宴会(読み)エンカイ

デジタル大辞泉 「宴会」の意味・読み・例文・類語

えん‐かい〔‐クワイ〕【宴会】

酒食を共にし、歌や踊りを楽しむ集まり。えん。うたげ。
[類語]うたげパーティー

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精選版 日本国語大辞典 「宴会」の意味・読み・例文・類語

えん‐かい‥クヮイ【宴会】

  1. 〘 名詞 〙 人が集まり、酒食を共にし、歌舞などをして楽しむ会。また、人を招いてもてなすこと。酒宴。宴集。うたげ。
    1. [初出の実例]「食の為に宴会に入り、徒(いたづら)に人の物を噉(くら)ひて」(出典:日本霊異記(810‐824)中)
    2. [その他の文献]〔古詩十九首‐其四〕

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改訂新版 世界大百科事典 「宴会」の意味・わかりやすい解説

宴会 (えんかい)

世界の諸民族の宴会には共通した点がいくつかある。宴会(宴(うたげ))が周期的に訪れる祭りの一環として行われ,そこに厳粛と狂騒,競争,浪費,贈与などをともなった非日常的な世界が展開されている。採集狩猟民エスキモーやアメリカ・インディアンのクワキウトル族,オーストラリアの原住民にとって,夏や乾季は労働の季節であるが,冬や雨季は彼らが連帯性を確認し,強化するために,祭りを集中的に行う季節である。宴会はこの季節に集まり,彼らは興奮のるつぼに誘い込まれる。また,穀物栽培民の間では,穀物の栽培過程の折り目ごとに,神に犠牲がささげられ,神と人々が交流する宴会が盛んに行われる。南米ペルーの南東部に住むインディオの村では,毎年,9月に〈御誕生の聖母祭〉が行われるが,教会での厳粛な儀式と並行して仮面踊が催され,祭りの期間中,インディオたちは有り金をはたいて酒と喧嘩に明け暮れ,狂乱と浪費の時を過ごす。台湾の中部山地に住むブヌン族は,ふだん,イモや雑穀を食べてアワの貯蔵につとめているが,アワの祭りを迎えると,彼らはアワ酒をつくり,家豚や野獣の肉を用意して饗宴を競い合う。彼らにとってアワと獣肉は,自家消費のためというよりは,他人に自分たちの生活を誇示するためのシンボルになっている。古代ギリシアでは,祭りに酒を痛飲することが,性の狂乱と同じように,多産を誇張することになっていた。アテナイのアンテステリアAnthestēriaの祭(ディオニュシア祭の一環)には,人々はいやというほど酒を振る舞われ,一種の勝抜戦が行われて,最も早く盃をからにしたものが勝者となった。こうした狂乱の世界では,既成の社会秩序がしばしば否定される。人々は仮面をつけ,仮装をして変身し,男が女を,女が男を,王が乞食を,召使いが主人を演じたりする。そこに役割の転倒が起こり,狂気と放埒(ほうらつ)が貴ばれ,反秩序の時間が支配する。古代ローマ人に親しまれたサトゥルヌスの祭には,自由な民と奴隷という身分上の差別が取り去られ,性の解放と暴飲の乱痴気騒ぎが行われた。北アメリカの北西部に住むトリンギット族,ハイダ族,チムシアン族は,祝祭の季節を迎えると,ポトラッチと呼ばれる儀礼的な贈与交換を行う。饗宴が開かれると,招待する者も招待される者も,自分たちの名誉や威信を保つために,財産の消費と分配を強いられる。首長たるものは,自分の財産を証明するために,人々を招いて饗宴を行い,財産を消費したり,分配しなければならないが,これに招かれた者も,首長からの贈物を喜んで受け取り,御馳走になったことを大きな声で感謝しなければならない。また,彼らは自分たちが首長からもらった贈物よりも多くのものをお返しする義務を負うことにもなる。こうして,人々はポトラッチのために,これまで蓄えてきた食物や財産のほとんどを浪費する。
贈物 →オージー →共食 →もてなし
執筆者:

六国史をはじめ平安時代の貴族の日記や儀式書には,宴会の記事が数多くみられる。しかしその多くは朝廷,貴族が催した宴会であり,地方の在地で行われた宴会,あるいは庶民が催した宴会について書き残した史料はほとんどない。

