柴野栗山(読み)シバノリツザン

デジタル大辞泉 「柴野栗山」の意味・読み・例文・類語

しばの‐りつざん【柴野栗山】

[1736~1807]江戸中期の儒学者。讃岐さぬきの人。名は邦彦。後藤芝山ごとうしざんに学び、江戸に出て昌平坂学問所の教官となった。のち、老中松平定信寛政異学の禁建議した。寛政の三助の一人。著「栗山文集」「雑字類編」など。

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精選版 日本国語大辞典 「柴野栗山」の意味・読み・例文・類語

しばの‐りつざん【柴野栗山】

  1. 江戸中期の朱子学者。讚岐高松の人。名は邦彦、字は彦輔。郷里後藤芝山師事。のち江戸に遊学して昌平黌(しょうへいこう)で中村蘭林に学び、ついで京都和学を高橋宗直に学び、阿波侯に仕えた。天明八年(一七八八)、昌平黌の教官に登用され、いわゆる「寛政異学の禁」を建議した。古賀精里尾藤二洲とともに「寛政の三博士」と称された。詩文ともによくし、詩は荘重雄大な作が多い。著「国鑑」「資治概言」「栗山文集」「雑字類編」など。元文元~文化四年(一七三六‐一八〇七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「柴野栗山」の意味・わかりやすい解説

柴野栗山
しばのりつざん
(1736―1807)

江戸中期の儒者。名は邦彦。字(あざな)は彦輔(ひこすけ)。通称は万吉、平助。古愚軒(こぐけん)とも号す。元文(げんぶん)元年、平左衛門の長子として讃岐(さぬき)国(香川県)三木郡牟礼(むれ)村に生まれる。少年時代より高松藩の後藤芝山(ごとうしざん)(1721―1782)に学んだ。18歳のとき(1753)、江戸に出て林正懿(はやしせいい)(榴岡(りゅうこう)、1681―1758)の門人となり、以後十数年昌平黌(しょうへいこう)にあった。30歳で江戸を去って京に遊び、多くの文人・学者と交遊。32歳より阿波(あわ)国徳島藩主蜂須賀(はちすか)侯に儒臣として仕え、さらに36歳で京都堀川に塾を開いて業を講じた。1788年(天明8)53歳のとき江戸に召されて幕府の儒員、昌平黌の教官となり、以後大学頭(だいがくのかみ)林信敬(のぶたか)(1767―1793)、岡田寒泉らと学政の改革に努めた。老中松平定信(まつだいらさだのぶ)に勧めて異学の禁を発し、程朱学を振興したことは有名。その後も幕命で、畿内(きない)の古社寺の調査や外交の事の諮問にあずかることもあった。尾藤二洲(びとうじしゅう)・古賀精里(こがせいり)とともに寛政(かんせい)三博士の一人。文化(ぶんか)4年12月1日、72歳で没した。『栗山文集』5巻(1843)、『栗山堂詩集』4巻(1807ころ)などがある。

黒住 真 2016年5月19日]

『福家惣衛著『柴野栗山』(1949/復刻版・2006・栗山顕彰会)』『「柴野栗山」(『森銑三著作集 第8巻』所収・1971・中央公論社)』


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百科事典マイペディア 「柴野栗山」の意味・わかりやすい解説

柴野栗山【しばのりつざん】

江戸中期の儒学(朱子学)者。寛政(かんせい)の三博士の一人。讃岐(さぬき)の人。後藤芝山(しざん)につき,のち昌平黌(こう)に学ぶ。京都で赤松滄洲(そうしゅう)らと交わった。寛政異学の禁を建議し,昌平黌教官として局に当たった。古文辞(こぶんじ)の流れが衰えて後,《唐宋八家文》をよく消化し格調の正しい漢文を書いた。主著《国鑑(くにかがみ)》,《栗山文集》6巻など。
→関連項目市河米庵岡田寒泉寛政の三博士古賀精里清田【たん】叟尾藤二洲皆川淇園屋代弘賢

