萩藩(読み)はぎはん

百科事典マイペディア 「萩藩」の意味・わかりやすい解説

萩藩【はぎはん】

長門(ながと)国萩に藩庁を置いた外様藩。長州藩毛利藩とも。1863年藩庁を周防(すおう)山口に移し,以後山口藩ともいう。表高は36万9400余石,明治初年の実高は98万8000石。藩主毛利氏戦国大名として安芸国を中心に中国地方8ヵ国120万石を領有していたが,関ヶ原の戦後徳川氏によって長門・周防の2ヵ国に封じられ,以後この2ヵ国を領知として明治に至る。支藩は多少の変化はあるが長府毛利氏5万石,徳山毛利氏4万石余,清末毛利氏1万石,および岩国領(岩国吉川家)6万石からなる。家臣団一門6家,永代家老家,寄組などの上層家臣と馬廻組,船手組などによって編成された。藩内は行政区として郡に相当する18の宰判(さいばん)(裁判とも)に分けて支配した。1840年,村田清風らの藩政改革財政再建に成功,幕末尊王攘夷運動鹿児島藩と並んで主導的役割を果たした。→長州征伐馬関戦争藩閥政治薩長同盟
→関連項目イギリス公使館焼打事件恵美須ヶ鼻造船所跡大板山たたら製鉄遺跡周防国長門国萩反射炉萩藩閥閲録防長風土注進案明倫館山県有朋

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「萩藩」の解説

萩藩
はぎはん

長州藩とも。長門国萩(現,山口県萩市)を城地とする外様大藩。周防・長門2カ国を領有。豊臣政権の五大老の1人として中国地方で約112万石を領した毛利輝元(てるもと)は,関ケ原の戦で西軍に加わり周防・長門2カ国に減封。同年家督を長男秀就(ひでなり)に譲る。1604年(慶長9)本拠地として萩に築城。以後14代にわたる。表高は36万9411石だが,幕初の検地では53万9286石。2度の領内検地と直轄領の拡大,行政・支配組織の整備(宰判(さいばん)の設置),諸法令を集大成した「万治制法」の制定などにより,17世紀後半頃までに藩政が確立。幕初における大幅な領地削減は慢性的な財政難をもたらしたが,宝暦年間に検地を実施して約4万石を打ち出し,これを財源として撫育方を設置して藩政改革を実施。塩田や新田の開発,産業の育成などをはかった。1831年(天保2)専売制の強化に対して大規模な一揆(防長一揆)がおこり,これを機に村田清風(きよかぜ)らを登用して再び藩政改革に着手。幕末には尊王攘夷運動を主導し,鹿児島藩とともに明治維新の原動力となる。63年(文久3)山口へ拠点を移し,山口藩と改称特産に紙・櫨・塩・菜種・藍などがあるが,早くから藩の統制下におかれたものも多かった。詰席は大広間。藩校明倫館。松平姓を許されていた。支藩に長府・徳山・清末(きよすえ)の3藩があり,幕末には岩国藩も加わる。廃藩後は山口県となる。

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防府市歴史用語集 「萩藩」の解説

萩藩

 江戸時代に毛利氏の本家が直接おさめた藩です。本家のいる萩藩のほかに、4つの小さな藩(支藩[しはん])があり、それぞれに一門[いちもん]がおさめていました。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「萩藩」の意味・わかりやすい解説

萩藩
はぎはん

長州藩

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デジタル大辞泉プラス 「萩藩」の解説

萩藩

長州藩の別称。城が置かれた長門国、萩(現:山口県萩市)の地名から。

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藩名・旧国名がわかる事典 「萩藩」の解説

はぎはん【萩藩】

長州藩(ちょうしゅうはん)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「萩藩」の意味・わかりやすい解説

萩藩
はぎはん

長州藩」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の萩藩の言及

【長州藩】より

…江戸時代,周防国,長門国(ともに山口県)を藩領とした外様藩。萩藩,毛利藩,山口藩などともいう。表高は36万9411石余だが,明治初年の実高は98万8000石余とされる。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」