中国,漢の太学の教官。漢の武帝のときにはじまる。博士官はすでに秦代から存在したが,五経博士は五経のみを,しかもそれぞれ1経を専門に教授した。博士となることができたのは,王朝によって公認された学派に属する50歳以上の学者に限られ,学派の分立にともなって後漢代には14博士をかぞえたものの,彼らはすべて今(きん)文学者であった。
執筆者:吉川 忠夫
日本では〈ごきょうはかせ〉という。6世紀に百済から来朝した学者で,《易経》《書経》《詩経》《礼記(らいき)》《春秋》の五経に通じた人。513年(継体7),百済の五経博士段楊爾(だんように)が初めて来朝し,3年後に漢高安茂(あやのこうあんも)と交替して帰国した。そののちも交替制によって五経博士が百済から貢上されたらしく,554年(欽明15)にも王柳貴(おうりゆうき)が固徳馬丁安(ことくまていあん)と交替したと《日本書紀》にみえる。このとき易・暦・医の諸博士や採薬師などの交替も行われているが,これは,いわゆる任那割譲の代償として,日本からの諸博士来朝の要請にこたえて,百済が交替制で五経博士以下を貢上させたもので,日本文化の発展に寄与した点が大きい。なお五経博士の名称は中国漢代の制に由来するが,のち日本ではこの名称は用いられず,五経等に通じた者に対し授けた明経(みようぎよう)博士の官名がほぼこれに当たる。
執筆者:米田 雄介
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百済(くだら)の官職名で、百済から大和(やまと)朝廷に派遣され、『易経(えききょう)』『詩経』『書経』『春秋(しゅんじゅう)』『礼記(らいき)』に精通し教授した儒学者をさす。『日本書紀』には513年(継体天皇7)百済は五経博士段楊爾(だんように)を貢したが、3年後に彼を帰国させ、かわって漢高安茂(あやのこうあんも)を貢したとみえる。また554年(欽明天皇15)百済は五経博士王柳貴(おうりゅうき)を貢し、固徳馬丁安(ことくめちょうあん)にかえた。五経博士の貢上は、512~513年に任那(みまな)割譲によって領土を拡大した百済が大和朝廷に与えた代償で、帰化ではなく年期を定めた貢上・交代制であった点に、百済からの文化輸入上画期的な意義をもっている。
[前川明久]
儒教経典である「詩経」「尚書」「易経」「春秋」「礼記(らいき)」の五経を講じることを職務とする者。中国では五経の書目に違いがあるが,前漢の武帝がはじめておき,政治顧問としての役割をはたした。五経博士の制は南朝から百済(くだら)に入り,百済から6世紀の大和朝廷に段楊爾(だんように)・漢高安茂(あやのこうあんも)・王柳貴(おうりゅうき)らの五経博士が交代で派遣された。日本での具体的活躍は不明である。漢の五経博士や7世紀日本の国博士のように政治顧問の役割をはたしたのかわからないが,日本の支配者層に儒教が浸透していったことは想像される。おそらく儒教は彼らによって前代より体系的なかたちで日本に伝えられたであろう。
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