(1)劇団名。文芸協会を脱退した島村抱月(ほうげつ)と女優の松井須磨子(すまこ)を中心に1913年(大正2)に結成され、メーテルリンクの作品で旗揚げした。当初は経営的に行き詰まったが、14年に帝国劇場で上演したトルストイ原作『復活』が、劇中歌「カチューシャの唄(うた)」とともに大ヒットした。以後かねて抱月が考えていた大衆受けのする大劇場公演と純芸術的な小劇場公演を併行させようという「二元の道」を経営方針とした。15年には神楽坂(かぐらざか)に小劇場「芸術倶楽部(クラブ)」を完成、そこでの研究劇公演は好評をもって迎えられ、さらに経済的基盤の安定を図って18年には松竹と提携、抱月念願の道を歩み始めた矢先の同年末、抱月はかぜで急死、翌年1月には須磨子も後追い心中をして劇団は解散した。芸術座は新劇としていち早く浅草公演をもったように、当時の民衆芸術論の影響を強く受け、ために一部から新劇堕落と批判されたが、新劇の普及という面で果たした役割は大きい。
なお、1924年には、芸術座出身の水谷竹紫(ちくし)が義妹水谷八重子と第二次芸術座をおこし、これは八重子が新派入りしたのちも45年(昭和20)の敗戦直前まで、ときに単独公演をもった。
[大笹吉雄]
(2)劇場名。水谷八重子が預かっていた芸術座の名を譲り受け、1957年(昭和32)東京・日比谷(ひびや)の東宝会館4、5階に創設された。小林一三(いちぞう)に招かれて東宝の演劇担当重役となった菊田一夫(かずお)の希望でつくられた、新しい大衆劇上演のための劇場。菊田はここで女優中心の女性向き現代劇の上演を図り、自ら劇作、演出、製作し、『がめつい奴』『暖簾(のれん)』『放浪記』などのヒット作を生み、また付属の俳優養成組織東宝現代劇を設立した。菊田没後もその路線が踏襲されている。客席数754。
[水落 潔]
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劇団名。(1)第1次は,1913年(大正2)文芸協会を恋愛事件で除名された島村抱月・松井須磨子が創立したもので,モスクワ芸術座の名称を借りたといわれる。須磨子の演目に中山晋平作曲の主題歌を挿入したのが人気を呼び,とくに《復活》(トルストイ原作)の〈カチューシャの歌〉が名高い。のちに松竹と契約しているが,長く経済的には苦労した。そのため抱月は芸術俱楽部という東京牛込の小劇場で文学的戯曲を手がける一方,大衆と親しむために浅草に進出,全国巡演も試みた。早稲田系の作家が応援,中村吉蔵の作品を多く上演している。1918年,抱月が急死,翌年須磨子が自殺したために解散に至るが,東京の本公演は14回におよんだ。この劇団から新国劇の沢田正二郎が出ている。(2)第2次は,1924年(大正13),第1次の芸術座の舞台に子役で出ていた水谷八重子の義兄水谷竹紫(ちくし)が,妹の劇団名として継承,八重子が新派に加入する以前に,おもに東宝系の劇場に,この名称で出演していた。
執筆者:戸板 康二
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大正期の劇団。1913年(大正2)島村抱月(ほうげつ)が松井須磨子を中心俳優として結成。興行不振を続けたが,第3回公演「復活」が大当りし,劇中歌「カチューシャの唄」の流行で全国巡演に成功。「アンナ・カレーニナ」「闇の力」のほか,中村吉蔵(きちぞう)作「剃刀(かみそり)」も成功した。18年の抱月の死,19年の須磨子の自殺後,消滅。24年に水谷八重子が第2次芸術座を組織し,公演を重ねたが自然解消。なお,東京日比谷にあった同名の劇場は57年(昭和32)開場・2005年(平成17)閉鎖で,まったく無関係。
