯(よこ)に梳毛糸を使い、平織または斜子(ななこ)織とし、外観をパナマ帽子の生地に類似させたものがある。軽快な風合いをしていることから、夏のドレス地、スーツ地などに使われる。
[角山幸洋]
基本情報
正式名称=パナマ共和国Repúbulica de Panamá
面積=7万5417km2(運河地帯を含む)
人口(2010)=350万人
首都=パナマPanama(日本との時差=-14時間)
主要言語=スペイン語
通貨=バルボアBalboa
北アメリカ大陸と南アメリカ大陸をつなぐ地峡に位置し,太平洋と大西洋を結ぶ交通の要衝を占める共和国。面積は日本の約5分の1で,北海道より少し小さい。国名の由来についてはいくつかの説があるが,16世紀初頭スペイン人が中央アメリカを征服していったころ,この地に住んでいたクエーバ族が魚の豊富な場所や漁師のことを〈パナマ〉と表現していたことに由来するといわれている。
国土を東西に縦断するようにチリキ山脈,タバサラ山脈,サン・ブラス山脈が走っており,国土の大部分が丘陵と山地である。活火山であるチリキ山(3475m)が最高峰。川も多いが,短小で,トゥイラ川,バヤノ川,チャグレス川が比較的大きい。赤道に近いため亜熱帯性の気候で,1月から4月までは乾季とされるが,一年中高温多雨である。行政的には九つの州と一つの地区(コマルカ)に区分され,人口の大半はパナマ市やコロン市などの都市に集まっている。東部のカリブ海側から東端のコロンビアとの国境地帯(サン・ブラス地方,ダリエン地方)には,スペイン人による征服以前からのインディオが居住しており,文化的にも独自のものが見られる。言語はインディオ以外はスペイン語を用いるが,パナマ運河地帯を通じたアメリカ合衆国の文化,米語の影響も大きいといわれる。
1968年10月に国家保安隊がクーデタを起こし,軍事評議会が政権を握り,国会を閉鎖し,憲法を停止した。69年12月大統領にデメトリオ・ラカスが就任したが,実権はトリホス国家保安隊司令官が掌握し,その指揮下で地方行政単位〈コレヒミエント〉を基礎に全国代議員会議が設置された。72年には選挙を実施して505名の代議員を選出,新しい憲法が採択された。全国代議員会議はトリホス将軍に78年まで国家統治の全権を付与した。78年には第2回選挙が行われた。このとき1969年以来活動を禁止されていた政党が,新しい政党法の下で活動を開始した。政府与党は民主革命党である。そのほかに中道のキリスト教民主党,自由党,右派政党としてパナメニスタ党がある。トリホスの国家主席としての任期終了に伴い,78年に選出されたアリスティデス・ロヨ大統領は民主化改革に取り組み,84年5月の大統領選では,与党の推すバルレッタNicolas Ardito Barlettaが当選したが,85年9月の政変で追放され,副大統領であったデルバジェEric Arturodel Valleが大統領に就任した。この政変の背後には1984年に国防軍総司令官に就任したノリエガManuel Antonio Noriega将軍がいた。87年ころからノリエガの指揮する国防軍の腐敗暴露が始まり,政情不安が続いた。88年2月にはアメリカのフロリダ州連邦大陪審がノリエガを麻薬密輸の容疑で起訴する事態となった。アメリカのブッシュ大統領は89年12月20日アメリカ軍のパナマ侵攻を強行,90年1月ノリエガ将軍を逮捕し,アメリカに連行して裁判にかけた(92年に禁錮40年の判決)。一方パナマではエンダラ新政府により国防軍が解体された。さらに94年の大統領選では民主革命党のバジャダレスが当選した。
1993年の国内総生産は66億ドル,1人当りの国民総生産は2580ドルとなっている。労働力人口は約80万人で,内訳は農林水産業26.3%,鉱業0.3%,製造業9.5%,商業19.8%,公務員・サービス業27%などとなっている。農業就業者が比較的多く,米・トウモロコシなどを生産する。バナナは世界の生産量の2.2%を占め,パナマの重要な輸出生産物で,93年には約69万tを輸出した(世界の輸出量の5.9%に相当)。しかし,パナマは毎年10億ドルを超える輸入超過国で,中南米の中でも輸入依存度が高い国の一つである。これをパナマ運河からの収入やその他の収入によってカバーしている。パナマ運河からの収入はおよそ3億ドルを超え,またパナマ運河地域に残されているアメリカ軍基地でのパナマ人の雇用へのアメリカ軍の支払いは3億ドルを超える。また96年にコロン市のフリーゾーンでの課税の動きがあったが撤回されたため,フリーゾーンでの企業活動が上向きになっている。
パナマは1903年11月まではコロンビアの領土であった。19世紀末,レセップスはパナマ地峡を横断して太平洋・大西洋間を結ぶ運河建設に乗り出したが,失敗に終わった。アメリカ合衆国とイギリスは運河を両国の支配下におくためさまざまな画策をするが,セオドア・ローズベルト大統領のとき,コロンビアの政情不安を利用し,合衆国はパナマの分離独立を強引に図った。このようななかで,パナマは03年11月3日に独立した。合衆国は新政府を独立の3日後に承認し,パナマの全権大使と称するフランス人ビュノー・バリーヤP.J.Bunau-Varilla(1860-1940)と合衆国の国務長官ヘイJ.M.Hay(1838-1905)の間で11月18日パナマ運河条約が調印された。この条約により,成立したばかりのパナマ共和国は運河地帯で二分されることになった。パナマの歴史はまさにパナマ運河の歴史であるといってよい。
