西暦7世紀の初めにムハンマド(マホメット)が、アラビア半島のメッカで唯一神アッラーの預言者として創唱した宗教。ユダヤ教、キリスト教の流れをくむ一神教である。わが国ではマホメット教、回教(かいきょう)、中国では清真教、フィフィ教ともよばれてきたが、これらの呼称は今日ではあまり用いられない。これについて、聖典コーランには「わたし(神)はイスラムを汝(なんじ)らのための宗教として認承した」(標準エジプト版、5章3節)と述べられている。元来、アラビア語の「イスラム」(より厳密には「イスラーム」islām)とは、「(神の意志や命令に)絶対帰依(きえ)・服従すること」を意味した。のちには、広くそのような帰依の仕方を制度化した文化的社会的複合体をさすことばとなった。ちなみに、イスラム教徒を表す「ムスリム」muslimとは、元来そのように「帰依した者」を意味したのである。イスラム教はまた仏教やキリスト教と並ぶ世界宗教である。1966年の統計では、世界の総人口33億6000万人のうち、ムスリムは5億3000万人といわれていた。そのおもな内訳は、西アジアのアラブ諸国に3000万人、西アジアの非アラブ諸国(トルコ、イラン、アフガニスタン)に7200万人、北アフリカのアラブ諸国に6000万人、サハラ以南のアフリカ諸国に6000万人、セイロン(現スリランカ)、ビルマ(現ミャンマー)を含むインド亜大陸に1億4500万人、東南アジア諸国に1億人、ソ連(当時)に3000万人、中国に1500万人、バルカン半島に500万人、となっている。今日の世界のムスリムの総数は統計上は明らかでないが、世界の総人口が60億人とすれば、同じ割合の増加とみて約9億5000万人となる。
[中村廣治郎]
「ジャーヒリーヤ」Jāhilīyaとは、イスラム以前の「無知」の時代、またはその時代の生活様式をさすことばである。広義には、古代南アラビアの諸王国や北アラビアのナバタイ王国、パルミラ王国の時代までも含まれるが、一般にはイスラム成立前1世紀余りの時代をさす。それはアラブ部族間の闘争時代である。人々は自己の部族のために戦い、それを誇りにした。部族のみが人間に安全を保障し、それがすべてであった。この時代に後世の範と仰がれる詩が突如生まれ完成した。詩人が活躍し、カーヒンとよばれるシャーマンが神がかりして人々に託宣を伝え、砂漠ではジン(霊鬼)が人に危害を加えるとして恐れられ、人々は自然石や刻んだ石を聖石、神像として崇拝していた。なかでもカーバ(神の館)の黒石は方形の仕切りで囲われた程度のものであったが、神殿の内外には多くの神像が安置され、メッカのクライシュ人のみならず、広くヒジャーズ全域の尊崇を集め、人々は神聖月には戦いをやめて巡礼にやってきた。その機会に市(いち)が立ち、詩人たちが集まって詩作を競った。神々のなかでもアッラート、ウッザー、マナートの3女神は有名であり、アッラーも至高神としてとくにクライシュ人に信仰されていた。総じて当時のアラブの信仰形態は多神教とはいえ、アニミズム的性格を強く残した原初的なものであった。
ユダヤ教のアラブへの浸透は西暦70年のエルサレム神殿破壊以降である。紅海沿岸の通商路に沿って南下したユダヤ教徒は、多くヤスリブ(後のメディナ)やイエメンに定着していた。キリスト教も北部辺境の地に単性論派とネストリウス派が浸透していた。また、ヒジャーズ地方や南部のナジュラーンの町にも多くのキリスト教徒が住んでいたといわれる。しかし、当時のアラブの行動を深く支配していたのは、多神教でもなく、ユダヤ教でもキリスト教でもなかった。それは、「ムルーア」murū'a(男らしさ)とよばれる、部族の現世的繁栄に資する徳や価値であり、また「ダフル」(時)ということばで表された運命観であった。当時のメッカは商業都市として繁栄していたが、その裏には貧困や悪弊があらわになりつつあった。クライシュ人の一員としてムハンマドが生まれたのは、このような時代である。伝承によれば、南アラビアのヒムヤル王国を滅ぼしたアビシニア(エチオピア)の将軍アブラハが象の大軍を率いてメッカを攻めた「象の年」(570)のことといわれている。