 朝廷が主催する宴会の第1のものは,1年の季節の移りにしたがった,いわば年中行事としての宴会である。もと農耕儀礼を基礎として生まれたものであろうが,日本ではこれに隋・唐の律令法の継受にともなう中国的な要素が加味され,節日(せちにち)の宴,すなわち節会(せちえ)として法制化された。正月1日の元日(がんにち)節会,同7日の白馬(あおうま)節会,同16日の踏歌(とうか)節会,3月3日の曲水宴(きよくすいのえん),5月5日の端午節会,7月7日の相撲節会,そして11月の中の卯の日に行われる新嘗祭ののちの豊明(とよのあかり)節会がこれである。節会は古くは,天皇が大極殿に出御し,朝堂院に群臣が参集して行うのを原則とした。天皇が直接臣下に酒肴を下賜してこれをもてなす形式をとるこの宴会は,これにより君臣関係を維持し深めるという機能をもつ。だから節会に参列することは臣下の義務であり,不参の臣下は処罰され,不行跡の臣下は参列資格を剝奪されるのである。

 公的な宴会の第2は,政務にともなうものである。これは平安時代の史料にみられ,陣座(じんのざ)における公卿の仗議(政務の審議)が終わったのち,あるいは太政官での定考(こうじよう),列見(れつけん)の儀が終了したのちなど,政務のあとで酒肴が供される。このような場合には,正式の饗宴のあとでしばしば穏座(おんざ)といわれる二次会も行われる。同じ政務にともなう宴会で,これとやや異なるものもある。事の始めに催される宴会で,太政官(ことにそのうちの外記局,弁官局)をはじめとする諸官司が,年初の政務始めに行うもので,政始(まつりごとはじめ),吉書始(きつしよはじめ)などがこれである。また官司に所属する役人個人が行うものもある。それは,その者がその官司の上級官職に就任した場合に催すもので,いわば下僚に対する就任披露の宴である。こうした事の始めの宴に対して,《日本書紀》の講書の竟宴(きようえん)のような,事の終りの宴もあった。

 天皇や貴族が催した宴会の第3には,その者の通過儀礼にともなうものがある。誕生前の着帯の儀や誕生直後の産養(うぶやしない)からはじめて,成年式儀礼を経て算賀(さんが)にいたるまで,人の一生には各種の儀礼があったが,天皇,貴族はそのつど祝宴を催す。そのほか,もちろん賓客に対するもてなしとしての宴会もある。8世紀には,唐,新羅,渤海の使節が来訪すれば,朝堂院において天皇出御のもとに宴が開かれるのが例であったし,《懐風藻》で知られるように,長屋王は自邸に新羅使節を招いて詩賦の宴を催している。年初に行われる二宮(中宮と東宮)大饗,大臣大饗などは,年中行事としての宴ではあるが,直属の臣下あるいは一族の高官を招いて開く宴であるから,一面では賓客に対するもてなしとしての性格をもっており,3夜連続して行うのを通例とする結婚の宴は,通過儀礼にともなう宴であると同時に,賓客へのもてなしの宴でもあって,後に述べる三日厨(みつかくりや)に通ずるところがある。

 乏しい史料によって知られる在地,庶民の催す宴会としては,やはりまず農耕儀礼に基づく年中行事として,地域の共同体が行うものがある。春の祭田について《令集解》の引く8世紀の注釈書には〈村ごとに男女ことごとく社(やしろ)に集まって飲食し,このとき国家の法を周知せしめる〉と記述している。秋の収穫にあたっては,共同体としての新嘗祭が催され,祭り終わって酒食が供される。こうしたことは,古くは共同体の首長が主催したのであろうが,このような祭りとそれにともなう共同体成員あげての宴会は,ほかにも存したであろう。ヤマトタケル(日本武尊)がクマソタケル(熊襲魁帥)兄弟を討ったのも,伊与来目部小楯(いよのくめべのおだて)が赤石の縮見屯倉(しじみのみやけ)で億計(おけ)(仁賢天皇),弘計(おけ)(顕宗天皇)の2王を発見したのも,いずれも在地首長の催す新室楽(にいむろうたげ)の祝宴の場においてであった。また地域の共同体の人々は,一面では閉鎖性を保ちながら,反面では外からその共同体を訪れる貴人,賓客,まれびとを,手厚くもてなした。そうした貴人等は,中央から派遣される使者,赴任してきた国司などさまざまであるが,こうした者が目的地に到着すると,人々は自分たちの共同体の境界地点まで出向いてこれを迎え(境迎(さかむかえ)という),その日からはじめて3夜連続の酒食のもてなしをし,多量の引出物を贈るのである。その酒食のもてなしを古くは〈供給(くごう)〉といい,後に落着三日厨(おちつきみつかくりや)と称したが,これは貴人,賓客,まれびとに対する共同体としての奉仕であった。平安時代の末に成った《類聚名義抄》が,〈供給〉の和訓を〈タテマツリモノ〉とし,〈饗〉を〈ミツギモノ,タテマツル〉と読んでいるのは,こうした社会慣行の存在を背景とするのである。
執筆者:

