フランスの化学者、化学史家。医師を父としてパリに生まれる。ラテン語韻文詩の読解など、若いころから優れた語学的才能をみせていたが、1846年には哲学の作文で全国一等の賞を受けていることからも、早熟の少年であったことがわかる。コレージュ・ド・フランスでは、医学専攻であったが化学研究に熱中した。1859年に薬物学校École Supérieure de Pharmacieの教授となり、1864年から晩年まではコレージュ・ド・フランスで教授職を務めた。
ベルトロの化学的業績は、主として四つの方面から化学の進歩に貢献したことにある。第一に、無機物から有機化合物の合成(synthèseこの表現は彼の創始による)を可能とする理論的下地をつくったことである。これにより化学界から安易な生気論的発想が放擲(ほうてき)された。第二に、質量作用の法則が定式化される以前の段階で、反応速度の重要性を訴えたこと、第三に、熱量計を利用して、化学反応前後の熱の収支を測定したことであり、発熱反応、吸熱反応といった、熱化学の基礎となる概念をつくりあげたこと、があげられる。このほか、グリセリンの組成を研究して、それが三価アルコールであることをつきとめたことなど、数多くある彼の仕事のなかでも、最後に言及すべきものは、化学史の分野における彼の活躍である。ベルトロは、1884年以降、錬金術文献の歴史的研究に精力を注ぎ、錬金術師たちが、古代エジプト冶金(やきん)学の文献を誤読していたという見解を明らかにした。さらに、通常、同一人物であるとされることが多かったアラビア錬金術師ジャービル・ビン・ハイヤーンと、ラテン名でよばれるゲーベルとは別人物であることもその著書『錬金術の起源』Les origines de l'alchimie(1885)のなかで指摘している。考古化学、熱化学、農芸化学など多くの分野に優れた足跡を残した後の晩年は、教育行政や科学論関係の書物を物している。
[井山弘幸]
『田中豊助・牧野文子訳『錬金術の起源』(1973・内田老鶴圃新社)』
フランスの化学者。有機合成化学や熱化学の体系化に重要な貢献をした。医者の子としてパリに生まれた。成績優秀であったにもかかわらず,エコール・ポリテクニクやエコール・ノルマル・シュペリウールには入学せず,私立の研究所などで化学を学んだ後,コレージュ・ド・フランスの化学教授であったバラールA.J.Balard(1802-76)の助手を8年間務めた。1859年薬学校の教授となり,65年にはコレージュ・ド・フランスの有機化学の教授に就任して,その後生涯その職にあった。81年終身上院議員となり,文部大臣や外務大臣を務めた。その研究は多方面にわたる。有機化学の分野では,1854年に提出した学位論文において,グリセリンと酸の反応によって脂肪の合成に成功したことを報告し,その後,単純な無機化合物や単体から複雑な有機化合物を合成するために一貫して努力を続けた。その結果,有機物を支配する化学力が無機物を支配する化学力と同一であることを,さまざまな実例によって明らかにし,生気論の残存物を一掃した。その後,熱化学の研究に取り組み,ボンベ熱量計を開発して,多くの化学反応の正確な反応熱の測定を行った。またこの研究を通じて,反応熱が化学親和力の尺度であることを実証しようと努力したが,他の研究者によって自由エネルギー概念が確立され,その命題の近似的な性格が明らかにされた。生物化学や反応速度に関する研究,《錬金術の起源》(1885)など錬金術の化学史的研究もよく知られている。
執筆者:菅 耕作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランスの化学者.高等学校までは,文学・哲学にすぐれた才能を発揮していたが,パリの医学校と理学校で学んだ.1851年コレージュ・ド・フランスにいたA.J. Balardの助手となったが,薬学校にも通い,1859年薬学校にあらたにつくられた有機化学教授に任命された.のちに,コレージュ・ド・フランスにおいても化学教授となる.1862年放電管に気体水素を流入させ,炭素電極間にアーク放電を飛ばすことにより,アセチレンが生成することを確認した.また,アセチレンを高温にさらすと,ベンゼンが生成することも示した.さらに,エテンと硫酸とからエタノールを合成したが,これはかれが最初ではない.かれは,有機合成の新しい道を開拓したと主張したが,原子論に反対し,有機化合物の構造の問題には関心を示さなかった.のちにかれは政治上でも重要なポストを占めるようになり,自然科学上大きな影響力をふるったことから,かれの原子論反対の態度はフランスにおける化学の発展に対してマイナスとなった.有機合成の次には,熱化学の研究に取り組んだ.今日使われている“発熱反応”,“吸熱反応”という語は,かれの造語である.しかし,かれの考え出した最大仕事の原理は,正しくはなかった.1873年科学アカデミー会員に選ばれ,1889年終身書記長となった.かれはまた農芸化学にも関心をもち,政府からパリ郊外に農地を得て植物生育実験を行い,植物による大気中の窒素固定の問題を解こうとした.かれは政治にも関心を示し,1881年には終身上院議員,さらに文部大臣,外務大臣も経験した.そのこともあって,かれの死に際し,国は国葬をもってかれの業績を称えた.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…この熱量計は,試料を密閉耐圧容器(ボンベ)中で高圧酸素のもとで完全燃焼し,その熱をボンベの周囲の水に伝え,水の温度上昇と質量から熱量を測定する。ボンベ熱量計のボンベは1848年アンドルーズT.Andrewsにより考案されてからベルトロP.E.M.Berthelot,パールS.W.Parrなどの改良を経て現今に至っている。現在ではその材質として18‐8クロムニッケル鋼,モネルメタル,インコネルなどが用いられ,燃焼時の変圧および試料中の硫黄分などの燃焼によって生成する酸の腐食に耐えるよう考慮されている。…
…反応速度が正確な実験手法により初めて取り上げられたのは,1850年ドイツのウィルヘルミーL.Wilhelmyによってである。引き続きフランスのP.E.M.ベルトロは,酢酸とエチルアルコールとのエステル化反応で,エステルの生成速度が反応物質の量に比例すること,エステル化反応の逆反応である酢酸エチルの加水分解によってもエステル化の場合と同じ平衡点が実現することを見いだした。1864年,ノルウェーのC.M.グルベルグとP.ボーゲは,式(1)の平衡において,平衡点は水に可溶な反応物質(K2CO3,K2SO4)の量でほぼ決まってしまうことを見いだし,平衡状態を決定するのは質量以外に容積であるという考えに到達した。…
…この熱量計は,試料を密閉耐圧容器(ボンベ)中で高圧酸素のもとで完全燃焼し,その熱をボンベの周囲の水に伝え,水の温度上昇と質量から熱量を測定する。ボンベ熱量計のボンベは1848年アンドルーズT.Andrewsにより考案されてからベルトロP.E.M.Berthelot,パールS.W.Parrなどの改良を経て現今に至っている。現在ではその材質として18‐8クロムニッケル鋼,モネルメタル,インコネルなどが用いられ,燃焼時の変圧および試料中の硫黄分などの燃焼によって生成する酸の腐食に耐えるよう考慮されている。…
※「ベルトロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
マイナンバーカードを利用して、自治体が発行する各種証明書をコンビニやスーパー、郵便局などで取得できるサービス。申請から受け取りまでの手続きがマルチコピー端末で完結する。2023年12月からはマイナカ...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新