第4代横綱。陸奥国七郷村霞目(現,仙台市)に生まれる。本名金子与四郎。1769年(明和6)初土俵。巨人のため当時流行の看板大関に付け出されたが,伊勢ノ海部屋入門前に伊達氏の重臣白石城主片倉氏に召し抱えられ相撲を修業していた。現役中の95年,流行性感冒のため帰郷療養中病没。このため江戸では感冒を〈谷風〉といっておそれたという。その間27年44場所,負けはわずか14回,63連勝,京坂場所を入れると98連勝,天下無敵の名をとどろかせた。1789年(寛政1)小野川喜三郎とともに初の横綱免許を受けた。189cm,169kg,腹の周囲217cmもあるアンコ型。講談《寛政力士伝》の大スターで,その人徳は〈谷風の七善根〉の美談もあり,江戸歌舞伎の《先代萩》には筋に関係なく登場させた人気者。〈わしが国さで見せたいものは,むかしゃ谷風,いま伊達模様……〉と仙台の俚謡にうたわれている。
執筆者:池田 雅雄
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(鶴見俊輔)
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江戸時代の強豪力士。寛延(かんえん)3年、仙台市若林区霞目に生まれる。幼名与四郎。生家は代々金子弥右衛門と名のった。谷風は江戸力士関ノ戸億右衛門(のち2代伊勢ノ海(いせのうみ))の仙台巡業中にみいだされ、1769年(明和6)19歳のとき江戸深川八幡(はちまん)興行に、巨体のため当時の風習である看板大関として初土俵を踏み、以後、95年(寛政7)45歳で現役中に帰郷してかぜのため病死するまで27年間、江戸、大坂、京都の大場所を70場所勤め、負けはわずか20回で三都に天下無敵の名をとどろかした。仙台伊達(だて)家の抱え力士で、89年好敵手小野川とともに初めて横綱土俵入り免許を受け、現在は4代目横綱に数えられている(3代目までは架空)。身長189センチメートル、体重169キログラムのあんこ型巨人で、7場所連続無敗の記録が2回あり、多くの錦絵(にしきえ)肖像画が残されている。
[池田雅雄]
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…大坂相撲から1779年(安永8)江戸へ出て二段目筆頭(いまの十両)に付け出される。久留米有馬侯に召し抱えられ,当時8場所土つかずの谷風梶之助を破り,〈谷風は負けた負けたと小野川や かつをよりねの言いとり沙汰〉と蜀山人の狂歌で大評判となった。この時期,勧進相撲は黄金時代を迎え,徳川将軍上覧相撲にそなえ,89年(寛政1)谷風とともに前例のない横綱土俵入り免許を受けて観客の目を見張らせた。…
…講談。4代横綱谷風とその弟子雷電および小野川の3名の力士を中心に,佐野山の孝心,稲川の義俠などを描く。なかでも谷風の七善根,雷電の封じ手,小野川雷電遺恨相撲などがおもしろい。小田原の仇討相撲は一席物として今日でもよく演じられる。これを語って有名な真竜斎貞水(しんりゆうさいていすい)(のちに早川貞水,1917没)は国技館木戸御免であったし,貞鏡時代の1896年に《寛政力士伝》を刊行した。【吉沢 英明】…
…横綱に関する古文書は少なく,1773年(安永2)に行司式守五太夫の書いた伝書によると,その起源は,城や屋敷を建てるときの地鎮祭に大関2人を招き,おはらいの地踏みを行ったが,その儀式免許を京都五条家が〈横綱之伝〉を許すといったことから始まったとされる。これを職業相撲の興行の土俵に移したのが吉田司(よしだつかさ)家で,89年(寛政1)11月場所中に,初めて谷風梶之助,小野川喜三郎の両関脇(実力大関)に,〈横綱〉というしめ縄を腰にまとって土俵入りする免許を与えた。当時,横綱は腰にまとったしめ縄をさすのみで,もちろん番付には関係がなく,また大関の称号でもなかった。…
※「谷風梶之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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