スチュアート(読み)すちゅあーと(英語表記)Rod Stewart

デジタル大辞泉 「スチュアート」の意味・読み・例文・類語

スチュアート(James Denham Steuart)

[1712~1780]英国の経済学者。重商主義の理論を体系化し、流通主義的視点に立ちながらも生産過程の分析を試みた。著「経済学原理」など。ステュアート

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精選版 日本国語大辞典 「スチュアート」の意味・読み・例文・類語

スチュアート

  1. ( Sir James Denham Steuart サー=ジェームズ=デナム━ ) イギリスの経済学者。重商主義経済学の体系化を試み、「最後にして最大の重商主義者」と称される。A=スミスの先行者で、はじめて「ポリティカル‐エコノミー(経済学)」という表題を用いた。主著「経済学原理」。(一七一二‐八〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スチュアート」の意味・わかりやすい解説

スチュアート(Rod Stewart)
すちゅあーと
Rod Stewart
(1945― )

イギリスのロック、ポピュラー歌手、ソングライター。ロンドン生まれ。両親はスコットランド人。14歳からギターを弾き、少年時代はフットボールにも熱中する。1963年から歌手・ハーモニカ奏者としてリズム・アンド・ブルース系のバンドなどに参加。1964年に歌手ロング・ジョン・ボールドリーLong John Baldry(1941―2005)率いるフーチー・クーチー・メンHoochie Coochie Menに加入。デッカ・レコードに歌の才能が認められ、同年10月にデビュー・シングル盤『グッド・モーニング・リトル・スクールガール』Good Morning Little Schoolgirlを発表するが、ヒットには至らなかった。

 その後、1965年スティームパケット、1966年ショットガン・エクスプレスへのボーカル参加を経て、同年末ギター奏者のジェフ・ベックのグループに参加。1969年スモール・フェイセズSmall Faces(後にフェイセズと改名)にギター奏者ロン・ウッドRon Wood(1947― )とともに参加、同時にソロ活動も開始する。1971年にはソロ・シングル『マギー・メイ』Maggie Mayが英米両国でヒットしてミリオンセラーを記録。1975年末フェイセズの解散で独立。『セイリングSailing(1975)、『今夜きめよう』Tonight's the Night(1976)、『胸につのる想い』You're in My Heart(1977)、『アイム・セクシー』Da Ya Think I'm Sexy?(1978)、『ダウンタウン・トレイン』Downtown Train(1989)などの大ヒットを放ってイギリスを代表するスターになった。1989年にグラミー賞リビング・レジェンズ賞を受賞。しわがれ声の歌唱に生々しい情感の迫力とセクシーな魅力がある。

[青木 啓]


スチュアート(Sir James Denham Steuart)
すちゅあーと
Sir James Denham Steuart
(1713―1780)

スコットランドが生んだ重商主義の経済学者。準男爵。エジンバラに生まれ、エジンバラ大学で法律学を学んだのち、5年間大陸旅行を行う。そのおり、名誉革命で亡命し王位を失ったスチュアート王家の人々や、その復位を企図するジャコバイトの指導者たちと会い、親交を結ぶ。帰国後1745年にそのジャコバイトの反抗がスコットランドに起こった際、フランスの支援を得るためパリに派遣された。しかし、反抗は失敗に帰したため、その後18年間大陸で亡命生活を送った。その間、経済学の研究に着手し、帰国後67年に『政治経済学原理の研究』An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy, 2 vols.を出版した。ヒュームとウォーレスの人口論争批判から出発し、人々が剰余を生産して交換し相互協力の関係にたつ自由な商業社会形成の意義を強調した。消費欲望が貨幣と結合して有効需要となり、この有効需要がその生産の主要な動因になるとした。為政者による保護政策の必要を説き、ヒュームの貨幣数量説を批判した。考察は信用や財政に及ぶ。スミス『諸国民の富』はその原理批判の意図をもつ。死後G・チャーマーズの編集による全集六巻が息子ジェームズの編者名で1805年に出版された。

[川島信義]

『中野正訳『経済学原理』全七冊中1~3既刊(岩波文庫)』『加藤一夫訳『経済学原理』全三巻(1980~82・東京大学出版会)』『川島信義著『ステュアート研究』(1972・未来社)』『小林昇著『経済学史著作集V J・ステュアート研究』(1977・未来社)』


