翻訳|Antonius
エジプトの隠修士,聖人。〈修道生活の父〉と呼びならわされる。コプト人で,中エジプトのメンフィス近くで生まれる。富裕な両親の没後,財産を貧者にほどこして,禁欲生活に入る。285年ごろナイル川を渡り,東の砂漠に入り,祈りと観想,そして生計のためのわずかな手仕事の生活をおくる。禁欲生活のなかで精神上,肉体上の激しい誘惑を体験,ついにそれに打ち勝った。305年ころ,徳をしたって集まった人々に一種の修道規則を与え,禁欲生活の方法を指導した。それはのちの修道院ほど組織化されたものではなかったが,キリスト教的修道生活の基盤となった。アントニウス自身は312年ごろ紅海の北西の端に近いコルジム山に隠棲した。アレクサンドリア主教アタナシオスと親交があり,アリウス派論争に際してはニカエア派を支援した。アタナシオスの手になる《聖アントニウス伝》がある。祝日1月17日。
執筆者:森安 達也
アントニウスは頭巾の付いた修道服を身にまとい,髭を蓄えた老人として表現される。持物はアントニウス十字架と呼ばれるT字型の十字架で,T(ギリシア語のタウ)は神(テオス)を意味すると考えられる。この十字架は聖人の外衣の肩に青色で付されることもある。十字架の腕木あるいは聖人の手に下げられた鈴は,隠者が悪魔を退散させるのに用いたという。ほかに豚,足元の火炎などが持物で,これは11世紀以降の疫病の守護者としての彼の名声に関連する。すなわち,1050年に聖人の遺骨がコンスタンティノポリスからフランスにもたらされたが,やがてある貴族の〈聖なる火〉と呼ばれる病を癒した。以後この病すなわち丹毒は〈アントニウスの火〉と名付けられ,またこの快癒に感謝して,1095年,サン・ディディエ・ド・ラ・モットにアントニウス修道会が設立された。豚はその脂が丹毒に効くとされたため,聖人の持物となった。火炎は恐るべき疫病そのものを象徴する。15,16世紀になると,聖人はすべての疫病,とくにペストの守護聖人として深い崇敬を集め,しばしばロクス,セバスティアヌスと並んで表現された。聖人の伝説に基づく代表的な主題には〈聖アントニウスの誘惑〉がある。聖人は砂漠で苦行する間に,悪魔からさまざまな試練や誘惑を受けたといい,《黄金伝説》にも詳しく語られている。悪魔は暴力をふるい,彼を天空に運びあげておびやかし,女性に姿を変えて誘惑するが,ことごとく失敗に終わる。これらの幻想的な場面はH.ボス,M.ションガウアー,M.グリューネワルト(《イーゼンハイム祭壇画》)など15,16世紀の北方の画家たちによって好んで表現され,シュルレアリスムの画家M.エルンストも同主題の絵画をのこした。文学作品にはG.フローベールの《聖アントアーヌの誘惑》がある。また,〈隠者パウロを訪れるアントニウス〉は老齢に達した聖人が苦行者としての先達パウロを荒野に訪問する場面で,2人の老聖人が相対して静かに語り合う姿で表現される。
執筆者:荒木 成子
共和政末期ローマの将軍,政治家。まずカエサルの部将として活躍を始め,前50年卜占官,前49年護民官,カエサルの副司令(レガトゥス)に任ぜられたのち,前48-前47年,独裁官副官=騎兵長官としてカエサルに代わってローマ・イタリアを統治,前44年にはコンスル(執政官)に就任するなど,カエサルの腹心として重用された。前44年3月,カエサルが暗殺された後,追悼演説で人望を集め,その後継者たらんとしたため,オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)と元老院との3者の間に権力争いが展開した。しかし前43年11月にオクタウィアヌスおよびレピドゥスとともに5年間の国家再建三人委員会を形成し(いわゆる第2回三頭政治),政敵を追放し,元老院勢力の中心キケロを抹殺した。次いで前42年には,カエサル暗殺者のブルトゥス,カッシウスの連合軍を,オクタウィアヌスとともにフィリッピにおける2回の合戦の末破り(フィリッピの戦),元老院支配体制の息の根をとめた。その後は東方,特にシリア,小アジアで地盤の育成にはげみ,前41年小アジアのタルソスでクレオパトラと会見した後は,その魅力にとらえられて,ローマの政務官でありつづけながらもエジプトを後ろだてとしてゆく。