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朝日日本歴史人物事典 「柴野栗山」の解説

柴野栗山

没年:文化4.12.1(1807.12.29)
生年:元文1(1736)
江戸中・後期の儒学者。尾藤二洲,古賀精里と共に,「寛政三博士」のひとり。名は邦彦,字は彦輔,通称彦助。号栗山,古愚軒。讃岐国(香川県)三木郡牟礼村の農家に生まれ,10歳ごろから後藤芝山について学んだ。18歳で江戸に出て林大学頭信充に入門し,主に中村蘭林に学んだ。明和4(1767)年徳島藩蜂須賀家に仕え,以後は主に京都に在って赤松滄洲,皆川淇園,西依成斎らと交遊し,三白社と称した。天明8(1788)年老中松平定信による昌平黌改革が始まり,栗山は儒官に登用されて江戸に移り,切米200俵を給されて幕臣となった。寛政2(1790)年岡田寒泉と共に聖堂取締を命ぜられ,大学頭信敬を補佐して朱子学による学風の統一,刷新と学制の整備に当たり,異学の禁を実施した。6年寒泉は代官に転じ,栗山も9年西の丸奥儒者に転じて聖堂取締は古賀精里に代わった。江戸駿河台の自邸に没し,初め林家墓地に葬られたが,のちに大塚の先儒墓地に改葬された。栗山は詩,文章でも名高く,詩文集に『栗山文集』『栗山堂詩集』『栗山堂文集』などがある。このほか,幕府政治全般に対する意見書「栗山上書」(『日本経済叢書』17巻),山陵修復の必要を説いた「山陵議」,京都に学校を建設すべきを論じた「京学議」などの意見書,幕命により編修した通史『国鑑』,漢詩文の索引『雑字類編』などの編著書があるが,経学上の著述はほとんどない。<参考文献>福家惣衛『柴野栗山』,五弓久文編『事実文編』45巻

(梅澤秀夫)

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改訂新版 世界大百科事典 「柴野栗山」の意味・わかりやすい解説

柴野栗山 (しばのりつざん)
生没年:1736-1807(元文1-文化4)

江戸中期の儒学者。名は邦彦,字は彦輔,栗山は号。讃岐国牟礼村出身。江戸の林家に学び阿波藩儒に登用され,のち京都に住んで朱子学をとなえた。1788年(天明8)幕府儒員となり,松平定信の寛政改革に際してしばしば意見を具申。古学を排斥して朱子学の官学化をはかり,〈寛政異学の禁〉を建議して実現させた。また林述斎らと幕府の教学制度の確立に尽力した。〈寛政の三博士〉の一人。《栗山文集》がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柴野栗山」の意味・わかりやすい解説

柴野栗山
しばのりつざん

[生]元文1(1736).高松
[没]文化4(1807).12.1. 江戸
江戸時代中期~後期の儒学者。名は邦彦,字は彦輔,栗山はその号。儒学,国学を学んだが,天明8 (1788) 年松平定信が老中になった際,召されて江戸幕府の儒官となった。荻生徂徠の古学の思想に強く影響されていた世の風潮に反対して,朱子学を再び普及することが任務であった。すなわち「寛政異学の禁」の立役者である。尾藤二洲古賀精里とともに「寛政の三博士」と呼ばれ,特に文章をよくした。著書に『栗山文集』『栗山堂詩集』などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柴野栗山」の解説

柴野栗山 しばの-りつざん

1736-1807 江戸時代中期-後期の儒者。
元文元年生まれ。昌平黌(しょうへいこう)にまなび,京都で国学をおさめる。53歳で老中松平定信(さだのぶ)にまねかれ幕府儒官,昌平黌の教官となる。朱子学の振興をはかり,「寛政異学の禁」を実施した。尾藤二洲(びとう-じしゅう),古賀精里(せいり)とともに寛政の三博士と称された。文化4年12月1日死去。72歳。讃岐(さぬき)(香川県)出身。名は邦彦。通称は彦輔。別号に古愚軒など。著作に「栗山文集」「栗山堂詩集」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「柴野栗山」の解説

柴野栗山
しばのりつざん

1736~1807.12.1

江戸後期の朱子学派の儒者。名は邦彦,字は彦輔。讃岐国生れ。高松藩儒の後藤芝山(しざん)に学んだのち,江戸の昌平黌(しょうへいこう)で修学。1767年(明和4)阿波国徳島藩に儒官として仕える。88年(天明8)松平定信に招かれ幕府に登用され,岡田寒泉とともに聖堂改革,寛政異学の禁など幕府の学政の中枢を担った。寛政の三博士の1人。著書「栗山文集」「栗山堂詩集」「資治概言」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「柴野栗山」の解説

柴野栗山
しばのりつざん

1736〜1807
江戸後期の朱子学者
讃岐(香川県)の人。昌平坂学問所に学んだのち,京都で国学を修めた。松平定信が老中になるに及び昌平坂学問所の儒官となり,寛政異学の禁を建議。博識で詩文に通じ,尾藤二洲・古賀精里とともに寛政の三博士の一人に数えられる。

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