岡城跡(読み)おかじようあと

日本歴史地名大系 「岡城跡」の解説

岡城跡
おかじようあと

[現在地名]竹田市竹田

大野川(白滝川)稲葉いなば川に囲まれた四面絶壁の要害の台地上にある。臥牛がぎゆう城ともいう。国指定史跡。文治元年(一一八五)源頼朝により追討されようとした源義経を迎えるため、豊後の豪族緒方三郎惟栄が築城したと伝える。同年一一月義経ら一行は大物だいもつ(現兵庫県尼崎市)から九州を目指して船出したが、暴風雨にあい、吉野の山中に避難した(「平家物語」巻一二)。志賀貞朝が城を拡張して塁を築いたという。当時の岡城は近世の搦手の下原しもばる門が大手で、その北側の挟田はさだ十川そうがわ城下町があったという。志賀氏は藤姓大友氏の庶家。初祖は能郷で、父は大友氏初代能直、母は正妻高山(畠山とも)四郎入道娘で、仏門に入り深妙と称し、風早禅尼ともよばれる。延応二年(一二四〇)四月六日母深妙から大野郡大野庄内志賀しが(現緒方町・朝地町)の南方半分を分譲されて土着し(「尼深妙譲状」志賀文書)名字の地とする。二代泰朝は文永・弘安の役に出陣し、両度の勲功賞として筑前国三奈木みなぎ(現福岡県甘木市)を与えられた。弟禅季は祖父能直供養のため僧となってとまり(現大野町)に入った。禅季は文永・弘安の役に際し志賀氏惣領泰朝に従わず、大友惣領家に従って出陣したいと願出たことで有名である。禅季の嫡子朝郷のとき独立して南志賀氏を称し、のちに直入なおいり白丹しらに(現久住町)南山なんざん城を本城としたという。これに対し本流は北志賀氏とよばれ、三代貞朝・四代頼房・五代氏房は南北朝期を通じて活躍する。

岡城跡
おかじようあと

[現在地名]岡垣町吉木 矢口

吉木よしき小学校から北西に一〇〇メートルほど離れた標高約四〇メートルの丘陵上に位置し、腰山城ともいう(「続風土記」など)。頂上部に東西一五メートル・南北三〇メートルほどの主郭があり、その北の一段下がったところに東西一四メートル・南北二二メートルほどの曲輪、さらに北側にも曲輪が確認される。築城年代は不明だが、一説には文明一〇年(一四七八)大内政弘に降伏して花尾はなお(現北九州市八幡西区)を明渡した麻生家延が、遠賀川西岸に退去して当地に城を築いたのが始まりともいわれる。

岡城跡
おかじようあと

[現在地名]香芝町大字畑

二上山東北麓のだいジョウゴ山に所在。郭・土塁・井戸・空堀などが残る。岡氏は至徳元年(一三八四)の長川流鏑馬日記(天理図書館保井文庫)、応永八年(一四〇一)の寺門事条々聞書(内閣文庫文書)にみえる興福寺一乗院方国民で、平田ひらた庄八荘官の中心であった(→平田庄

岡城跡
おかじようあと

[現在地名]粉河町下丹生谷 岡

下丹生谷しもにうのや最北端の字岡にあり、西に池を控えた丘陵部の一角に築かれた南北朝時代の城跡。「続風土記」は「東は土地卑く南は堀形あり、西は渓に臨み北は平地に続く、其南隅高平の地方十間許、相伝ふ山中弾正ノ忠政利上下丹生ノ谷村并に川原村を領しこゝに居城す、其孫政方の時長享二年三月名手新蔵人及宇野の一族等と相戦ひて敗死す、城此時破滅す、今其子孫上丹生ノ谷村に在りて世々地士たり、城地を以て墓地とす、嘉慶二年足利将軍義満公和歌ノ浦遊覧の時の記に岡ノ城に入給ふ事を書す、岡ノ城は即此城の事なるへし」と記している。

岡城跡
おかじようあと

[現在地名]上田市大字岡 城

上田市大字岡の南方、小字じようにある。浦野うらの川の北岸の断崖上に位置し、東・北・西の三方に堀を巡らす。東西四六二メートル、南北二六四メートルで、面積約七万平方メートル。土居、堀を巡らし、更にその外に東・西の三ヵ所に三日月形の堀をもって出入口を扼している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「岡城跡」の解説

おかじょうあと【岡城跡】


大分県竹田(たけた)市竹田にある城跡。別名、臥牛(がぎゅう)城、豊後(ぶんご)竹田城。北を稲葉川、南を白滝川に挟まれ、断崖絶壁が切り立ったような標高325mの天神山に築かれ、城域は東西2500m、南北360mに及ぶ。東から本丸・二の丸・三の丸・西の丸を配し、西側には大手門、東側に下原(しもばる)門を設け、二の丸・三の丸の北側には高石垣が築かれている。西の丸には御殿や重臣の屋敷などが置かれ、本丸南隅には御三階櫓(やぐら)が造られ、宝暦年間(1751~64年)の『宝暦御城真景図』では櫓は花頭窓(かとうまど)や高欄をつけた層塔形に描かれている。火災や廃城令による破却で、現在は石垣だけしか残っていないが、櫓や大手門などの跡がよくわかり、規模も大きいところから、1936年(昭和11)に国の史跡に指定された。その後、稲葉川周辺や藩校由学館跡、七里蔵跡、武家屋敷跡などの範囲が追加指定された。城の創建時期は定かではないが、建武年間(1334~38年)に大友氏一族の志賀氏が緒方氏の城を修築し、岡城と名づけたという。天正年間(1573~93年)には志賀親次(ちかよし)が薩摩の島津氏の来攻を撃退し、豊臣秀吉から感状を受けた。その後、大友氏の改易とともに志賀氏が城を去り、1594年(文禄3)に中川秀成(ひでしげ)が入封し、明治維新にいたるまで中川氏の支配が続くことになる。中川秀成は大規模な改修を行い、本丸の御三階櫓もこのときにできた。「荒城の月」で知られる滝廉太郎は幼少期を竹田で過ごし、岡城跡でその曲想を得たといわれており、一帯は岡城公園として整備されている。JR豊肥本線豊後竹田駅からコミュニティバス「岡城入口」下車、徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典・日本の観光資源 「岡城跡」の解説

岡城跡

(大分県竹田市)
日本の歴史公園100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

デジタル大辞泉プラス 「岡城跡」の解説

岡城跡

大分県竹田市にある公園。岡城跡を公園として整備したもの。日本の歴史公園100選に選ばれている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の岡城跡の言及

【竹田[市]】より

…特産としてカボス,サフランがある。大野川の支流稲葉川と玉来川にはさまれた要害の地に,滝廉太郎作曲の《荒城の月》ゆかりの岡城跡(史)がある,幕末の南画家田能村竹田(たのむらちくでん)の旧宅竹田荘(史),1635年(寛永12)建築の愛染堂,円通閣,ドーム形のキリシタン洞窟礼拝堂などがあり,拝田原(はいだばる)の中川神社には〈HOSPITAL SANTIAGO 1612〉銘の銅鐘(重要文化財)が伝わる。また戸上(とのうえ)には前方後円墳2基などを含む七ッ森古墳(史)があり,周辺には縄文時代や弥生時代の遺跡も多い。…

※「岡城跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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