公家の宴会は古代とほぼ同様,さまざまな儀礼をともないつつ行われている。椀(埦,垸)飯(おうばん)は鎌倉幕府の年頭に当たっての重要な儀礼で,武家の宴会として定着していったが,酒食を共にすることによって人と人とを緊密に結びつける宴会が,主従関係を強固にするものとして重視されたからにほかならない。荘園・公領の現地でも,荘官・領主と百姓たちとの間で年頭や収納などの行事のさいに酒宴が催された。椀飯役が御家人の公事(くじ)であるように,こうした宴会の酒肴も百姓の公事であったが,反面,百姓たちに対する領主の振舞いも行われたことは,戦国時代の《色部(いろべ)年中行事》によっても知ることができる。また荘園・公領では,古代と同様に検注,勧農,収納などの使者の入部のさい,三日厨,三日饗が行われた。1329年(元徳1)美濃国小木曾荘の検注使に対する三日厨では,清酒や魚鳥が用意されている(〈高山寺文書〉)。これは百姓の負担であり,1275年(建治1)紀伊国阿氐河(あてがわ)荘百姓等の訴えにみられるように,地頭代が多数の使者をつれて入部し,百姓に饗応を要求して居座るようなこともしばしばあった(〈高野山文書〉)。しかしこのころの美濃国城田領での検注使を迎えた饗宴には百姓たちも加わっており(〈宝生院本倭名鈔紙背文書〉),1334年(建武1)に若狭国太良荘(たらのしよう)百姓等が正月の節会の酒を地頭代が給与せず,糟汁(かすじる)しか与えないと糾弾していることからも明らかなように(〈東寺百合文書〉),宴会への参加は百姓の当然の権利と考えられていた。また1092年(寛治6)山城国八瀬(やせ)の住人たちの間では座役による酒宴がたびたび開かれ(〈菩薩釈義紙背文書〉),1284年(弘安7)近江国大嶋社の三度神事に当たっては村人が飯料,頭人が酒を負担して宮座の宴会が催されており(〈大島奥津島神社文書〉),百姓たち自身の行事における酒宴も盛んであった。そしてこれら行事にともなう酒宴だけでなく,北条重時がその家訓で,酒は一人で飲まず,仲間を誘って飲むことをすすめ,酒宴での心づかいを細かく説いているように,儀礼にとらわれぬ大小の酒宴は階層を問わず盛んであり,そこは貴族の〈穏座〉における管絃をはじめ,歌舞音曲など芸能の豊かに花開く場であった。

 しかし酒宴は人々の心を強く結びつける反面,しばしば喧嘩,闘諍(とうじよう)から殺害の場ともなった。1351年(正平6・観応2)大和の多武峰寺(とうのみねじ)は満寺の評定で,遊宴の酔狂による打擲(ちようちやく)・刃傷(にんじよう)・殺害に関して,縁者や主人が鬱憤をはらすために私に合戦することを固く禁じている。酒宴の場でおこったことは,その場に居合わせたもののみで処理するという慣習を背景にしたものとみられるが,これは酒宴の場が一種のアジールであったことを示している。後白河法皇が平氏打倒の陰謀を鹿ヶ谷での酒宴で計画し,鎌倉幕府に対する後醍醐天皇の反乱の企てが,無礼講,破礼講といわれた宴席で練られたのも,酒宴の場がアジール的な性格を備えていたからにほかならない。とくに衣冠もつけず裸形同然の姿で行われた無礼講は,日常の礼の秩序を意識的にまったく無視した場を作り出したのであるが,〈群飲佚遊(ぐんいんいつゆう)〉といわれた酒宴は多少ともこうした性格を持っていたといえよう。