オクタウィアヌスとの緊張は,ブルンディシウムの和で一時回避され,オクタウィアヌスの姉オクタウィアを妻に迎え,勢力圏として東方を認められたが,協約・和解の試みもむなしく,両者の関係は次第に悪化してゆく。前37年,三頭政治は更新された。前36年パルティア遠征を企てたが失敗に終わり,前34年アルメニアを併合したにとどまった。その間オクタウィアとの間はますます疎遠となり,離婚に至る。一方クレオパトラおよびその間に生まれた子に全属州を与えている(アレクサンドリアの寄贈)。破局は,オクタウィアヌスによるアントニウスの遺書の公表,元老院によるクレオパトラへの宣戦布告の形をとった。前31年9月2日,クレオパトラとの連合軍を率いてアクティウムでオクタウィアヌス軍と戦ったが(アクティウムの海戦),敗れてエジプトに逃れ,翌年8月1日,アレクサンドリアで自殺した。
彼の評価は古くから揺れているが,実戦の雄であったことはたしかである。ただ政治的に狙いとしたのが,カエサルの後継者としての国家ローマの再建であったのか,オクタウィアヌスとの勢力圏の分割であったのか,という点に関して,クレオパトラとの主導権の問題,東方君主への傾斜の問題も含めて,議論のあるところである。その行動は,深い政治的配慮・計算に基づくというよりは,時の流れに左右されたものであったといえよう。
執筆者:長谷川 博隆
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古代ローマ、共和政末期の軍人、政治家。パレスチナとエジプトでガビニウス麾下(きか)の騎兵隊長として頭角を現す。紀元前53年から前50年までカエサルの部下としてガリアに従軍。前51年クワエストル(財務官)、前49年護民官を務めた。カエサルとポンペイウスとの内乱(前49~前45)ではカエサル側につき、彼の勝利に貢献。前44年カエサルとともにコンスルとなった。同年3月15日カエサルの暗殺に遭遇。その後ローマ政界の第一人者として事態の収拾に対処したが、味方を元老院議員に任命したり、ガリア・キサルピナの支配権を手に入れるなど専横が目だち、カエサルの養子オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)を中心とするカエサル派の人々と相いれなくなった。だが前43年には和解が成立し、オクタウィアヌス、レピドゥスとともに第二次三頭政治の一翼を担った。翌年トラキアのフィリッピで、カエサル暗殺者ブルートゥス、カッシウスを破った。
広大なローマ領のうち、とくに東方属州の統治にあたり、前41年トラキアのタルススでエジプト女王クレオパトラ7世と出会い、この冬をエジプトで彼女とともに過ごした。その後一時イタリアへ戻り、ガリアをオクタウィアヌスに譲ったのち、彼の姉オクタウィアと結婚。前39年にはともに東方へ行き、統治にあたった。しかしその後アントニウスはクレオパトラとの連合を強め、前35年には再度東方へ渡ったオクタウィアを迎え入れなかった。さらに、前36年レピドゥスが三頭政治から脱けたことによって、オクタウィアヌスとの対立がしだいに鮮明になっていった。前34年アルメニア併合後、エジプトのアレクサンドリアで、はでな凱旋(がいせん)式を挙行し、クレオパトラとその子供たちとをローマ領である東方属州の君主と宣言したことは、ローマに対する敵対行為にも等しかった。前32年アントニウスによるオクタウィアの離別もあっていよいよ両者の対立は決定的となり、前31年9月ギリシア北方のアクティウム沖で両者の決戦が行われ、オクタウィアヌスの勝利に終わった。アントニウスは翌年8月1日アレクサンドリアで自殺を遂げた。
彼は、勇気と寛大さとを兼ね備えた優秀な軍人だったが、政治家としては短気、頑固な性格が災いしたといわれる。だが、彼の統治はおおむねオクタウィアヌスに受け継がれていった。当時の政治家に不可欠であった雄弁術においても巧みで、よく聴衆を魅了した。
[田村 孝]
『秀村欣二訳『アントニウス』(村川堅太郎編『世界古典文学全集23 プルタルコス』所収・1966・筑摩書房)』▽『河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)』
