和邇(読み)わに

日本歴史地名大系 「和邇」の解説

和邇
わに

和名抄」にみえる滋賀郡真野まの郷内の地。和爾とも記す。和邇川下流左岸の琵琶湖岸に比定される。同川に沿って龍華りゆうげ越の道が走り、北陸道との合流点に和邇駅があった。地名の由来は、大和の豪族和邇氏の部民が設定されたことによるとみられ、天平宝字二年(七五八)二月二四日の画工司移(正倉院文書)に「丸部」(和邇部)の存在が滋賀郡に確認される。ただし「新撰姓氏録」右京皇別下の真野臣の項によると、「和珥部臣鳥」らが「志賀郡真野村」に住し、持統天皇四年(六九〇)に真野臣を称したと伝えられることから、和邇部臣が丸部の管理にあたっていたと推定される。

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百科事典マイペディア 「和邇」の意味・わかりやすい解説

和邇【わに】

琵琶湖西岸,近江国滋賀郡の地名。滋賀県志賀町域(現・大津市)にあたる。大和の豪族和邇氏の部民が設定されていたことによる地名とされ,隣接する小野の和邇大塚山古墳の被葬者は和邇氏系の有力者と推定されている。北陸道の和邇駅が置かれ,駅馬7疋・伝馬5疋を備えていた。841年延暦(えんりゃく)寺の法勢大法師が竹生(ちくぶ)島に参詣する途次,和邇村に宿泊している。また湖上交通の要所でもあり,867年には和邇泊の船着場が崩れたとしてその修理が国司(こくし)に命じられている。883年には和邇御厨(みくりや)がみえ,贄人(にえびと)の活動が保障されている。1001年には和邇荘平惟仲(これなか)から白川寺喜多院に施入されているが,1042年当時の本田は89町であった。のち延暦寺領となり,1169年焼失した根本中堂の再建には杣工(そまだくみ)を出している。1227年佐々木信綱に承久(じょうきゅう)の乱の戦功として和邇荘地頭職が与えられている。江戸時代には幕府代官支配・旗本市橋知行所・三上藩領などとして推移,1651年の船数は38艘で,堅田(かたた)の漁師と漁場争いとなっている。

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改訂新版 世界大百科事典 「和邇」の意味・わかりやすい解説

和邇 (わに)

滋賀県大津市の旧志賀町南部の地名。和邇川が比良山系から琵琶湖にそそぐ一帯古代に和邇氏がいたといわれる。813年(弘仁4)に和邇村の記事がみられる(《類聚国史》)。867年(貞観9)には和邇泊(とまり)の修理が国司に命ぜられており,また883年(元慶7)には和邇御厨のあったことがわかる(《類聚三代格》)。和邇荘は1001年(長保3)平惟仲より白川寺喜多院に施入された所領のうちにみえ,また42年(長久3)の寂楽寺紛失状では本田89町であった(《高野山文書》)。その後,山門(比叡山延暦寺)領となり1169年(嘉応1)の根本中堂焼失の再建に杣工を出している(《山門堂舎記》)。1227年(安貞1)承久の乱の戦功として和邇荘地頭職が佐々木信綱に与えられたが(《吾妻鏡》),実質はなかった。1319年(元応1)の〈日吉社領注進記〉に和邇浜がみえ,《太平記》からも山門領であることがわかる。中世末まで膝下荘園として存在したと考えられる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「和邇」の意味・わかりやすい解説

和邇
わに

滋賀県西部、大津市の一地区。比良(ひら)山の南東麓(ろく)、和邇川流域にあり、東は琵琶(びわ)湖に面する。地名は古代の和邇氏に由来し、和邇荘(しょう)の地で、『延喜式(えんぎしき)』に和邇駅の名もみえる。近世は西近江(おうみ)路の宿場が設置された。南部の小野には小野篁(たかむら)神社や小野道風(とうふう)神社、小野妹子(いもこ)の墓と伝える唐臼山古墳がある。国道161号が通じ、湖西道路和迩(わに)インターチェンジがある。また、JR湖西線和邇駅もある。湖岸には水泳場があり、夏のリゾート地としてにぎわう。

高橋誠一

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