 このような酒宴の秩序に対する破壊作用に対し,866年(貞観8)と900年(昌泰3)に〈焼尾荒鎮(しようびこうちん)〉(任官,昇任等のさいの祝宴)などの過度の酒宴を禁ずる官符が発せられたのをはじめ,公家,寺家は酒宴の禁制をしばしば発している。寺院については1185年(文治1)文覚(もんがく)が起請文の中で神護寺における酒宴を禁じたほか,1214年(建保2)の極楽坊起請,32年(貞永1)の海竜王寺制規など,その事例は多い。公家の場合も1191年(建久2)の新制で〈隣里雑人の群飲射的〉を〈闘殺の根元〉として禁じ,1212年(建暦2)と31年(寛喜3)の新制にも同様の条文があり,公家新制に応じて制定された1226年(嘉禄2)と63年(弘長3)の興福寺の新制でも酒宴は禁じられている。鎌倉幕府が1252年(建長4)以後,しばしば沽酒(こしゆ)禁制を発しているのも,同じ効果をねらったのであろうが,〈二条河原落書〉に詠まれたような茶寄合,連歌会にともなう〈飲酒乱舞〉に対し,1336年(延元1・建武3)室町幕府は《建武式目》の第2条で〈群飲佚遊〉を厳しく禁じたのである。戦国法においても《長宗我部元親百箇条》が一定限度をこえる酒宴を禁じ,《甲州法度之次第》も武道を忘れる基として〈乱舞遊宴〉を抑え,《塵芥集(じんかいしゆう)》では酒狂による殺人も正気のものと同罪と規定し,その抑制をはかっている。しかし鎌倉後期から室町期にかけて,訴訟のさい奉行に酒肴料,一献料(いつこんりよう)を贈ることが慣習化し,各地の都市に酒屋が広く現れたことなどが端的に物語るように,酒宴を一片の法令によって禁ずることは不可能であり,むしろこの時期,さまざまな形の酒宴は庶民の中に広く深くひろがっていった。その実情は狂言や《閑吟集》などの歌謡を通じてよく知ることができる。
執筆者:

神事祭礼等にあたって,飲酒会食と歌舞を共にすることは,庶民の世界でも古くからあったにせよ,庶民遊楽の一般化はとくに近世にめざましい。狂言《棒しばり》の太郎冠者と次郎冠者は,酒蔵で盗み酒をし舞いを舞って〈これは上々の酒盛になった〉という。神仏に関せず,賓客のもてなしでもないこうした宴会も流行したのである。

 徳川政権初期の武家諸法度(1615)に群飲佚遊の制禁をかかげるのは,300年近く前の《建武式目》の条文をうけたもので,成上りの武士の酒宴流行は一見くり返しにみえるが,酒の生産と流通の発展や都市居住者の拡大した17世紀の方が,ことにいちじるしかったにちがいない。大名・旗本の宴会を二汁五菜ないし七菜に限る法令は,以後1663年(寛文3),99年(元禄12),1724年(享保9)等に出され,一般の武士たちが交互に居宅を訪れて酒宴をした例は《武家義理物語》(1688)等の西鶴本や,名古屋の《鸚鵡(おうむ)籠中記》(1684-1717)にみえる。《むかしむかし物語》が,17世紀中ごろの江戸風俗の変化として,銘々の親方のもとに出向いて礼をすべき祝い日に,酒のみ友だちと遊びまわるとするのは,武士と町人をふくめて振舞い酒が後退し,寄合いの酒宴が増加したことを示す。大坂,京都,江戸の三都を中心とした町人の世界で,遊里と劇場の酒宴の景は,初期風俗画によく描かれている。観劇の場がそのまま宴席になるのは,もともと酒宴の席での肴に歌舞があったことに由来しよう。花見の宴も同様に好画材だが,桜開花期のほか,菊合の会や立花に際しての酒宴もあり,料理茶屋が繁栄し女芸者が一般化した18世紀後半の江戸では,書画会も実質的に宴会の場となった。