フランシスコ修道会士、カトリックの聖人。ポルトガルのリスボンに生まれたが、イタリアのパドバで死亡、いまもそこに遺体があるため、「パドバのアントニウス」とよばれている。「奇跡の聖人」と称されるほど、多くの奇跡を行ったと伝えられている。初めアフリカに渡って宣教に従事し、殉教者となることを望んだが、健康上の理由からヨーロッパに戻り、イタリアで隠遁(いんとん)の生活を送ったのち、晩年には優れた説教を行って、民衆から名声を博した。魚や鳥に説教している有名な絵があるように、その説教には非凡な魅力と非常な迫力があったものと考えられている。
[大谷啓治 2017年11月17日]
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前83~前30
古代ローマの将軍,政治家。カエサルの部将として活躍したが,その死後オクタウィアヌスと元老院との勢力争いをへて,前43年末オクタウィアヌス,レピドゥスと第2回三頭政治を成立させた。前42年フィリッピの戦いでブルトゥス,カッシウスを破った。レピドゥス失脚後はオクタウィアヌスとの関係が悪化し,クレオパトラと結んだが,アクティウムの海戦に敗れ,翌年自殺した。
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…アベーabbeyは大修道院,プライアリーprioryは小修道院,コンベントconventは托鉢修道士または近代以降の修道女会の修道女の居所,ドムス・レリギオサdomus religiosaは近代の海外宣教会または活動的修道会の会員の居所を指すのが一般的である。キリスト教の修道院は従来3世紀の後半期にエジプトのテーベで隠者パウロやアントニウスによって創設されたと考えられてきたが,1947年発見された〈死海写本〉が契機となってクムランやテラペウタイのユダヤ教修道院の存在が確認され,それとイエス復活後のエルサレムの使徒小集団との系譜関係も問題とされ,修道院の起源もそれだけ時代をさかのぼって論じられるようになった。もちろん,キリスト教修道士にとっては《使徒行伝》(2:44~47,4:32~35)の伝えるエルサレムの使徒小集団の共同生活や《マタイによる福音書》(10:9,10:10,19:21),《マルコによる福音書》(8:34)が述べているイエスの十二使徒への訓戒が絶えず帰るべき原点であったといえよう。…
…宗教史的には,特に西アジアおよびエジプトを含むオリエント世界一帯に,命がけの断食行や難行苦行を自己に課し,人里離れた洞窟や高山の石窟に籠(こも)る隠者的苦行者の存在が認められてきた。キリスト教におけるこのような例としては,エジプトの隠修士アントニウスを挙げることができる。彼の苦行は,砂漠の洞窟における80有余年にわたる孤独と飢餓との凄絶な闘いとして伝えられ,彼の没後,その墓の前には,世界の各地から徳を慕って訪れる巡礼者があとを絶たなかった。…
…生涯の友アグリッパと共にアポロニア遊学中に,カエサルの暗殺とその遺言による養子相続人への指名を伝え聞き,帰国後名門ユリウス氏族の後継者としてガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスGaius Julius Caesar Octavianusと名のった。資産相続の正当性をめぐってカエサル派の実力者アントニウスとは不和になったが,暗殺者の共和派の残党を追撃するなかで和解が成立した。前43年,アントニウスを支持するレピドゥスを加えて,〈国家再建三人委員〉を結成し,元老院の承認によって独裁官の全権を得ると,彼自身は北アフリカ,シチリア,サルディニアおよびコルシカを勢力基盤とする。…
…オクタウィアヌス(アウグストゥス)が,前31年アントニウスとクレオパトラの連合軍を破った古代ローマの海戦。共和政最末期すでに海外に大領土を有していたローマでは,イタリアおよび西方諸地域を統治したオクタウィアヌスと,おもに東方諸地域を管轄したアントニウスの2人に実権が握られていった。…
…ローマ雄弁術の頂点はキケロであり,そのカティリナ弾劾演説は有名である。またマルクス・アントニウスのカエサル追悼演説もよく知られ,シェークスピアの《ジュリアス・シーザー》中にも,その場面が現れる。帝政になると,演説は政争における武器としての役目を失ったが,しかも依然として雄弁術はギリシア・ローマの教養の中心で,青少年教育の最高段階とみなされていた。…
