京都の警察・裁判を管掌した令外官(りようげのかん)。略して使とも。弘仁年間(810-824)の中ごろ創置されたと推測されており,その初見は816年(弘仁7)に左衛門大尉となり検非違使の事を兼行したとみえる興世書主である。左右衛門府職員が〈使の宣旨〉により兼任するのが原則で,弘仁左右衛門府式では定員を左右それぞれにつき官人1,府生1,火長5と定め,貞観・延喜式では左右それぞれ佐1,尉1,志1,府生1,火長(かちよう)9に増員し,834年(承和1)には別当が置かれている。火長は看督長(かどのおさ),案主,官人従者などからなり,式にはみえないが,火長の下に下部と称する下輩が置かれていた。佐の定員は時代が下っても式制どおり左右各1であるが,尉以下の職員については,必要に応じ増員が図られている。別当は参議・中納言で衛門督(かみ)を帯びるものが任命され,その発する別当宣(庁宣ともいう)は勅宣に準ずる権威をもつ重職であり,佐は別当を補佐することから家柄・人物を選んで補任することになっていた。尉は検非違使庁の実務の中心を担う職員で,法律に精通した明法(みようぼう)道出身者や武力に秀でたものが任用された。平安末期以降明法道出身の尉には坂上・中原両家のものが任用され,武力に秀でたものは追捕(ついぶ)尉といい武士が起用され,少尉を原則とした。志には明法道出身者が起用されることが多く道志と称し,府生は志以上に準ずる職で追捕や裁判に従い,看督長は獄直や追捕に当たり,案主は検非違使庁の書類をつかさどり,官人従者は府生以上の官人ないし看督長が出動するときに従卒となった。看督長などからなる火長身分と府生以上官人との身分的・職階的差は大きい。下部は放免(ほうめん)ともいい,前科者を捜査の便のためにあてたもので,卑賤視されていた。検非違使は京都警察・司法機関の頂点に位置することから,大きな権力を振るい,人々から頼られるとともに恐れられてもいた。京都警察・司法機関として検非違使が十分に機能したことから,後には諸国や郡ないし荘園単位で置かれることがあった。
執筆者:森田 悌
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平安時代初期以降主として京中の非違(ひい)を検察するため設けられた令外官(りょうげのかん)。左右に分かれ、その役所を検非違使庁、略して使庁という。使庁は衛門府(えもんふ)に置かれ、使官人も原則として衛門府官人が兼帯した。最初は職員の数も少なかったが、のちには増員され、延喜(えんぎ)衛門府式では左右それぞれにつき佐(すけ)1、尉(じょう)1、志(さかん)1、府生(ふしょう)1、火長(かちょう)9を置くことになっており、さらにこれらの職員の上に使別当(べっとう)が置かれた。使別当には衛門督(かみ)が就任するのが原則で、多く参議ないし中納言(ちゅうなごん)が兼任し、別当宣(せん)は奉勅宣に匹敵するといわれるほどの権威を有していた。検非違使の武力としては、火長身分である看督長(かどのおさ)が京都市中を巡邏(じゅんら)し日常的な警察業務に従っていたが、尉クラスの官人が多数の従者、郎等(ろうとう)を率い、武士団のごとき編成をもって事にあたることがあった。
検非違使は京ないし近京の地を管轄するだけでなく、宣旨を得て遠国に出動することがあり、1028年(長元1)平忠常(ただつね)の乱のときも最初検非違使が鎮圧のために差遣された。検非違使は犯人追捕にあたるとともに裁判や科刑のことも行い、さらに民事的訴訟も受理し、市(いち)の管理や道路、河川の修復ないし賑給(しんごう)などの京都市内の民政にも関与し、運上物の検封や租税未進の勘徴ないし検田のような租税収取関係の任務につくこともあった。中央に置かれた検非違使が有効であったことから、地方においても国ないし郡単位で置かれ、神社に置かれることもあり、治安維持にあたった。武士の台頭により勢力は衰え、鎌倉時代以降は実質を失っていった。
[森田 悌]
『井上満郎著『平安時代軍事制度の研究』(1980・吉川弘文館)』▽『谷森饒男著『検非違使を中心としたる平安時代の警察状態』(1980・柏書房)』
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平安~室町時代に,おもに京中の警察・裁判を担当した職。唐名は廷尉。検非違使は,衛門府の警察権と弾正台の糾弾権を統合する京中警察機関として弘仁年間(810~824)に成立した。10世紀以降,律令裁判制度の形骸化にともなって権限を拡大し,のちに「朝家此職ヲ置キテ以来,衛府ノ追捕,弾正ノ糺弾,刑部ノ判断,京職ノ訴訟,併セテ使庁ニ帰ス」(「職原抄」)と評される強大な権限を獲得するに至る。その官制は,弘仁年間の創設段階に尉・府生,824年(天長元)に佐,834年(承和元)に別当,858年(天安2)に志が設置されて別当・佐・尉・志・府生の職制が整い,佐以下は衛門府の官人が使宣旨によって任命された。下級職員には看督長(かどのおさ)・案主長(あんじゅのおさ)・放免などがいた。
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…犯罪と刑罰の関係について唐律と比較すると,同一の行為に対する刑罰は,養老律では1等から数等減軽されている場合が多い。9世紀ころから律令制はしだいに変容し,やがて検非違使(けびいし)庁が設置されるや,律の規定を改め,盗犯については,律による笞杖から死刑に至る基本刑を換算して,徒1年から15年までの刑を科し,私鋳銭の罪には終身徒刑に財産刑を併科し,また役年終わるもなお前非を悔いない者に対しては,獄舎に拘禁して終身配役することとした。また当代には赦(恩赦)が乱発されて刑政が弛緩し,とくに仏教思想の影響もあってか,弘仁年間(810‐824),死刑の執行が停止され,以後1156年(保元1)にそれが復活するまで約350年間,死刑の執行が行われなかったことが注目される。…
…
[供御人支配と公家新制]
律令制の弛緩,変質,荘園公領制の形成とともに,この二つの支柱のあり方も大きく変化する。権門,寺社の占取によって狭められた山野河海に対する支配は,この時期には交通路に対する支配として機能するようになり,天皇はそこをおもな活動の舞台とする商工民,芸能民などの非農業民に対し,天皇家の直属機関として設置された蔵人所(くろうどどころ),検非違使(けびいし)等を通じてその支配を及ぼした。遍歴して交易に携わらなくてはならない商工民,芸能民は,それまでにかかわりをもっていた内蔵寮,掃部寮(かもんりよう),造酒司(さけのつかさ)等のいわゆる内廷官司や,御厨子所(みずしどころ),納殿(おさめどの)のような小官衙を通して,各地の関,渡,津,泊(とまり)等における課税免除,自由通行権の保証を求め,供御人(くごにん)の称号を得て過所を与えられたが,この過所を発給したのはこれらの官司,小官衙を統轄した蔵人所であった。…
…古文書の一形式。検非違使(けびいし)別当宣の略。検非違使は平安時代初期の弘仁年間(810‐24)に設置された令外官(りようげのかん)で,その長官が検非違使別当である。…
※「検非違使」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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