江戸幕府5代将軍徳川綱吉(つなよし)側近の寵臣(ちょうしん)。初名房安(ふさやす)、保明(やすあきら)、通称弥太郎(やたろう)。柳沢氏は甲州武田の旧臣、武田勝頼(かつより)滅亡ののち徳川氏に仕えた。保明の父安忠は駿河大納言(するがだいなごん)忠長(ただなが)付きとなり、忠長改易により一時浪人したが、ほどなく館林(たてばやし)藩主時代の綱吉に仕え、同藩の勘定頭(かんじょうがしら)を勤め、知行(ちぎょう)高160石と蔵米370俵を受けた。保明は1675年(延宝3)相続、綱吉の小姓(こしょう)を勤め、80年綱吉の将軍就任に従って幕臣に加えられ、小納戸(こなんど)となった。その後頻繁に昇進・加増を受け、85年(貞享2)従(じゅ)五位下出羽守(でわのかみ)に叙任。88年(元禄1)側用人(そばようにん)に昇り、1万2000石余の大名となる。90年従四位下に昇進、2万石加増。94年侍従に昇進、武蔵(むさし)(埼玉県)川越城主として7万2000石を領し、老中格となる。98年老中より上格の左近衛権少将(さこんえのごんのしょうしょう)に昇任。1701年(元禄14)には松平の家号を許されるとともに、綱吉の偏諱(へんき)を賜って、保明は吉保、その子安貞(やすさだ)は吉里と改名した。04年(宝永1)には従来徳川一門にしか与えられたことがない甲斐(かい)国(山梨県)15万石余に封ぜられ、甲府城主となったが、09年綱吉が死去し、その甥家宣(いえのぶ)が6代将軍に就任すると、吉保は隠居して保山元養と号し、正徳(しょうとく)4年11月2日駒込(こまごめ)の別荘六義園(りくぎえん)で死去した。甲斐山梨郡の永慶寺に葬り、のち同郡恵林(えりん)寺に改葬した。
吉保の著しい栄進は将軍綱吉の異常なまでの寵愛(ちょうあい)によるものであったから、吉保は悪辣(あくらつ)な策謀家であったとの風評が広く流布しているが、彼はさほどの悪人ではなく、また天下の政治を左右するほどの手腕家でもなかった。むしろ愚直なほど誠実に綱吉の意に従った側近であり、なまじの才気のなかったことが、かえって気まぐれな将軍に長く奉仕しえたゆえんであろう。ただし、藩主としてはかなり施政に心がけ、領民に慕われていたらしい。また学問・教養の面では、綱吉の好学に迎合したとみられる点もあるが、家中に荻生徂徠(おぎゅうそらい)など優れた学者を召し抱え、和学では北村季吟(きぎん)について古今伝授を受け、詩歌のたしなみもあった。1677年(延宝5)20歳のとき竺道祖梵(じくどうそぼん)について参禅して以来、多くの禅僧によって工夫(くふう)を重ね、95年万福寺5世高泉性潡(こうせんしょうとん)から印可を受けた。その問答録を徂徠らに編纂(へんさん)させ、霊元(れいげん)法皇から勅題と序文を賜ったのが『勅賜護法常応録鈔(しょう)』である。
[辻 達也]
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江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣。初名房安,保明(やすあきら),通称弥太郎。父安忠は館林藩時代の綱吉に仕え,勘定頭を務め,知行高160石と蔵米370俵を受けた。保明は1675年(延宝3)相続,綱吉の小姓を務め,80年綱吉の将軍就任に従って幕臣に加えられ,小納戸となった。その後頻繁に昇進,加増を受け,85年(貞享2)従五位下出羽守に叙任。88年(元禄1)側用人に昇り,1万2000石の大名となる。90年従四位下に昇進,2万石加増。94年武蔵川越城主として7万2000石を領し,侍従に昇進。98年老中より上格の左近衛少将に昇任。1701年には松平の家号を許されるとともに,綱吉の偏諱(へんき)を与えられ,保明は吉保,その子安貞は吉里と改めた。04年(宝永1)には従来徳川一門にしか与えられたことがない甲斐15万石に封ぜられ,甲府城主となったが,09年綱吉が死去し,その甥家宣が6代将軍に就任すると,吉保は隠居して保山元養と号し,1714年駒込の別荘六義園で死去した。吉保の著しい栄進は将軍綱吉の異常なまでの寵愛によるものであったから,吉保は悪らつな策謀家であるとの風評が《護国女太平記》などによって広く流布しているが,彼はさほどの悪人ではなく,むしろ愚直なほど誠実に綱吉の意に従った側近であったといえよう。ただし藩主としてはかなり政治に心がけ,領民に慕われていたらしい。また学問・教養の面では,綱吉の好学に迎合したと見られる点もなくはないが,家中に荻生徂徠などすぐれた学者を召し抱え,和学では北村季吟について古今伝授を受け,詩歌のたしなみもあった。1677年20歳のとき竺道祖梵に参禅して以来,多くの禅僧についてくふうを重ね,95年高泉性潡から印可を受けた。その時の問答録を徂徠らに編纂させ,霊元法皇から勅題と序文を賜ったのが《勅賜護法常応録鈔》である。