…ローマ皇帝アウグストゥスの姉。最初の夫マルケルスG.C.Marcellusの死後,オクタウィアヌス(アウグストゥス)派とアントニウス派の和約のあかしとして,前40年アントニウスと結婚したが,両派の対立が深まるなかで前32年には離婚を余儀なくされた。実子たちと共に,アントニウスがクレオパトラ等に生ませた子供たちまで養育したことから,彼女の情味あふれる行為は当時の人々の胸を打ったと言われる。…
…このころキケロは,ローマとポントスのミトリダテス6世の戦争をめぐってポンペイウスを支持する演説を行い,以後ポンペイウスと政治的親交を維持するようになる。前64年キケロはガイウス・アントニウスとともに翌年のコンスル(執政官)に選ばれた。騎士身分の生れで政治的背景を持たぬ〈新人〉であった彼がコンスルに選ばれたのは,カティリナの企てを恐れたオプティマテス(貴族派)の後押しがあったからである。…
…しばしば,唐の玄宗の寵妃楊貴妃と並んで,王座を占めた絶世の二大美人とされ,シェークスピアやショーなどの文芸作品で取り上げられて,世界の支配者たちをその色香で手玉にとった女性として定型化された。ことにシェークスピアの《アントニーとクレオパトラ》は,ローマの将軍アントニウスをあらゆる手練手管で翻弄した妖婦のように描いた。次々とエジプトを訪れて彼女と出会ったローマの将軍の3人を恋のとりこにしたことは事実だが,絶世の美人で妖婦,といったイメージは,必ずしも正しくない。…
…帝政成立前夜のローマで,有力将軍が連携して元老院を制肘(せいちゆう)し共和政体を空洞化させてゆく際の特徴的政治形態。前43年アントニウス,オクタウィアヌス(アウグストゥス),レピドゥスの三者が民会決議で〈国家再建のための三人委員〉となり,全権を掌握した事態を第2次三頭政治と呼び,前60年ポンペイウス,カエサル,クラッススが私的盟約により国政を牛耳ったのを,〈三人委員〉との類似から第1次三頭政治と呼ぶ。(1)第1次三頭政治 東方遠征から帰還したポンペイウスは退役兵への土地配分等の課題達成のため,前59年のコンスルのカエサル,その後援者クラッススと密約し,彼の勢力を警戒する元老院門閥の妨害を封じた。…
…彼はポントスのミトリダテス6世の反ローマ闘争に協力したが,ローマとアルメニアの対立はやがてパルティアを巻き込み,フラアテス3世Phraates III(在位,前71か70‐前58か57)の時代からローマとの長い抗争の歴史が開始された。前53年,オロデス2世Orodes II(在位,前58か57‐前39)の将軍スーレンSurenはパルティア騎兵隊を率いてクラッススをカラエに大敗させ,前36年にはフラアテス4世Phraates IV(在位,前40‐前3か2)の軍がアントニウスを撃破した。前20年,両国の間に平和条約が成り,ユーフラテス川が国境とされ,アルメニアに対するローマの宗主権が承認された。…
…プトレマイオス14世は前47年クレオパトラとの共同統治者となったが,前44年彼女の命令で暗殺された。彼女はカエサル,次いでアントニウスの援助によってエジプト王位を継いだが,前30年アクティウムの海戦でオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に敗れて王国はここに滅亡し,エジプトはローマ帝国の一属州となった。
[社会,文化]
この王国ではファラオ時代に起源をもつ中央集権的な官僚組織を利用して,マケドニア人,ギリシア人が土着のエジプト人の支配にあたっていた。…
… こうしてカエサルはローマの唯一の権力者として残ったが,彼が独裁的傾向を強め,王位への野望もみせたので,カッシウス,ブルトゥスらの共和主義者は前44年3月15日彼を元老院議場で暗殺した。 カエサルの甥で遺言により養子・相続人となったオクタウィアヌスはカエサルの領袖アントニウスと結んで公式に国家再建三人委員(いわゆる第2次三頭政治)に就き(前43),カエサルを暗殺した共和主義者の軍隊をフィリッピの戦(前42)で破った。レピドゥスはポンペイウスの息子セクストゥスの征討に功があったが,やがて失脚し,オクタウィアヌスとアントニウスの両雄が残った。…
※「アントニウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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