 農村では,幕府諸藩の飲酒規制や幕府の酒造制限令,また慶安御触書の大茶をのむ女房を離別せよとの文も,宴会の流行を背景としよう。17世紀末の寄合い酒の風習のひろがりは《河内屋可正旧記》にもみえる。18世紀末以降寺社参りのいっそうの増加のほか,村秩序の動揺下に同族結合の強化を意図した先祖祭や,さらに若者組主導の不時の遊日(あそびび)(休日)等が酒宴の機会をふやし,倹約令の対象となった。村としての宴会の多くはなお神仏に関係したがその頻度は高く,1845年(弘化2)信州安曇郡稲核村では年に17樽1斗7升の酒が,正月山の神,2月初午等16回に及んで村入用として支出された。ほかに村役人級では,領主役所からの振舞い,役人の接待,他領他村人との争論と和談等の宴会の機会があり,これらを通じて,江戸の風が村方に輸入されもしたと思われる。不時遊日の酒宴は,お蔭参りやええじゃないか等にも通じる。民富の向上のほか,村単位以外のひとづきあいの拡大が,宴会の機会を増加させたにちがいない。領主側も宴会を禁絶はできず,冥加(みようが)金上納等の際に村々に酒肴を下す例もあり,1843年(天保14)信州松本藩で桜等を植栽させて一種の公園としたのは,天保改革による生活規制の反面に,花見の宴は民心発散の機会とみたからであったろう。19世紀後半,尊攘運動の志士たちの宴会は,彼らのうちから明治政府の高官が出現したとき,近代の宴会のひとつの源流にもなったと思われる。
執筆者:

古代中国においては,祭祀の中心は祭神を儀式の場に招き飲食物をささげることにあった。甲骨資料に見える多数の牛羊を犠牲にした祭礼は,おそらく食物としてそれらの動物を自然神や祖先神にささげたものであろう。神々にささげられた食物の一部は,祭礼のあと人間たちにさげ下され,人々はその食物によって宴会を開いた。神の祝福を受けた食物を食べることによって,人々もその祝福を身につけることができると考えられたことによろう。〈福〉の字自体が,もともと神からのおすそ分けの食物(とくに肉類)にこもる祝福を意味していたのである。晋の献公が,太子申生が祭祀のあとたてまつった肉を食べようとしたところ,それに毒が盛られており,これが晋のお家騒動の発端となったという伝説や,孔子が主君から祭肉を分け与えられなかったため魯国を離れる決心をしたことなど,この場合には宴会の形式はとらないが,祭礼のおさがりの食物にあずかるということが,当時,大きな意味を持ったことが知られる。

 殷・周時代の青銅容器も,日常の容器ではなく,まず第一に神に飲食物をささげるための容器であり,同時に人々が神々と飲食物を共にしてその祝福を受けるための祭器であった。青銅器に鋳出された銘文,いわゆる金文の最後が多く吉祥句で締めくくられるのも,それと関連しよう。そうした青銅祭器のセットが,殷から西周中期までは酒器を中心とするのに対して,その後は食器が中心となってくるのは,神へのささげものが酒から穀類へとその重心を移動させ,人々の宴会の内容もそこでいささか変化したのだと考えられよう。殷人(いんひと)が酒を好んで国を滅ぼしたとされる(たとえば《書経》酒誥篇)のも,現代的な意味での酒の飲みすぎを言ったのではないことは確かである。

 《儀礼(ぎらい)》に収められた種々の儀式のシナリオの中でも,みんなして飲食物をとる部分は常に儀式の中心の一つをなしている。人生の通過儀礼,共同体の燕礼や射礼などのほか,官位にある者どうしの関係も共同の飲食を介して強化されるのである。とくに農耕儀礼と結びついた共同体の祭礼では,尸(よりまし)に憑依(ひようい)して飲食の場に祖先神が降臨し,共同体の首長の長寿をことほぎ,農作物の豊作を保証するのである。ちなみに地域的な共同体をいう〈郷(きよう)〉の字も,元来はと書かれて,食物をはさみ2人の人物が相対して座る形を象(かたちど)ったもので,そうした共同体を成り立たせるため共同の飲食という儀式が大きな働きをしていたことを示唆する。

 後漢時代の画像石(画像磚)には,墓の主人公の生涯の中でもとくに華々しい場面や楽しかった場面が描かれているのであるが,そこに盛大な宴会が描かれることも少なくない。そうした画面には,宴席の前で音楽が奏されアクロバットなど百戯の演芸が行われている。この時代にいたり,宴会がすでにその宗教色を払拭しつつあったことを示そう。しかし一方なお,魏晋南北朝時代の文学作品からもうかがわれるように,宴会の日どりは,上巳(じようし)や重陽など古い伝承をもつ祭祀の日がえらばれることが多い。たとえば王羲之《蘭亭序》が言うように,三月三日の集いには,水辺でみそぎをするという名目のもとに人々があつまり〈一觴一詠〉の風雅の宴会が開かれたのである。