スチュアート(Douglas Alexander Stewart)
すちゅあーと
Douglas Alexander Stewart
(1913―1985)

オーストラリアの詩人、劇作家、批評家。ニュージーランド北島エルサム生まれ。第一詩集『緑のライオン』(1935)刊行。1938年、『ブリティン』誌記者となり、シドニーに移住。1940年より文芸欄を担当する( ~1961)。第一詩集に続いてニュージーランドの風景を賛美した第二詩集『白い叫び』(1939)はロンドンで刊行、続いて第二次世界大戦時の『ある航空兵挽歌(ばんか)』(1940)、『無名戦士に捧(ささ)げる小曲』(1941)などはシドニーで出版。叙情詩人の文名を得たが、ついで口語を大胆に用いた歴史伝説に基づくラジオ向けの詩劇『ネッド・ケリー』(1943)、『雪上の火』『黄金の恋人』(ともに1944)などを上演、放送して大衆の喝采(かっさい)を得た。ほかに最後の詩集『ラザフォード』(1962)、ついで『詩集1936―1967』(1967)、『ブリティン誌の作家たち』(1977)などの評論、短編集に『赤毛の少女』(1944)がある。また多くの新人を紹介、『昔の奥地民謡及び植民地時代の押韻詩集』(1957)の刊行など、この国の文壇でもっとも幅広く活躍した。

[平松幹夫・古宇田敦子]


スチュアート(Ellen Stewart)
すちゅあーと
Ellen Stewart
(1919―2011)

アメリカの黒人女性演劇プロデューサー。シカゴ生まれ。ニューヨークの有名デパートの服飾デザイナーから転身し、無名の劇作家たちに発表の場を提供する目的で、1961年マンハッタンのイースト・ビレッジにブティック兼劇場スペース付きコーヒーショップ「カフェ・ラ・ママ」を開店。翌1962年、最初の演劇公演を行いオフ・オフ・ブロードウェー演劇運動の生みの親の一人となる。のちに「ラ・ママ実験劇場」La Mama Experimental Theatre Clubに改組、つねに資金難と闘いながらも、アメリカ国内の実験的作品に限らず、いち早く人種や国籍を越えて世界各地の演劇人に門戸を開き、劇場を世界の多様な演劇のメッカに仕立て上げた。東京キッドブラザースや寺山修司をはじめとして、富良野(ふらの)塾、木山事務所など、彼女の恩恵を受けた日本の演劇人も数多い。

[一ノ瀬和夫]


スチュアート(James Stewart)
すちゅあーと
James Stewart
(1908―1997)

アメリカの俳優。ペンシルベニア州生まれ。プリンストン大学在学中演劇の道に入り、ブロードウェーの舞台を経て1935年映画界入り。『我が家の楽園』(1938)、『スミス都へ行く』(1939)などのフランク・キャプラ作品で長身でのっそりとした善良なアメリカ青年を演じ、『フィラデルフィア物語』(1940)でアカデミー主演男優賞を受賞した。第二次世界大戦後は『グレン・ミラー物語』(1954)や『翼よ!あれが巴里(パリ)の灯(ひ)だ』(1957)など実在の人物に扮(ふん)し好演、意志の強い男をしばしば演じ、長い演技生命を保った。70年代は『陽気なハワード一家』『ホーキンス』などテレビシリーズに主演する一方、ブロードウェーにカムバック。80年代は彼の偉業に対する多くの賞が各方面から贈られ、85年にはアカデミー名誉賞を受賞した。80年(昭和55)、羽仁(はに)進監督の日本映画『アフリカ物語』に出演した。

[畑 暉男]


スチュアート(Gilbert Stuart)
すちゅあーと
Gilbert Stuart
(1755―1828)

アメリカの画家。連邦時代の代表的な肖像画家で、ロードアイランドニューポートに生まれる。1775年ロンドンで肖像画家として出発し、ウェストのもとで修練したのが幸いして、82年『スケートする人』で一躍注目される。のちアイルランドのダブリンでも肖像画家として活動するが、92年帰米し、東部の大都市で名声をはせる。ジョージ・ワシントン像を数多く描いたことで知られ、なかでも96年の作品は、ワシントン大統領の肖像の決定版として、その後のワシントン像の基準となった。華麗な筆さばきで対象を理想化する手法を得意とした。