執筆者:辻 達也
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(深井雅海)
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1658~1714.11.2
江戸中期の大名,徳川綱吉の側近。初名房安・保明,通称主税・弥太郎。父安忠は館林藩主時代の徳川綱吉に仕え,吉保も小姓として近侍。綱吉の将軍就任にともない幕臣となる。1688年(元禄元)側用人となり,1万2000石余。数度の加増と異例の昇進で,老中格・老中上座となり,1701年松平姓と将軍の諱の一字を与えられ,吉保と改名。04年(宝永元)には甲府15万石余を与えられる。荻生徂徠・細井広沢ら学者を重用して元禄期の幕政を主導したが,吉保自身には専制的な側面は薄かったという。09年綱吉の死後,家督を吉里に譲って隠居,保山と号した。
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…綱重から子綱豊(のちの家宣)が将軍綱吉の養嗣子として江戸城西丸に入るまで甲府家は43年間続いた。1704年(宝永1)柳沢吉保が山梨,八代,巨摩3郡を受封,子吉里が24年(享保9)転封するまで2代にわたって国中地方を領有した。これに対して郡内領(都留郡)は,1601年鳥居成次が谷村(やむら)城主に任ぜられたが,子成行が徳川忠長の事件のため家老として32年改易されると,幕領となって城番が置かれた。…
…信綱は川越城を拡大再建,地割・町割を行って城下町に十ヵ町四門前の制度を整備し,新河岸川舟運の開設,荒川瀬替えに伴う川堤築造,武蔵野開発と野火止用水開削,総検地の実施,二毛作・早稲・畑作奨励と技術指導を用い,藩政確立に尽力した。その孫信輝は94年(元禄7)下総国古河に転じ,代わって側用人柳沢吉保が7万2030石で入った。吉保は川越南方の立野を開発,検地によって三富(さんとめ)新田を成立させた。…
…(1)古甲金(ここうきん) 元禄(1704)以前の甲州金の総称で,竹流金,判金,碁石金,太鼓判金等があり,表は無文のものが多く品位が高かった。(2)甲安金(こうやすきん) 1707年(宝永4)から14年(正徳4)に甲斐に封ぜられた柳沢吉保が,元禄小判改悪にならって改鋳したもの。(3)甲安今吹(こうやすいまふき) 1714年に吉保の子吉里が正徳小判に準じて改鋳したもの。…
…側用人はまったく奥向きの職であり,表方の役職に対し制度上の権限をもつものではないが,将軍の厚い恩寵を背景にその発言は政務の上に強大な権威をもった。ことに成貞に続く柳沢吉保に至っては,官は左近衛少将という大老格に昇進し,綱吉の寵遇いちじるしかったので,その権勢増大はなはだしく,側用人政治とも評せられた。6代家宣,7代家継の代にも間部詮房(まなべあきふさ)がこれに登用され,幕政の中枢に位置した。…
…柳沢騒動を材料にした作品群をいう。柳沢吉保は,小身者から将軍徳川綱吉の寵愛(ちようあい)を得て大大名に出世したが,実録本の《護国女太平記》は吉保を野望をもつ悪人として描き,講釈ではお家騒動風に脚色して語られた。歌舞伎の作品はこれらを材料にして作られた。…
…東京都文京区本駒込6丁目にある回遊式の庭園。柳沢吉保の下屋敷跡。将軍徳川綱吉より1695年(元禄8)当時の染井村駒込に4万7000坪の地を与えられた吉保が7ヵ年余をかけて完成し,彼みずから園名を六義園(むくさのその),屋形を六義館(むくさのたち)と名付けた。…
※「柳沢吉保」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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