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小説家。本名平岡公威(きみたけ)。父梓(あずさ)と母倭文重(しずえ)の長男として大正14年1月14日東京四谷(現、新宿区)に生まれる。満年齢が昭和の年数と一致するという点にも時代との関係がみられる。1931年(昭和6)学習院初等科に入り、高等科まで学習院で学ぶ。10代前半から小説を発表し、1944年、小説集『花ざかりの森』を刊行した。恩師清水文雄を通じて国文学の伝統を知り、日本浪曼(ろうまん)派の間接的な影響を受けていた。1944年、東京帝国大学法学部に入学、翌年勤労動員先の工場で日本の敗戦を知る。戦争と三島との関係は、孤独な少年の夢みた滅亡の美への共感が、時代と協和音を奏でていたものと想定される。1946年(昭和21)川端康成(やすなり)の推薦で短編『煙草(たばこ)』を発表、早熟の新人として認められ、長編『仮面の告白』(1949)で作家としての地位を確立した。この時代の三島の作風は、民主主義の確立を目ざす動向に同調せず、華麗な美の創造を目ざしたが、その根底にはニヒリズムがあって、それが同時代の読者とのきずなになっていた。続いて『愛の渇(かわ)き』(1950)、『青の時代』(同)を発表したが、1952年のギリシア訪問の影響で「外面の均斉」とギリシア的健康に共感し、これが『潮騒(しおさい)』(1954)に結実するとともに、作風も知的均斉を重んじるようになる。『金閣寺』(1956)はこの時期の頂点を示す小説である。やがて『鏡子の家』(1959)で戦後という時代への決算を小説の形で行う。
1960年安保の翌年、短編『憂国』で二・二六事件の青年将校を描く(この作品はのち1965年に自ら製作・脚色・監督・主演して、能形式により映画化した)。その後、昭和への関心が強まり、評論『林房雄論』(1963)を通って『英霊の声』(1966)に至る。三島は劇作家としても優れた才能を示し、『近代能楽集』(1956刊)、『鹿鳴館(ろくめいかん)』(1957)などを出していたが、その後『サド侯爵夫人』(1965)のような秀作もある。また擬古典的な歌舞伎(かぶき)劇の新作にも優れた才能を示し、『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』(1954)、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(1969)などは好評を博した。小説は『宴(うたげ)のあと』(1960)、『絹と明察』(1964)などがあったが、1960年代の後半に至って「文武両道」を唱えるようになると、「文」に対立する「武」の領域に実践が現れた。すなわち自衛隊に体験入隊し、「楯(たて)の会」を結成する。この時期に最後の長編『豊饒(ほうじょう)の海』(全4巻、1970年完結)を書き続けたが、1970年(昭和45)11月25日午前、「楯の会」の学生森田必勝ほか3名とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地に至り、決起を呼びかけたが果たさず、総監室で割腹自殺した。西欧的な知性に基づく様式感覚と昭和のナショナリズムとの両者に根ざしている三島の思想と文学は、晩年には戦後社会へのアンチテーゼとして後者のナショナリズムに賭(か)けたとみられる。
[磯田光一]
『『三島由紀夫全集』35巻・補巻1(1973~1976・新潮社)』▽『磯田光一著『殉教の美学』(1964・冬樹社)』▽『野口武彦著『三島由紀夫の世界』(1968・講談社)』▽『佐伯彰一著『評伝三島由紀夫』(1978・新潮社)』▽『『日本文学研究資料叢書 三島由紀夫』(1971・有精堂出版)』▽『『三島由紀夫事典』(1976・明治書院)』▽『『新潮日本文学アルバム 三島由紀夫』(1983・新潮社)』