パナマ運河は13年に合衆国の手で完成した。パナマ運河地帯は合衆国の領土であり,これを防衛することがパナマの政治,経済の主要な課題とされ,パナマの国民の利益は犠牲にされてきた。合衆国は公然とパナマの政治に干渉し,パナマの領土内で軍隊を自由に行動させることができた。パナマは形式的に独立国の形をとっているだけで,合衆国の植民地的支配を受けていたといえる。このような合衆国の政策に,パナマの国民はしだいに不満を強めていく。その最初の現れは1925年のパナマ人の反米闘争であった。ただちに合衆国軍が鎮圧したが,この事件を契機にパナマ運河地帯の返還要求が明確に行動として現れるのである。31年に成立したアルヌルフォ・アリアスArnulfo Arias(1901-88)を中心とする政府は,1903年条約の全面的改訂交渉に入った。そして36年のハル=アルファロ条約で,パナマ運河地帯の主権はパナマにあることを合衆国に確認させた。
パナマ人の反米闘争のいっそうの前進は,第2次大戦後のアメリカ軍基地反対闘争に見られる。合衆国はパナマ各地のアメリカ軍基地を戦後も引き続き使用するため圧力をかけたが,パナマ国民の反対が激しく,46年12月ついに合衆国は協定の批准をあきらめ,運河地帯以外のアメリカ軍基地は一掃されることになった。56年スエズ運河が国有化されると,パナマ国民は運河地帯にパナマ国旗を掲げることを要求し,合衆国と全面的に対決するに至る。これにより60年代後半にパナマの政情は激動するが,トリホスの出現で大きな変化を遂げていく。トリホスは1970年に合衆国と新しい運河条約の交渉に乗り出し,77年9月7日ついに新条約調印に成功,翌年6月16日批准書の交換も終えて,99年末にパナマ運河全面返還が実現した。また1993年に日本,アメリカ,パナマで構成されるパナマ運河代替案調査委員会は,代替運河の建設は行わず,かわりに6万5000トン以下の船舶の航行しかできない現在の運河を15万トンの船舶の航行を可能にするよう幅を拡大することに決定した。
→パナマ運河
執筆者:河合 恒生
中央アメリカ,パナマの首都。パナマ湾に面し,文化,経済,政治,その他あらゆる面でパナマの中心である。都市域人口120万(2001)。パン・アメリカン・ハイウェーで南北アメリカに,パナマ鉄道でコロン市に連絡している。パナマ市はペドロ・アリアス・デ・アビラによって1519年に建設され,スペインの中南米征服と植民地支配の重要な拠点となった。ペルーから船で運ばれた銀は,ここから陸路で地峡を横断してカリブ海側の港へ運ばれた。1671年1月イギリスの海賊ヘンリー・モーガンによって市は破壊され,廃墟と化した。その後73年1月に元のパナマ市より8kmほど離れた現在の地に再建された。市の繁栄は18世紀に一時中断されるが,アメリカの西部の発展にともない,地理上の利点から再び発展をとげた。19世紀後半にはパナマ市とコロン市の間を結ぶ鉄道が開通し,20世紀初頭にはパナマ運河が開通,近代都市へと発展した。
執筆者:河合 恒生
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北アメリカ,南アメリカの接合部の地峡にある共和国。スペイン植民地時代には,本国とペルー副王領をつなぐ交通上の重要地域だった。植民地時代末期にはヌエバ・グラナダ副王領に属し,コロンビアの独立後もその一部をなしたが,パナマ運河開削を企てるアメリカの支持を受けた政治グループが,1903年パナマ共和国の独立を宣言。14年にパナマ運河が完成し,以後実質的にアメリカに支配された。トリホス将軍が77年新運河条約の締結に成功し,それにもとづいて99年末に運河はパナマに返還され,アメリカ軍は撤退した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…語源はポルトガル語のカルタcarta(英語ではカードcard)。日本には外来のカルタの流れをひく,おもに賭博に使われるかるた(花札など)と,古来の貝覆(かいおおい)の流れをひく,おもに教育を目的とするかるた(《小倉百人一首》など)とがある。なお,西洋かるたをトランプtrumpと通称するが,トランプは正しくは西洋かるたの切札のことをいう。…
…したがって,多くの船主は比較的自由に登録国を選択できる立場にある。こうした一般的船舶登録環境のなかにあって,例外的事例として,外国の船主による登録を受け入れるばかりでなく,登録手続がきわめて簡単で,しかも所得税や法人税をほとんど課さず,さらに乗組員の配乗に制限を加えないで船主の自由にまかせる,リベリア,パナマ,ホンジュラスなどの国があり,ギリシア船主,アメリカ船主をはじめとする多くの先進海運国船主がこれらの国を便宜的に置籍国として利用している。このような便宜置籍船はすでに世界商船隊のなかで大きな比重を占めているが,高い海難事故率,劣悪な海上労働条件,発展途上国海運の発達に及ぼす影響等の弊害をもたらす要因になっているとして,国際的な場で問題視されている。…
※「パナマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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