 こうした場では,酒が飲まれるだけでなく,知識人の場合には詩の制作も行われた。宴席での詩の制作は,唐詩の名編を生み出す一つの場ともなり,のちのちまで〈酒令〉の一つとして詩の制作が行われている。近世になっても宴会が盛んに行われていたことはいうまでもないが,特殊な場合を除けばその宗教的な意味あいは完全に失われ,俗的な人間関係の確認と強化の場となっていたことは,宋代以降の小説類からもうかがわれるところである。
執筆者:

一般に宴は共同体的祭祀と結びつき,ヨーロッパ諸民族のもとでは多くの場合,供犠・犠牲祭と関連し,しばしば同義語でさえあった。神々に家畜を捧げ,ギリシア人のように一部を祭壇で燃やす場合は肉の残りが,ゲルマン人のように神像を血で塗る場合は肉の全部が,参会者によって共同で食べられる(共食)。このとき地中海地方ではワインが,北欧ではエール(ビール)が飲まれたので,供犠の宴は乱飲乱舞の場(オージー)となる。各民族の共同体的祭祀の宴の多くは,中世にもキリスト教的祝祭の外被のもとに保存された。共同飲食はそれ自体が娯楽であるから,やがて本来の祭祀から分離・独立して行われるようになるが,その機能は酩酊をともなう団体帰属意識の高揚にある。前近代においては,人々は具体的な団体に帰属することによって自分の位置を確定する。宴会の社会的機能は,あらゆる種類の共同体の創設,共同体の確認,共同体への加入の儀式にある。婚礼や成人式の宴は単に当事者・家族の行為ではなくて,共同体加入の儀式であり,葬礼の宴も遺産相続の共同体的認知の機会である。相続人の宴の費用負担は,共同体の他の成員にとっては相続の象徴的取分でもある。古北欧語では,葬礼の宴をエルビエルerfiöl(erfa〈相続する〉,öl〈エール〉)という。すなわち〈相続記念ビール・パーティ〉の意である。ゲルマン諸族では奴隷が解放されるには,主人から解放されるほかに,自由人の共同体へ受容される手続を要した。これが〈解放エール〉と呼ばれる宴で,この費用を解放奴隷が自弁できずにもとの主人が負担すれば,解放奴隷は以後ももとの主人の一定の従属下にとどまる。

 ヨーロッパ中世都市は,さまざまな共同体から分離してきた市民の新しい共同団体として,多種多様な祭りと宴をもった。手工業ギルドに新規加盟する(組合員=親方となる)には,やはりエール宴を振る舞う必要があった。ギルドの語源は,古北欧語gialda(〈支払う〉の意。ドイツ語のgelten)とされるが,それは飲む会へ自分の飲物とくにエールを持ち寄ること,持分の支払いから生じたらしい。古北欧語のgildiは,飲む会すなわち酒宴そのものと宴をもつことだけを目的とした団体・結社の両方を意味した。ギルドを伴う中世都市の発達しなかったノルウェーでは,gildehus(ギルドハウス)はギルドの会館ではなく,田舎の飲酒会のホールのことだった。

 農業社会においては,収穫は最も重要な祭宴の機会である。ケルト人のsamhain(〈夏の終り〉。今日では聖マルティン祭),北欧のhaustbóð(〈秋の宴・収穫の宴〉)は,いずれも家畜の放飼いが終わる時期に行われ,このとき,備蓄された冬の飼料ではまかないきれない家畜は屠殺される。屠殺は供犠の式を伴い,肉の大部分は乾燥,塩漬,燻製によって保存食となるが,一部は新鮮なうちに盛大に宴に供せられる。とくに牛は,前近代の売買単位が1頭であるような社会では,共同飲食・宴会がその適合的な消費形態であったといえよう。

 また,ヨーロッパ諸民族のもとでは,見知らぬ旅人に宿を提供し,羊などの家畜を屠ってもてなす習慣があった。料金を取って飲酒させ宿泊させる経済関係がない所では,好意によるこの相互接待は,旅する者にとって不可欠の社会制度であった。王侯が従士Gefolgeをかかえて社会に現れてくる初期の段階においては,従士たちの王侯への忠誠(軍事奉仕)に対する給付は食卓であり,多くの場合これは主君と従士たちの共同飲食=饗宴であり(タキトゥス《ゲルマニア》14章),主君と従士は,アーサー王の〈円卓の騎士〉のように,〈食卓仲間table ronde〉と考えられた。貨幣経済の未成熟のもとで,王侯の収入は略奪にせよ贈与にせよ貢納にせよ,現物でなされ王侯もこれを現物で消費するしかなかったからである。一般臣民が国王に納税義務を負うようになった中世においても,市場関係が未発達で政治的支配がもっぱら直接的実力に基づいていた間は,臣下の義務は食卓の提供の形をとり,君主は従士団を連れて宴を求め歩くことによって支配した。マルク・ブロックによれば,〈宮廷の奥から国を統治することは不可能であったろう。国土を掌握するためには四方八方に絶えず騎行する以外には方法がなかった。……農産物を車で,全体の中心に集めることは,不便でもあり,費用のかかることであったので,現地に行って消費せざるをえなかった〉(《封建社会》1949)のである。

