改訂新版 世界大百科事典 「ブガンダ王国」の意味・わかりやすい解説
ブガンダ王国 (ブガンダおうこく)
東アフリカのビクトリア湖北西岸,現在のウガンダ共和国に存在したバントゥー語系農耕民ガンダ族を主体とする王国。伝承によると,初代の王(カバカ)キントゥは東方から来て先住民を服従させ,王国を建設したという。隣のブニョロ王国の伝承では,ガンダの地はブニョロ王国ビト王朝の初代の王の双子の弟カトに与えられたというが,ガンダ族はこれを認めていない。建国時期ははっきりしないが,18世紀には強大な軍事国家としてブニョロ王国を攻め,版図を拡大し,象牙などの交易活動を盛んにした。19世紀中期にはアラブ商人から火器を輸入して常備軍を鉄砲主体の編成に切り替え,さらに強力な軍事国家となった。伝統的な世襲制に基づく下位首長の権限を弱体化する一方,任命制による地方首長制を導入し,平民宰相(カティキロ)を頂点とする官僚組織が整備された。また王族の増大を抑制するため,王子たちは母の出身クランで育てられ,〈王族はなく,王朝のみが存在すべきである〉という政治理念が確立された。このようなブガンダBuganda王国の政治体制はアフリカにおける〈封建的〉体制として多くの研究を生んだ。
1862年に白人として初めてこの王国を訪れたJ.H.スピークとJ.A.グラントは,ムテサ1世の強大な権力と,よく訓練された常備軍(水軍を含む)に感嘆している。H.スタンリーは75年にブガンダ王国にキリスト教を布教するようイギリス人に呼びかけ,その結果,アングリカン・チャーチ,次いでカトリックが伝道を行い,宗教戦争を引き起こした。また青年王ムワンガが一時イスラムを奉じたため,内乱が発生したが,宰相カグワの政治力によって安定を取り戻し,94年にはイギリスの保護領となった。しかしイギリスのウガンダ進出はブガンダ王国の協力によるところが大きく,植民地時代に入ってもブガンダ王国は相当の自律性を維持していた。1962年のウガンダ独立によって初代大統領となった第35代の王ムテサ2世は,66年オボテ首相のクーデタによって国外に逃れ,王国は滅亡したが,現在でも王党派の勢力は強く,ウガンダの政治混乱の一因である。
執筆者:長島 信弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報