[桑原住雄]


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改訂新版 世界大百科事典 「スチュアート」の意味・わかりやすい解説

スチュアート
James Denham Steuart
生没年:1712-80

イギリスの経済学者。スコットランドの名門貴族の出で,エジンバラ大学で法律学を学び,卒業後弁護士の資格を得たのちヨーロッパ大陸に遊学。亡命中のスチュアート王家の嗣子チャールズ・エドワード・スチュアート(1720-88)と知り合い,熱心な支持者となる。帰国後,チャールズが王家の復活を企てて起こしたジャコバイトの反乱(1745)に荷担し,支援活動のために再び大陸に渡る。内乱失敗後大逆罪に問われ,1763年まで大陸で亡命生活を送る。この時期に諸国を見聞して回り,経済学および財政学の研究に従事した。帰国後は隠退して《経済学原理》全2巻(1767)を完成。本書は出版当時は世評にのぼり,大陸や植民地で流布したが,A.スミスの《国富論》(1776)出版後はマルクスによって評価されるまで,ほとんど忘れられた著作であった。〈最後の重商主義者〉(重商主義)と呼ばれるように,本書は資本主義生成期(重商主義期)の諸学説を究極的に総括し,資本の本源的(原始的)蓄積の諸制度や諸政策のための理論的基礎を与えようとした大著で,スミスの《国富論》も,この《原理》への対抗的意識から成立した。経済学の歴史上,スミスの生産力視角とは対照的に商品流通部面の視角から,経済学の体系化を最初に与えた画期的な著作で,社会体制の歴史認識,貨幣論,有効需要論等は,マルクスやケインズ学派によって高く評価されている。息子のジェームズ編の6巻から成る全集(1805)がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スチュアート」の意味・わかりやすい解説

スチュアート
Stewart, James

[生]1908.5.20. ペンシルバニア,インディアナ
[没]1997.7.2. カリフォルニア,ビバリーヒルズ
アメリカ合衆国の映画俳優。フルネーム James Maitland Stewart。愛称 Jimmy Stewart。内気だが正義感の強い人物の演技に定評があった。プリンストン大学で建築学を専攻し,卒業後マサチューセッツ州のファルマスで学生演劇集団「ユニバーシティ・プレーヤーズ」に加入。ブロードウェーの舞台を何度か踏んだのち,スペンサー・トレーシー主演の『舗道の殺人』The Murder Man(1935)で映画デビューを果たす。フランク・キャプラ監督の『スミス都へ行く』Mr. Smith Goes to Washington(1939)で初めてアカデミー賞にノミネートされ,その後のキャリアが決定づけられた。『フィラデルフィア物語』The Philadelphia Story(1940)でアカデミー賞主演男優賞を受賞。1941年陸軍航空隊に入隊,大佐にまで昇進したのち 1945年に除隊。ハリウッド復帰後第1作となったキャプラ監督の『素晴らしき哉,人生!』It's a Wonderful Life(1946)で,再びアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。アルフレッド・ヒッチコック監督作品にもたびたび出演し,『裏窓』Rear Window(1954)や『めまい』Vertigo(1958)などの傑作を生み出した。アンソニー・マン監督とは 8本の作品でコンビを組み,『グレン・ミラー物語』The Glenn Miller Story(1954)は代表作の一つとなった。1985年,アメリカ国民に与えられる最高の名誉である大統領自由勲章を授与された。

スチュアート
Stuart, James Francis Edward; the Old Pretender

[生]1688.6.10. ロンドン
[没]1766.1.2. ローマ
イギリスの王位要求者。大王位僭称者,老王位要求者と通称される。ジェームズ2世と王妃メアリーの子で,誕生に関し偽王子との説が流れ,名誉革命の近因の一つになった。この革命でフランスに送られ,父母からカトリック教徒として育てられ,1701年父の死後ルイ 14世からイングランド王ジェームズ3世と宣言された。 08年王位要求の軍を起そうとフランスから出帆したが,上陸の機を失して不成功に終った。スペイン継承戦争ではフランス軍に従軍,オウデナルデの戦い,マルプラケの戦いに参加。「十五年の反乱」で王位奪回をはかったが失敗。 19年ポーランド王ヤン・ソビエツキーの孫娘マリア・クレメンティーナと結婚,翌年息子 (小王位僭称者) が生れたが,24年離婚。後半生はアビニョンマドリードにも住んだが,大半はローマで過した。