 古北欧語のベイスラveizlaは,供犠の宴をはじめとして旅客の接待,婚礼,葬礼などあらゆる宴をさし,また助力や認知を与えることを意味した。この語は中世ノルウェーで特有の発展をとげ,以下のような意味をもつようになる。(1)従士を伴って国内を巡回する国王に宴と宿を提供する通例3日の農民の義務,(2)王が家臣に与える恩貸物beneficium(とくに土地),(3)王の派遣する役人に対する通例3日の供応,(4)司祭が司教に供する宴,(5)借地人が地主に契約更新時にする接待の宴,(6)貧窮者に対する共同体的扶養義務。これらはこの社会における宴会の機能を強く示唆している。
社交 →パーティ
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宴会」の意味・わかりやすい解説

宴会
えんかい

酒や歌舞などを伴う高揚した心の触れ合う機会。宴(うたげ)とも饗宴(きょうえん)ともいう。また宴会の性格によって祭宴、祝宴、招宴、酒宴、狂宴などとよばれる。一般に宴会は季節ごとの折り目や人生の節目に行われ、忘年会や新年会が年末、年始という折り目に行われる宴会とすれば、子供の誕生祝いや結婚の披露宴などは、人生の節目に行われる宴会ということになろう。

 古代日本の官製民俗誌ともいうべき「風土記(ふどき)」には、宴が燕楽とか燕会、燕喜、宴遊などと表記され、春や秋などの一定の季節に、男女が丘の上や泉のほとり、海辺に集まり酒を飲み交わし、歌を歌い、踊りをして楽しむことが宴とよばれていた。当時、こうした宴は男女求婚の機会になっていたらしく、東日本では嬥歌(かがい)、西日本では歌垣(うたがき)とよばれていた。

 平安時代の公家(くげ)社会では、正月に大臣の家で盛大な宴会が行われ、その宴会は宴座(えんのざ)と穏座(おんのざ)に分かれていた。宴座は威儀を正した儀式ばった宴会、これに対して穏座は、こうした堅苦しい宴会から解放された人々が、くつろいで楽しむ宴会であった。現代風にいえば、宴座は一次会、穏座は無礼講めいた二次会ということになろう。

 このような宴会の二重構造は、今日、祭りのときの宴にもみられる。直会(なおらい)とそのあとに行われる宴会がそれで、直会が厳粛な雰囲気のなかで行われる神人共食の宴とすれば、そのあとの宴会は、直会を済ませた人々がくつろいで楽しむ宴ということになろう。また、直会が日常生活の秩序や規範を強調し、形式性を重んじる祭儀の世界の宴とすれば、直会のあとの宴会は、日常生活の秩序や規範からの逸脱が公認された祝祭の世界の宴ということになろう。

 世界の諸民族の間にも、祭りのおりにさまざまな宴会が行われている。古代ギリシアでは、祭りに酒を痛飲することが、性の狂乱と同じように、多産を誇張することになっていた。アテネのアンテスリアの祭りには、人々はいやというほど酒をふるまわれて、一種の勝ち抜き合戦が行われ、もっとも早く杯を空(から)にした者が勝者になった。こうした喧噪(けんそう)の世界では、日常生活の秩序や規範が逆転され、人々は仮面や仮装で変身し、男が女を、女が男を、王が乞食(こじき)を、召使いが主人を演じた。古代ローマ人に親しまれたサトゥルヌスの祭りにも、自由な民と奴隷という身分上の差別が取り去られ、性の開放と暴飲暴食のらんちき騒ぎが行われた。南米ペルーの南東部に住むインディオの村では、毎年、9月の御誕生の聖母祭の期間中、教会での儀式と併行して仮面劇が行われるが、インディオたちは有り金をはたいて酒と喧嘩(けんか)で明け暮れ、狂乱と浪費のときを過ごすという。

