シリア史(読み)シリアし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シリア史」の意味・わかりやすい解説

シリア史
シリアし

旧石器時代中頃にはシリアパレスチナの地に人が居住し,中石器時代にはナトゥフ文化が発展。前9000年頃からヒトツブコムギの耕作が始まり,前4000年の中頃には青銅などの冶金が行なわれるようになった。前15世紀にはウガリトで楔形文字のアルファベットが発明され(→ウガリト語),前10世紀頃になるとダマスカスを中心にアラム人の文明が栄えた。セレウコス朝時代を経て,前64年にはポンペイウスによってローマの属州に編入され,636年以降はビザンチン帝国に代わってアラブ人の支配が行なわれた。1516~1833年にはオスマン帝国の一属州,1833~40年はエジプト副王領,第1次世界大戦中からはイギリス,次いでフランスの委任統治下に置かれていたが,1946年完全に独立してシリア共和国となった。1958年エジプトとともにアラブ連合共和国を結成したが,1961年にはシリア=アラブ共和国として単独の国家に戻った。1963年バース党が政権を樹立。1967年の六日戦争(第3次中東戦争)ではイスラエルゴラン高原を占領され,のちの十月戦争(第4次中東戦争)でもさらに領土を失った。1971年,バース党内の派閥抗争の末,ハフェズ・アル・アサドが大統領に就任。アサドはムスリム同胞団を徹底弾圧するなどして多数派のスンニー派を掌握し,長期政権を敷いた。1971年からエジプト,リビアとともにアラブ共和国連邦を結成。しかし 1977年11月,エジプトのムハンマド・アンワル・アル・サダト大統領がシリアと敵対するイスラエルを訪問し,対エジプト関係が悪化,1979年断交。その後,1989年復交し,エジプトと反イラク陣営を築いた。1990年イラクのクウェート侵攻を非難し,湾岸戦争では多国籍軍に参加。2000年アサド大統領が死亡,息子のバシャル・アル・アサドが大統領に就任した。この頃からイラクとの関係が好転し,2006年には国交を回復。レバノンに対し 1976年以降シリア軍を駐留させていたが,2005年反シリア派のラフィク・アル・ハリリ元レバノン首相の暗殺をきっかけに,アメリカ合衆国などから圧力を受け撤退。2008年に外交関係を樹立した。2011年,中東・北アフリカ諸国の民主化運動に影響を受けた反政府運動が発生し内戦に発展した(→アラブの春)。2012年,複数の反政府勢力シリア国民連合を結成し優勢となったが,政府軍はイランやレバノンのシーア派系武装組織ヒズボラから支援を受け,内戦は長期化した。2013年8月ダマスカス郊外で化学兵器が使用され,政府の関与が疑われたことから化学兵器禁止条約加入。内戦の長期化に伴い自治を目指すクルド人民兵組織やイスラム過激派組織が活発化。特にシリア東部を占領した「イスラム国ISは 2014年に入り勢力を拡大し,アメリカ軍をはじめとする多国籍部隊が ISに空爆を開始した。内戦により大量の難民が発生し国際問題となった。

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