今切渡(読み)いまぎれのわたし

日本歴史地名大系 「今切渡」の解説

今切渡
いまぎれのわたし

浜名湖を隔てた東海道舞坂まいさか宿と新居宿を結んだ船渡しで、今切渡船ともいう。渡しの起源は一五世紀末頃とされる今切形成後とみられるが、不詳。天文二二年(一五五三)閏一月一一日の今川義元通行手形(植松雄峰氏所蔵文書)は、伊勢参宮の道者四〇余人に対し駿河・遠江・三河の関・渡船場において関銭や船賃の支払いを免除しているが、「但、今切渡相定船賃可有之」とあって当渡は例外とされている。同二三年頃の三月、大村家盛が池上本門寺参詣の途次「いまきれ渡り」を通過した(「参詣道中日記」大村家文書)。弘治二年(一五五六)九月、山科言継が白須賀しらすか(現湖西市)から一里の「今キレノ渡」を利用し、海上一里余を経て舞坂に至っている(言継卿記)。永禄五年(一五六二)一〇月、今川氏真は今切渡船の用木としてあめ(現森町)の木を伐採した神主中村大膳亮を賞している(同月一三日「今川氏真判物」天宮神社文書)。同一〇年五月、富士見物のため下向した里村紹巴は「白菅浜名橋のあといまきれの渡」を渡っている(紹巴富士見道記)。天正二年(一五七四)一二月二八日、徳川家康は今切渡船の船守に対し三ヵ条の定書を与え、その運営を保護している(「徳川家康判物写」新居関所史料館所蔵文書)

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百科事典マイペディア 「今切渡」の意味・わかりやすい解説

今切渡【いまぎれのわたし】

東海道舞坂(まいさか)宿(現浜松市)と新居(あらい)宿(湖西市)の間,浜名(はまな)湖南部に架けられた渡船場。浜名湖から遠州灘に注ぐ浜名川には橋が架けられていたが,戦国期の地震・津波により決壊した。江戸時代,舞坂・新居間には渡し場が設けられ,新居関役人の管轄下,新居宿の住人が船を運航した。渡し船の組織は中世今川氏時代以来の伝統を有する〈十二座〉を基幹とし,船120艘を360人の船頭が12組に分かれて運営した。大通行時には寄せ船制度が適用され,周辺村々から船が供出された。1881年に架橋され,消滅
→関連項目脇街道

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改訂新版 世界大百科事典 「今切渡」の意味・わかりやすい解説

今切渡 (いまぎれのわたし)

東海道舞坂宿新居(あらい)宿間の渡船場。遠江国(静岡県)の浜名湖は,元来淡水湖で湖から遠州灘まで浜名川が流れ,そこに浜名橋が架けられていた。しかし,1498年(明応7)と1510年(永正7)の地震・津波により決壊して〈今切〉となり,交通は新居~舞坂間27町を渡し船に頼ることになった。この船路はその後の津波の被害により,1699年(元禄12)に1里,1707年(宝永4)には1里半に延長した。江戸幕府はこの地に新居関を創設。渡し船の運航は1574年(天正2)の徳川家康の判物と,関所が新居宿側に存在したことを理由に,関所役人の監視のもとに新居宿住民が担当。渡し船組織は今川氏領有時代以来の伝統を有する〈十二座〉を基幹として渡し船120艘を有し,360人の船頭が12組に分かれて運営した。大通行の際には陸上の助郷に相当する〈寄せ船制度〉が適用され,周辺村々から猟(漁)船等を供出させた。1881年の架橋により渡し船が消滅した。
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