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アントニウス Antonius

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大辞林 第三版の解説

アントニウス【Antonius】

251頃~356) 「修道生活の父」と呼ばれ、キリスト教修道主義の創始者。聖人。エジプトの荒野で悪魔の誘惑を退けて、隠修生活を送ったと伝えられる。
〔Marcus A.〕 (前82?~前30) 古代ローマの政治家。カエサルの部将。オクタビアヌス・レピドゥスとともに第二回三頭政治を結成。のち、クレオパトラと結びオクタビアヌスと対立、アクチウムの海戦で敗れエジプトで自殺した。

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デジタル大辞泉の解説

アントニウス(Marcus Antonius)

[前82~前30]ローマの政治家・軍人。カエサルの部将としてガリア遠征で活躍。カエサルの没後、オクタビアヌスレピドゥスとともに第2回三頭政治を行った。のちエジプトの女王クレオパトラと結ばれたが、オクタビアヌスアクティウムの海戦で敗れて自殺。アントニー

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百科事典マイペディアの解説

アントニウス

古代ローマの政治家,将軍。カエサルの部将として活躍したのち第2回三頭政治を行った。前42年,フィリッピの戦でカエサルの暗殺者ブルトゥスカッシウスを破った。のちオクタウィアヌスアウグストゥス)と対立し,クレオパトラと結んだが,アクティウムの海戦で敗れ,翌年アレクサンドリアで自殺。
→関連項目キケロレピドゥス

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世界大百科事典 第2版の解説

アントニウス【Antonius】

251ころ‐356
エジプトの隠修士,聖人。〈修道生活の父〉と呼びならわされる。コプト人で,中エジプトのメンフィス近くで生まれる。富裕な両親の没後,財産を貧者にほどこして,禁欲生活に入る。285年ごろナイル川を渡り,東の砂漠に入り,祈りと観想,そして生計のためのわずかな手仕事の生活をおくる。禁欲生活のなかで精神上,肉体上の激しい誘惑を体験,ついにそれに打ち勝った。305年ころ,徳をしたって集まった人々に一種の修道規則を与え,禁欲生活の方法を指導した。

アントニウス【Marcus Antonius】

前82ころ‐前30
共和政末期ローマの将軍,政治家。まずカエサルの部将として活躍を始め,前50年卜占官,前49年護民官,カエサルの副司令(レガトゥス)に任ぜられたのち,前48‐前47年,独裁官副官=騎兵長官としてカエサルに代わってローマ・イタリアを統治,前44年にはコンスル(執政官)に就任するなど,カエサルの腹心として重用された。前44年3月,カエサルが暗殺された後,追悼演説で人望を集め,その後継者たらんとしたため,オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)と元老院との3者の間に権力争いが展開した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アントニウス
アントニウス
Antonius, Gaius

[生]?
[没]42
古代ローマの政治家 M.アントニウスの弟。前 44年マケドニアに派遣されたが,アポロニアで M.ブルーツスに包囲され,捕えられて処刑された。

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アントニウス
アントニウス
Antonius, Lucius

前1世紀頃のローマの政治家。 M.アントニウスの2番目の弟。ムチナの戦いでは兄マルクスの下で戦い,前 41年執政官 (コンスル ) 。前 40年ペルーシアの戦いでオクタウィアヌス (アウグスツス) に敗れたが,許され,ヒスパニアに左遷,その地でまもなく死んだ。

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アントニウス
アントニウス
Antonius, Marcus

[生]前82頃
[没]前30.8. エジプト
古代ローマの将軍,政治家。プレプス (平民) の旧家の出身。前 54年からガリアで G.J.カエサルの幕僚として服務。前 52年財務官 (クアエストル) ,前 50年卜占官,その翌年護民官 (トリブヌス・プレビス) に選ばれ,ローマでカエサルの代理人をつとめた。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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世界大百科事典内のアントニウスの言及

【修道院】より

…アベーabbeyは大修道院,プライアリーprioryは小修道院,コンベントconventは托鉢修道士または近代以降の修道女会の修道女の居所,ドムス・レリギオサdomus religiosaは近代の海外宣教会または活動的修道会の会員の居所を指すのが一般的である。キリスト教の修道院は従来3世紀の後半期にエジプトのテーベで隠者パウロやアントニウスによって創設されたと考えられてきたが,1947年発見された〈死海写本〉が契機となってクムランやテラペウタイのユダヤ教修道院の存在が確認され,それとイエス復活後のエルサレムの使徒小集団との系譜関係も問題とされ,修道院の起源もそれだけ時代をさかのぼって論じられるようになった。もちろん,キリスト教修道士にとっては《使徒行伝》(2:44~47,4:32~35)の伝えるエルサレムの使徒小集団の共同生活や《マタイによる福音書》(10:9,10:10,19:21),《マルコによる福音書》(8:34)が述べているイエスの十二使徒への訓戒が絶えず帰るべき原点であったといえよう。…

【聖人】より

…宗教史的には,特に西アジアおよびエジプトを含むオリエント世界一帯に,命がけの断食行や難行苦行を自己に課し,人里離れた洞窟や高山の石窟に籠(こも)る隠者的苦行者の存在が認められてきた。キリスト教におけるこのような例としては,エジプトの隠修士アントニウスを挙げることができる。彼の苦行は,砂漠の洞窟における80有余年にわたる孤独と飢餓との凄絶な闘いとして伝えられ,彼の没後,その墓の前には,世界の各地から徳を慕って訪れる巡礼者があとを絶たなかった。…