 宴会は贈与交換の機会でもある。アメリカ北西部で狩猟採集生活を営んでいたクワキウトル人やハイダ人の間では、子供の誕生や結婚などの機会に祝宴が開かれ、主催者と招待された客の間で、ポトラッチとよばれる儀礼的な贈与交換が行われる。主催者は富や威信を誇示するために、相手を圧倒するような贈り物をするが、それを受け取った客も、それと同じ量もしくはそれ以上のものを返礼として差し出す。こうして競覇的な交換が際限なく続けられ、最後に相手を屈服させるために、財産の破壊という手段がとられる。こうした贈与交換は、パプア・ニューギニアの高地人の豚祭りの祝宴にもみられる。主催者は何頭もの豚をと畜して招待した人々に提供するが、客が貝その他の貴重品を贈るのに対して、主催者は威信を保つために、贈られた物より多くの、しかもより貴重な物をお返しとして差し出す。

 クリスマス・プレゼントが、キリスト降誕祭のクリスマスの贈与交換であることはよく知られているが、日本の歳暮もまた、かつて年の暮れの先祖祭のときの贈り物であった。近年は、師走(しわす)になると歳暮のやりとりが始まるようだが、以前は、暮れの27、28日から大晦日(おおみそか)にかけて行われ、親戚(しんせき)や隣近所から贈られた食物は、まず先祖に供えられ、これをあとで家の者が先祖と共に頂くというのが古い姿であった。

 また宴会は、贈与交換の機会であると同時に、交換財としての性格をもっている。宴会に招待された客は、互恵性の原理によって、他日、宴会を設けて、それに相手を招待するというパターンが広くみられるからである。日本の一部の村で、婚姻成立祝いの宴会が、花婿方と花嫁方で行われているが、これは一種の交換財といってよいだろう。また、毎年、商取引のために膨大な交際費を費やす企業間の宴会も、交換財としての性格の一面をもつ。

[伊藤幹治]

『伊藤幹治・渡辺欣雄著『宴』(1974・弘文堂)』『伊藤幹治著『宴と日本文化』(中公新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

普及版 字通 「宴会」の読み・字形・画数・意味

【宴会】えんかい(くわい)

さかもりする集まり。唐・杜甫〔崔馬山亭宴集〕詩 客はうて金椀を揮(ふる)ひ 詩つて袍を得たり 秋、宴會多し 日、香に困(くる)しむ

字通「宴」の項目を見る

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宴会の言及

【社交】より

…日本で社交としての贈答(中元・歳暮)が盛んなのも,このためである。 日本人の社交の特色がもっとも典型的な形で現れるのは,会社などでの宴会である。そこでの宴会は,集団,組織が機能するうえで不可欠なものである。…

【日本料理】より

…その狭義の日本料理は,世界的にみてかなり特異な性格のものであり,本項目は主としてその性格形成の過程とその特徴について略述する。日本料理の構成要素である個々の食品などについてはそれらの各項目を,また,世界の中での日本料理のありようを確かめるためには,人類の食生活の諸形態の分析解明を試みた〈食事〉〈料理〉〈肉食〉〈宴会〉などの諸項目を参照されたい。
[性格]
 日本料理の性格を特異なものとした第1の要因は,日本の食生活が米食中心主義であったことに由来する。…

【もてなし】より

… 一般に,近代の公法が成立する以前には,宗教的・倫理的義務と考えられたこうしたもてなしの慣習が,地縁的あるいは血縁的共同体とその外部の社会との関係を支えていたといえる。宴会贈物【野村 雅一】
【日本】

[中世]
 〈もてなし〉の本来の語義は,相手をだいじに扱う,面倒をみる,たいせつに待遇すること,またそうした人に対するふるまい方を意味するが,転じて饗応,馳走(ちそう)を意味するようになる。饗応の意で広く使われるようになるのは,尾張国熱田社の神官が性蓮という僧を〈請じ寄せて,さまざまにもてなし,馬・鞍・用途など沙汰して,高野へ〉送った(《沙石集》)とか,若狭国太良荘(たらのしよう)の預所が六波羅の小奉行を招待して〈もてなし申〉(《東寺百合文書》),引出物に用途1結,厚紙10帖を贈ったなどの用例にみられるように,鎌倉中期以降のことであった。…

※「宴会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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