渡し(読み)ワタシ

デジタル大辞泉 「渡し」の意味・読み・例文・類語

わたし【渡し】

物などを人に渡すこと。「店頭渡し」「手渡し
人や貨物を舟で向こう岸に渡すこと。また、その舟や、舟の着く場所。
船から岸や他の船に渡るためにかけた板。わたりいた。あゆみいた。
直径。差し渡し。「渡し八寸の丸太」

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改訂新版 世界大百科事典 「渡し」の意味・わかりやすい解説

渡し (わたし)

一般に,海峡や河川などで人馬や荷物を船で対岸に渡すこと,またその場所をいう。

渡河地点は,川幅の狭くなる所のすぐ上,九州では〈ツル〉,東国では〈トロ〉などといわれる緩流の場所が選ばれた(これに対し,徒渉(かちわたり)の場合は,川幅の広い浅瀬が選ばれる)。渡船は,多く喫水の浅い艜船(ひらたぶね)で,最初は水流に逆らって斜め上流にこぎ出し,川中で方向を転換して向う岸へ斜めに船を流す。ただし小河川では,流れに直角に引き渡した綱をたぐって船を渡す場合もある。
執筆者:

〈わたり〉ともいい,〈済〉の表記もある。《万葉集》に難波済(なにわのわたり),宇治の渡,許我(こが)の渡(利根川の渡河点か),武庫の渡,神の渡(笠岡市神島(こうのしま)の渡か),対馬の渡などの名が見える。官道においても渡海を要する場所は〈渡〉と呼ばれたようで,《出雲国風土記》に〈隠岐の渡,千酌(ちくみ)の駅家(うまや)の浜〉とある。《延喜式》によれば越後国の渡戸駅に船2艘を配しているのも,佐渡国の渡津であったからであろう。《続日本後紀》の承和2年(835)条には,東海道,東山道の河津において,渡舟が少なく橋の設備もないため,諸国から調を京に運ぶ運脚夫たちが渡ることができないので,渡舟2艘を増すべき旨の勅が記されている。こうした運脚夫たちを接待する施設として渡しの近くにも布施屋(ふせや)が政府により,また行基のような僧侶によりつくられたことが知られる。
執筆者:

荒川の多い日本では,通常時は徒渉可能でも,降水・出水時に渡船を必要とする場合が多く,架橋の多くなる近世,近代においてまでも,渡し賃を目当てとする渡船場と渡し守が存在した。それは必ずしも零細なものでなく,古代社会では,妻訪(つまどい)の旅の途次の景行天皇から渡し賃を取った摂津国高瀬済の度子(わたしもり)の説話が伝えられている(《播磨国風土記》)。また平安時代中期,近江国野洲(やす)川河口付近に居住して近辺の荘園の請作も行った修理職の寄人集団が,〈雨ふれば船よりぞ行くやす(野洲)川のやすく渡りし瀬をばたどりて〉(《夫木和歌抄》)と歌われた野洲渡の渡し守をも兼業していたという(寛治7年(1093)8月21日の太政官符案)。鎌倉時代,加賀国宮腰(みやのこし)宿付近の渡船場の権利をめぐって川辺の住人と宿の住人が相論し(《一遍聖絵》第5巻),江戸時代には武蔵国多摩川の六郷渡丸子渡の利権をめぐって,地元と江戸町人などの渡船場請負人が競合したように(《川崎誌考》),交通量の多い渡船場の経営は一定度の利権・雑収入をもたらすものとして競望されることもあったのである。また,〈羽黒山伏の渡賃,関手をなす事はなきぞ〉(《義経記》巻七)と号した羽黒山の修験者などのように,無賃渡河の特権を主張する集団も多く,そこでもさまざまな紛争が引き起こされた。前近代の国家はこのような状況の中で,渡船場権の付与や無賃渡河の強制や特権の公認などの両面の手段を行使して,渡船場に対する公的管理を展開していたと考えられ,古くは大化改新の際〈要路津済之渡子〉が通行人に〈調賦(渡賃)〉をかけるのを禁止し,その代りに田地を給与した政策にその起源をみることができる。
執筆者:

江戸幕府の交通政策の一環として河川の架橋禁止があり,そのため全国の主要な河川には架橋されず,河川の渡河は徒渉か渡船によるところが多く,河川には渡河すべき場所が定まっていた。その渡河場所を渡しと呼んだ。1616年(元和2)に江戸幕府は定船場(じようふなば)を指定し,高札を定船場に与えて,渡銭や渡子について厳しく規定した。なかでも東海道筋の安倍川・大井川・酒匂(さかわ)川の徒渉,富士川・天竜川・今切渡(いまぎれのわたし)などの渡船,中山道の戸田・千曲・太田・杭瀬の河川の渡船,奥州道中の鬼怒川,日光道中の房川渡ぼうせんのわたし)などの渡船が知られている。旅行者は必ずその渡し場から渡河しなければならなかったので,河川の増水によって川留めなどにしばしば遭遇した。そのため周辺の宿場は繁盛を極めたが,旅行者は宿泊の費用などがかさみ,経済的に難儀であった。近世の架橋禁止と渡しについては,政治的,軍事的な理由と,自然的・技術的理由からとの両説があるが,いまだ定説をみていない。定船場は関東では16ヵ所(関東十六渡津)を指定しているが,人改めの関所のような役割を果たしていた。例えば戸田渡し場では,〈御関所川渡場番所相勤候分〉として人足数が記載されており,また高札には〈女人手負其外不審成ものは,いづれの舟場にても留置,早々至江戸可申上候事〉など,関所機能をもっていることを実証づけている。またイギリスの外交官アーネスト・サトーは川崎の六郷川を渡るとき,〈われわれはがんこな渡し場の船頭にぶつかって手間取った〉と記している。このように近世の渡しは,幕藩体制を支える重要な政治政策の一つでもあった。

 明治維新ののち,宿駅制の廃止とともに徒渉制,渡船制も廃止されて,交通施設が近代化されるとともに渡しの風景は漸次消えていった。
川越(かわごし)
執筆者:

津(しん),渡,済,渚あるいは航などと記す。関とあわせて関津,関津渡口ということもある。浅瀬の道標に従って歩いて渡るもの,舟を運航させるもの,舟を並べて浮橋とするものがある。それは軍事交通上の要衝にあたり,《論語》の問津の寓話に認められるように,その数は限られていた。黄河では,周の武王が殷の紂王を討ったときに八百諸侯が会盟したという孟津,太公望呂尚が食物を売ったという棘津(きよくしん),魏や衛が城を築いた延津,白馬津などが名高い。最初は軍事的,警察的な目的で設置されたのであって,戦国から漢代にかけては警察署と宿舎を兼ねた亭が置かれ,亭長が管理した。

 渡し場が制度的に明確になるのは関津が整備される隋・唐以降で,刑部司門の管轄下に置かれた。そして通行者は所管の官司から過所(通行証)の交付を受け,これを津吏に提示することが義務づけられていた。唐末のころから渡し場は通行貨物に課税する財政的目的に重点が移り(通行税),国家財政の財源をここに求めるようになった。渡し場は犯罪者の巣窟となることもあったが,《世説新語(せせつしんご)》には,南朝の都の建康(南京)の朱雀大航で停航する舟中に兵士や人夫が逃げ込んでも政府はこれを放置したとあるし,船中で博奕(ばくち)をして大穴をあけたとき,身代金がくるまで請け出せなかったとあるから,渡し場の舟溜りは一種の治外法権的な性格をもつところであったとも考えられる。古来渡しには災難を伴うことが多いので,これを逃れるため,犠牲(いけにえ)や璧を河中に投下して水神にささげたり,黄鉞や剣を振るったり鏡を照らして波を静めたりした。そのため宗教的な救済の困難さを渡しにたとえることも多く,善導の《観経疏》に説かれる二河白道(にがびやくどう)の譬喩,《西遊記》98回の凌雲渡の話はその代表的なものの一つである。
執筆者:

ヨーロッパにはライン川,エルベ川,ドナウ川など水量が多く,流れがゆるやかで川幅も広い大河が縦横に走っているために,古くから主要な街道と交差する地点に渡しが設けられていた。と違って渡しはつねに人間(渡し守)によって運用されねばならなかったから,法的制度として発展していった。街道に渡し場を設ける権利も国王の大権(レガリア)に属していた(レガーリエン)。しかし渡船の定時の運用は,この大権を手に入れた修道院や都市,諸侯にゆだねられていた。このような場合,渡し守は渡し場の権利を有する主君に賃租を支払っていたのである。また渡し場の運用が都市や村落共同体にゆだねられている場合もあり,この場合には共同体が渡し守を任命した。交通量が多く,渡し守が大勢必要なところでは,渡し守仲間の団体が同職組合として結成されていた。渡し守の仲間団体は兄弟団の一種で,裁判集会を開き,教会に詣で,会食,清算などを行っていた。清算とは川の両側の住民が渡し賃を年額で取り決めている場合,その清算のことである。

 《ニーベルンゲンの歌》においても豪勇の士トロゲネのハゲネが渡し守に金の腕輪を与えてドナウ川を渡ってもらおうとしたとき,〈渡し守は裕福な男で他人から報酬など受けたことはなかった〉とあり,渡し守が豊かであったことが描かれている。はじめは渡し賃は客との話し合いで決められたが,法外な渡し賃を要求されることもしばしばだったので,やがて人間,馬,車などの渡し賃が定められることになった。ときには現物で渡し賃が支払われる場合もあった。

 渡し場の権利を手に入れた領主や共同体は渡し場の独占権を強化しようとし,近隣に渡し場の設置を認めようとしなかった。これを渡し場強制権という。20世紀初頭においてもモーゼル川のトリアー~コブレンツ間に16ヵ所の渡し場があり,その大部分は中世以来のものであった。また渡し場強制権は渡し守以外の者が客を運送することを禁じていた。厳冬期に川が凍結し,歩いて渡れるようになったときにも渡し場強制権は発動され,渡し賃が取られることがあった。渡し賃は通行税の一種と考えられていたためである。

 渡し場は都市の門と同じく朝開かれ,夕方に閉じられた。領主などが要求する場合を除いて夜間は運航されなかったのである。とくに市場開催日,献堂式の日,巡礼行の日,裁判集会の日,収穫の日などに渡し場はにぎわった。船の大きさはさまざまであるが,馬1頭をのせられるか,人間16人を乗船させられるだけの最低限の大きさが定められている場合もあった。大きなものは馬8頭を同時にのせることができた。渡し守が棹でこぐ形式のものと,両岸に張られたロープに沿って川の流れを利用して渡河する形式のものがあった。

 渡し場の法的性格はとくにアジール(平和領域)としての面にみられた。1384年オーバーエルザスのケムズの判告録には次のような記述がある。〈人を殺したり,その他犯罪を犯した者がライン川にたどりつき,“船頭さん渡してくれ”と叫んだとする。そのとき渡し守はその者を渡すべきである。もしその者のあとから何者かがつけてきたり,追跡してきて“向う岸へ渡してくれ”と叫んだとき,もし船が岸を離れていれば渡し守は最初に着いた者をまず渡し,しかるのち,取って返してあとから着いた者を渡す。もし追跡してきた者が船が岸からまだ離れていないときに着いた場合には,渡し守はさきに着いた者を船のへさきにのせ,あとから来た者を船尾にのせて,自分はその中央に立つ。対岸に着いたときはまずへさきの客を降ろし,そののち船尾の客を降ろす。かくすることによって渡し守はいかなる犯罪にも荷担することなし〉。渡し場は平和空間であるから,渡し守は中立でなければならないのである。渡し場は公共の施設として平和領域であったためとされている。渡船は川の中にこぎ出したとき,水の精,川の神の支配下にあったから,犯人を捕らえて水の精や川の神を騒がせてはならないと考えられていたともみることができる。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「渡し」の意味・わかりやすい解説

渡し
わたし

川や海を渡過すること,または渡過する場所。渡過の方法によって徒 (かち) 渡り,船渡り,綱渡り,駕籠渡りなどがある。元来は浅瀬を歩く徒渡りであったが,大化改新 (645) 以来,徒渡りの困難な場所には船と船子をおくことを定めた。江戸時代になって,幕府がさらに渡しの制度を整備し,定 (じょう) 船場を指定し,定渡船には高札を与え,渡銭や渡子についても規定したが,この制度化は警備の目的も兼ねるものであった。 (→川越 )

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