【アウグストゥス】より

…生涯の友アグリッパと共にアポロニア遊学中に,カエサルの暗殺とその遺言による養子相続人への指名を伝え聞き,帰国後名門ユリウス氏族の後継者としてガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスGaius Julius Caesar Octavianusと名のった。資産相続の正当性をめぐってカエサル派の実力者アントニウスとは不和になったが,暗殺者の共和派の残党を追撃するなかで和解が成立した。前43年,アントニウスを支持するレピドゥスを加えて,〈国家再建三人委員〉を結成し,元老院の承認によって独裁官の全権を得ると,彼自身は北アフリカ,シチリア,サルディニアおよびコルシカを勢力基盤とする。…

【アクティウムの海戦】より

…オクタウィアヌス(アウグストゥス)が,前31年アントニウスクレオパトラの連合軍を破った古代ローマの海戦。共和政最末期すでに海外に大領土を有していたローマでは,イタリアおよび西方諸地域を統治したオクタウィアヌスと,おもに東方諸地域を管轄したアントニウスの2人に実権が握られていった。…

【演説】より

…ローマ雄弁術の頂点はキケロであり,そのカティリナ弾劾演説は有名である。またマルクス・アントニウスのカエサル追悼演説もよく知られ,シェークスピアの《ジュリアス・シーザー》中にも,その場面が現れる。帝政になると,演説は政争における武器としての役目を失ったが,しかも依然として雄弁術はギリシア・ローマの教養の中心で,青少年教育の最高段階とみなされていた。…

【オクタウィア】より

…ローマ皇帝アウグストゥスの姉。最初の夫マルケルスG.C.Marcellusの死後,オクタウィアヌス(アウグストゥス)派とアントニウス派の和約のあかしとして,前40年アントニウスと結婚したが,両派の対立が深まるなかで前32年には離婚を余儀なくされた。実子たちと共に,アントニウスがクレオパトラ等に生ませた子供たちまで養育したことから,彼女の情味あふれる行為は当時の人々の胸を打ったと言われる。…

【キケロ】より

…このころキケロは,ローマとポントスのミトリダテス6世の戦争をめぐってポンペイウスを支持する演説を行い,以後ポンペイウスと政治的親交を維持するようになる。前64年キケロはガイウス・アントニウスとともに翌年のコンスル(執政官)に選ばれた。騎士身分の生れで政治的背景を持たぬ〈新人〉であった彼がコンスルに選ばれたのは,カティリナの企てを恐れたオプティマテス(貴族派)の後押しがあったからである。…

【クレオパトラ】より

…しばしば,唐の玄宗の寵妃楊貴妃と並んで,王座を占めた絶世の二大美人とされ,シェークスピアやショーなどの文芸作品で取り上げられて,世界の支配者たちをその色香で手玉にとった女性として定型化された。ことにシェークスピアの《アントニーとクレオパトラ》は,ローマの将軍アントニウスをあらゆる手練手管で翻弄した妖婦のように描いた。次々とエジプトを訪れて彼女と出会ったローマの将軍の3人を恋のとりこにしたことは事実だが,絶世の美人で妖婦,といったイメージは,必ずしも正しくない。…

【三頭政治】より

…帝政成立前夜のローマで,有力将軍が連携して元老院を制肘(せいちゆう)し共和政体を空洞化させてゆく際の特徴的政治形態。前43年アントニウス,オクタウィアヌス(アウグストゥス),レピドゥスの三者が民会決議で〈国家再建のための三人委員〉となり,全権を掌握した事態を第2次三頭政治と呼び,前60年ポンペイウスカエサルクラッススが私的盟約により国政を牛耳ったのを,〈三人委員〉との類似から第1次三頭政治と呼ぶ。(1)第1次三頭政治 東方遠征から帰還したポンペイウスは退役兵への土地配分等の課題達成のため,前59年のコンスルのカエサル,その後援者クラッススと密約し,彼の勢力を警戒する元老院門閥の妨害を封じた。…

【パルティア】より

…彼はポントスのミトリダテス6世の反ローマ闘争に協力したが,ローマとアルメニアの対立はやがてパルティアを巻き込み,フラアテス3世Phraates III(在位,前71か70‐前58か57)の時代からローマとの長い抗争の歴史が開始された。前53年,オロデス2世Orodes II(在位,前58か57‐前39)の将軍スーレンSurenはパルティア騎兵隊を率いてクラッススをカラエに大敗させ,前36年にはフラアテス4世Phraates IV(在位,前40‐前3か2)の軍がアントニウスを撃破した。前20年,両国の間に平和条約が成り,ユーフラテス川が国境とされ,アルメニアに対するローマの宗主権が承認された。…

【プトレマイオス王国】より

…プトレマイオス14世は前47年クレオパトラとの共同統治者となったが,前44年彼女の命令で暗殺された。彼女はカエサル,次いでアントニウスの援助によってエジプト王位を継いだが,前30年アクティウムの海戦でオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に敗れて王国はここに滅亡し,エジプトはローマ帝国の一属州となった。
[社会,文化]
 この王国ではファラオ時代に起源をもつ中央集権的な官僚組織を利用して,マケドニア人,ギリシア人が土着のエジプト人の支配にあたっていた。…

【ローマ】より

… こうしてカエサルはローマの唯一の権力者として残ったが,彼が独裁的傾向を強め,王位への野望もみせたので,カッシウス,ブルトゥスらの共和主義者は前44年3月15日彼を元老院議場で暗殺した。 カエサルの甥で遺言により養子・相続人となったオクタウィアヌスはカエサルの領袖アントニウスと結んで公式に国家再建三人委員(いわゆる第2次三頭政治)に就き(前43),カエサルを暗殺した共和主義者の軍隊をフィリッピの戦(前42)で破った。レピドゥスはポンペイウスの息子セクストゥスの征討に功があったが,やがて失脚し,オクタウィアヌスとアントニウスの両雄が残った。…

※「アントニウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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