スチュアート
Stuart, Charles Edward; the Young Pretender

[生]1720.12.31. ローマ
[没]1788.1.31. ローマ
イギリスの王位要求者。小王位僭称者,若王位要求者と通称される。国王ジェームズ2世の孫,大王位僭称者 J.F.E.スチュアートの子。ローマで育ったが,オーストリア継承戦争でイギリスがフランスと開戦したのを機に,1743年パリにおもむき,フランスの軍事援助を得て王位奪回のためイギリスに侵寇しようとしたが嵐のため果さず,以後 L.G.マレーと連絡を取って再度計画を練り,45年フランス軍とともにナントを出航。途中フランス艦隊はイギリス艦隊に撃退されたため,従者7人だけを伴ってスコットランドに上陸,「四十五年の反乱」を起し,一時はイギリス政府を狼狽させたが,カロデンの戦いに敗れたのち,5ヵ月逃げ回ってフランスに戻った。その後もスペインその他に援助依頼に回ったが実らず,48年アーヘンの和約の取決めでフランスからも追放され,フィレンツェ,ローマで後半生をおくった。

スチュアート
Stewart, Balfour

[生]1828
[没]1887
イギリスの物理学者,気象学者。エディンバラ大学助手を経て,キュー天文台台長 (1859~71) 。一時気象台に勤務ののち,マンチェスターのオーウェンズ・カレッジ自然哲学教授 (70) 。ロイヤル・ソサエティ会員 (62) 。心霊研究協会を創設し会長 (85~87) 。マンチェスター文学・哲学協会会長 (87) 。偏光の放射法則 (60) ,太陽黒点の研究のほか,地磁気の変動が上層大気中の電荷の流れによるものであることを示唆し (60) ,のちの電離層研究の道を開いた。また分光分析の発展を基礎づけた熱放射の研究によりロイヤル・ソサエティのランフォード・メダル受賞。 P.テートとの共著『見えざる宇宙』 The Unseen Universe (75) がある。

スチュアート
Stuart, James Denham

[生]1712.10.21. エディンバラ
[没]1780.11.20. エディンバラ
スコットランドの経済学者。エディンバラ大学で法律を学び,弁護士となる。 1735~40年ヨーロッパに遊学,帰国してジャコバイトの乱 (1745~46) に連座,パリなどで長い亡命生活をおくる。 63年帰国,71年には反逆の罪を許されたが,この間にイギリスで最初に「政治経済学」を書名に冠した主著『政治経済学原理の研究』 An Inquiry into the Principles of Political Economy (2巻,67) を執筆した。これは重商主義の最終的段階にあって重商主義的政策体系の総合化を試みたものであり,特にそれを有効需要の視点から体系化した点で重商主義的見地から一歩前進した理論として評価されている。

スチュアート
Stewart, Dugald

[生]1753.11.22. エディンバラ
[没]1828.6.11. エディンバラ
イギリスの哲学者。スコットランド学派 (→常識哲学 ) に属する。 1772~85年エディンバラ大学教授,85~1820年同大学道徳哲学教授。最初,エディンバラ大学でファーガソンに学んだが,のちグラスゴー大学で T.リードに学び,彼の学説を奉じた。主著『人間精神の哲学』 Elements of the philosophy of the Human Mind (3巻,1792~1827) 。なお,W.Hamilton編の全集 (全 11巻,54~60) がある。

スチュアート
Stuart, Gilbert (Charles)

[生]1755.12.3. ノースキングストン
[没]1828.7.9. ボストン
アメリカの肖像画家。若年より S.キング,C.アレクサンダーに絵を学んだ。 1775年ロンドンに渡り,アメリカの画家 B.ウェストに師事。 82年同地にアトリエを開き成功。 93年ニューヨークに帰り,翌年からフィラデルフィアに住み,著名な人々を描いて当代の代表的肖像画家となった。彼は生涯に約 1000点の肖像を描いたと伝えられるが,最も有名なものはボストンにある G.ワシントンの未完の肖像 (1796) である。