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…劇団主宰者。学生時代からA.アントアーヌの自由劇場にかかわっていたが,コンセルバトアール(国立演劇学校)を卒業後,象徴主義の詩人ポール・フォール(1872‐1960)らが創設した芸術座に加わった。1893年にM.メーテルリンク《ペレアスとメリザンド》を初演出するとともに,芸術座を制作座に改名して引き継ぎ,その指導者となった。…
…小説家として出発し,小山内薫の《新思潮》記者となり,《紀念会前夜》(1909),《第一の暁》などで劇作家として認められた。13年島村抱月の芸術座創立に参画,翌年沢田正二郎らと脱退して美術劇場を組織したが経営に失敗。失意の時期エスペラント,インド哲学に打ち込み,童話創作を試みつつ社会主義に傾く。…
…たとえば,逍遥邸の演劇研究所設立以降の後期文芸協会にしても,上演9演目中,シェークスピア劇3演目を含む7演目が外国戯曲であったし,自由劇場上演15演目中,9演目が西欧近代戯曲であった。 外国劇の作品紹介的な上演活動では劇団の自立性も経済基盤もつくれず,離合集散を重ねる新劇団活動のなかで,大衆的娯楽性の獲得による経済基盤の確立と芸術性追求の実験的小劇場公演の“二元の道”をとることによって,劇団の自立と持続をはかったのが,文芸協会解散直後の13年9月にメーテルリンク作品で旗揚げした島村抱月・松井須磨子主体の芸術座であった。沢田正二郎らも参加した芸術座第3回公演のトルストイ作《復活》上演(1914年3月)において,抱月は中山晋平作曲の《カチューシャの唄》をカチューシャ役須磨子の歌う劇中歌として挿入し大当りをとって全国巡演を可能ならしめた。…
…16年に高田と秋月,17年に藤沢が没し,〈新派〉は伊井,河合,喜多村のいわゆる〈三頭目時代〉となったが,21年に若い花柳(はなやぎ)章太郎が藤村秀夫,小堀誠,武田正憲,柳永二郎,松本要次郎,大矢市次郎,伊志井寛らと研究劇団として〈新劇座〉を結成,有島武郎《ドモ又の死》や秋田雨雀《国境の夜》の上演をしたり,また井上が《酒中日記》《平将門》を上演するなど一部で意欲的な活動はあったものの,全般には映画や新国劇の人気に押されがちで低調だった。なお,24年にもともと新劇から出発した水谷八重子を中心にした第2次芸術座ができて,27年に本郷座で藤森成吉《何が彼女をさうさせたか》を上演,以降松竹と提携して,いわゆる〈新派〉の一角に加わってきた。 低調だった〈新派〉が活気を得たのは,31年11月明治座上演の瀬戸英一《二筋道》であった。…
…長野県松代に生まれ,上京して文芸協会の養成所を卒業,初公演の《ハムレット》のオフィーリアでみとめられ,続いて《人形の家》のノラ,《マグダ》(《故郷》)のマグダの大役で劇団のスターとなった。島村抱月との恋愛で協会を除名され,大学教授の座を追われた抱月と芸術座という劇団を1913年(大正2)に結成,女座長として以後毎公演の主役を演じ続けた。劇中歌を歌うのがその演出の特色で,特に《復活》のカチューシャ(〈カチューシャ可愛や〉の歌),サロメが評判であった。…
…また西欧の近代劇運動が紹介され始めたこともあり,私営の劇団がいくつか誕生した。なかでも98年にスタニスラフスキーとネミロビチ・ダンチェンコが創設したモスクワ芸術座は,演出芸術を確立させ,演技のアンサンブルを重視し,せりふの行間に流れる心理をたどりながら人間の真の姿を表現することに成功した。芸術座のチェーホフ劇,ゴーリキー劇などはロシア演劇を飛躍的に発展させたのみならず,世界の演劇に大きな影響を与えた。…
※「芸術座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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