小説家,劇作家。東京生れ。本名平岡公威(きみたけ)。1931年学習院初等科に入り,高等科まで学習院で学ぶ。この時代に文学活動を開始し,第1作品集《花ざかりの森》(1944)を刊行。20歳で敗戦をむかえるが,敗戦を何ものかの喪失と感じた時代感覚は,のちに三島の思想の根幹を形づくる。47年に東大法学部を卒業。49年に《仮面の告白》を刊行して作家としての地位を確立し,つづいて長編小説《愛の渇き》《青の時代》(ともに1950)を刊行。後者は当時話題になった金融業の学生社長をモデルにしたもので,《金閣寺》のモデルの場合と同じように反社会的な情熱が作品の主題になった。この時期の三島は,ニヒリズムを持った反社会的人物を知的な文体でえがき,その美と悪の香気によって青年読者をひきつけた。《禁色(きんじき)》(1951)とその第2部《秘楽(ひぎよう)》(1953)にも同様な傾向が認められる。52年におけるギリシア訪問を契機に,ギリシア的な健康への希求が生まれ,牧歌的な小説《潮騒》(1954)に結実しただけでなく,のちにボディビルで肉体を鍛える態度の伏線を形づくった。56年に《金閣寺》で芸術的な一つの到達点をきわめたのち,《鏡子の家》(1959)で〈戦後〉という時代のニヒリズムと行為をえがいたが,60年安保のあと二・二六事件に取材した《憂国》(1961)にいたって〈戦前〉的なものが作品に入りはじめる。この傾向はやがて《林房雄論》(1963)や《英霊の声》(1966)でいっそう鮮明になり,《豊饒(ほうじよう)の海》(1965-70)にいたる。この過程で67年に自衛隊に体験入隊,68年に〈楯の会〉を結成し,70年11月25日に自衛隊市谷駐屯地で隊員の決起をうながしたが果たさず,割腹自殺した。このようなナショナリズムの軸のほか,西欧的な芸術造形が三島の作品の魅力のひとつを形づくっている。劇作家としての作品では《鹿鳴館》(1958),《サド侯爵夫人》(1965)がある。
執筆者:磯田 光一
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昭和期の小説家,劇作家
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1925.1.14~70.11.25
昭和期の小説家・劇作家。本名平岡公威(きみたけ)。東京都出身。東大卒。学習院時代,16歳で「文芸文化」に「花ざかりの森」を発表する早熟さをみせる。1949年(昭和24)「仮面の告白」で新進作家としての地位を確立。「禁色(きんじき)」「潮騒」「金閣寺」「憂国」「サド侯爵夫人」「豊饒の海」など絢爛たる文体による緻密な構成の作品を多く発表した。68年楯の会を結成し,70年その会員4人とともに自衛隊市ケ谷駐屯地に赴きクーデタ決起を促したが,失敗して割腹自殺。「三島由紀夫全集」全42巻,補巻1巻,別巻1巻。
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…その意味では青山杉作,千田是也,東野英治郎,小沢栄太郎らで1944年に創立された〈俳優座〉の活動がまず注目される。すなわち,過去の政治的主題偏重の反省に立ち,俳優術そのものの再検討によって演劇表現の〈アカデミズム〉を確立しようとした俳優座は,48年に〈創作劇研究会〉を発足させ,三島由紀夫ら新人劇作家に上演の場を提供するとともにこれを演技研究の場ともした。49年秋には,俳優座演劇研究所を創立,3年制の俳優養成機関も付属させ,さらに54年4月には,独力で俳優座劇場を建設・開場して,他の新劇団にも開放した。…
…これをうけて,フランスの悪魔主義の作家ペラダンは《トルストイに応える》を書き,〈美が生み出すのは感情を観念に転化する独自の歓び,つまり抽象的な動きである〉と反論した。これは唯美主義の本質をつく言葉であり,ワイルドにも,またその影響が濃厚な《禁色》の作家三島由紀夫や,同じくワイルドの《謎をもたぬスフィンクス》を種本に短編《秘密》を書いた谷崎潤一郎にも当てはまる。 19世紀以来の唯美主義は観念的美の世界と悪魔的な官能美への惑溺,すなわちデカダンスdécadenceの二極を絶えず往復しているが,これはスウィンバーンに影響を与えたフランスの文学者ゴーティエやボードレールに始まる。…
※「三島由紀夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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