スチュアート
Stuart, James Ewell Brown

[生]1833.2.6. バージニア,パトリック
[没]1864.5.12. バージニア,イエロータバーン
アメリカ南北戦争期の軍人。 1861年北軍の軍職を辞して南部連合軍に入り,第1,2次ブルランの戦い,62年「七日会戦」,フレデリックスバーグ,チャンセラーズビル,ゲティスバーグの戦いなどを歴戦,陸軍少将に昇進。 64年5月 11日ペンシルバニアへの進入を指揮,戦闘中に重傷を負って翌日死亡。

スチュアート
Stewart, Charles

[生]1778.7.28. フィラデルフィア
[没]1869.11.6. ニュージャージー
アメリカの海軍軍人。 1798年海軍に入り,1800年カリブ海で対フランス作戦に従事。 12年アメリカ=イギリス戦争において,アメリカ海軍の新鋭フリゲート艦『コンスティチューション』号を指揮して勇名をはせ,15年イギリスの軍艦『ケイン』号,『レバン』号を奪取した。

スチュアート
Stewart, Robert Michael Maitland

[生]1906.11.6. ケント,ブロムリー
[没]1990.3.10. ロンドン
イギリスの政治家,著述家。オックスフォード大学卒業。 1945年労働党下院議員。 47~51年陸軍次官,51年供給政務次官,64~70年教育・科学相,経済相,外相 (2期) を歴任した。主著『現代の政府』 Modern Forms of Government (1959) 。

スチュアート
Stuart, John McDouall

[生]1815
[没]1866
スコットランドの探検家。 C.スタートのオーストラリア探検 (1844~46) に製図者として参加。 1858~62年にはみずから前後6回の探検旅行を行い,60年には大陸中央部まで到達。 62年最後の探検ではこの大陸を初めて南から北へ縦断した。

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百科事典マイペディア 「スチュアート」の意味・わかりやすい解説

スチュアート

米国の肖像画家。ロード・アイランド州ノース・キングストン近郊生れ。1775年渡英し,ベンジャミン・ウェストに学んだが,ゲーンズバラやジョシュア・レーノルズの影響をより濃く受けた。ロンドン,ダブリンで活躍後,1793年米国に帰り,多くの肖像画を残した。代表作《ワシントンの肖像》(1796年,ボストン美術館蔵)など。

スチュアート[島]【スチュアート】

ニュージーランド南部,フォーボー海峡を隔てて南島に対する島。南島のサウスランド州の一部。火山島で,避暑地。中心集落はハーフムーン・ベイ。1746km2。708人(1995)。

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世界大百科事典(旧版)内のスチュアートの言及

【重商主義】より

…この意図は,D.ヒュームやJ.タッカーを経てA.スミスにつながる経済思想であった。
【主要な理論家・思想家】
 重商主義期の主要な理論家・思想家としては,以上に挙げた人たちのほかに,イギリスでは,労働価値説を萌芽的に説き古典派経済学の最初の人と評価されているW.ペティ,私的所有権の根拠を労働に求めその見地に立脚してT.ホッブズからの前進を示し同時に貨幣・利子論の分野でも貢献したJ.ロック,ロックの貨幣・利子論の系譜に属する自由貿易論者J.バンダーリント,重商主義的性格を残しながらも特異な思想家として主著《蜂の寓話》(1714)を著したB.deマンデビル,古典派経済学の生誕を用意した関係にあるR.カンティヨン,J.ハリス,スミスの師F.ハチソン,さらに有効需要重視の観点から経済学の体系化を試み《経済学原理》(1767)によって〈最後の重商主義者〉と呼ばれることになったJ.スチュアートなどを挙げることができる。 イギリス以外の後進資本主義国だったフランス,ドイツ,アメリカなどは,イギリスの世界市場支配とその産業革命の進展に影響されつつ,その特殊な後進的社会構造を資本主義化したために,重商主義の語をこれらの国における歴史的体制概念として使用することは困難である。…

※「スチュアート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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