[中村廣治郎]
ムハンマドは幼くして孤児となり、叔父の手で養育された。25歳のとき富裕な寡婦ハディージャと結婚して安定した生活に入る。このころから商業のかたわら、しばしばメッカ近郊のヒラー山の洞穴にこもって瞑想(めいそう)にふけるようになった。610年、40歳のころに突然、最初の啓示を受ける。初めはそれが唯一神アッラーからのものとは信じられず苦悩するが、やがて預言者としての自覚を得て宣教を始める。天地の終末が迫っていること、そのために偶像崇拝をやめてアッラーに帰依(きえ)し、争いや不正をやめ、貧者や弱者を助けるように説いた。メッカの人々はムハンマドの説教に耳を貸そうとはせず、彼とわずかの信徒たちを嘲笑(ちょうしょう)し、迫害した。622年、彼は信徒たちとともにメッカを見捨て、布教の活路を求めてヤスリブ(メディナ)に移る。これをヒジュラ(遷行)という。ここに彼は、大多数のメディナの住民とメッカからの移住者の支持を得て、初めてイスラムの信仰を実践する独自の共同体(ウンマ)をつくる。とはいえ、こうして成立した共同体の前途は多難であったが、ムハンマドは宗教指導者、政治家としての優れた手腕によって、抵抗するメディナのユダヤ教徒を放逐し、周辺アラブ諸部族を教化し、630年にはついにメッカを征服する。そして632年のムハンマドの死までには、イスラムの信仰のもとにアラビア半島のほぼ全域が統一されたのである。こうしてムハンマドは、預言者として神の啓示を正しく伝え、それを聖典コーランとして残しただけではなく、政治的指導者としてその教えを共同体のなかに根づかせることに成功したのである。
[中村廣治郎]
イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教の歴史を、ムハンマドが現れるまでの前史とみなしており、イスラムの教義や実践のなかにはこれらの宗教と共通のものが多い。その基本は「六信(ろくしん)、五柱(ごちゅう)(五行)」としてまとめられている。「六信」とは、(1)神、(2)天使、(3)聖典、(4)預言者、(5)来世、(6)予定という六つの信仰箇条のことである。「五柱」とは、(1)信仰告白、(2)礼拝、(3)ザカート(喜捨(きしゃ))、(4)断食(だんじき)、(5)巡礼の五つの主要義務をさす。
[中村廣治郎]
(1)神(アッラー) コーランに繰り返し強調されていることは、「汝(なんじ)らの神は唯一なる神」(2章163節)という厳格な一神教の原理である。神は唯一絶対にして全知全能、人間を含めた天地万物の創造者、支配者である。この世に生起することで一つとして神の意志と力によらないものはない。神が唯一であるということは、「神に比べうるものは何一つない」(42章11節)ということである。それは、神は伴侶(はんりょ)をもたないというだけでなく、その本質、属性において人知を超え、被造物との類比を拒否する超越神だということである。このように神と被造物の隔絶性が強調される一方、神はまた「各人の頸(くび)の血管よりも近く」(50章16節)にあり、人間のことばで自己を語り、人間のように見たり聞いたり、怒ったり思い直したりする人格神でもある。神はまた、悪人を罰し、信仰し正しい行いをする者にはよい報いを与える義の神である。他方では、「悔い改めて帰ってくる人々には、すべてを快く赦(ゆる)し給う」(17章25節)慈悲深い神でもある。人間はただ神のことばに従順に従って生きるしかないのである。この神の唯一性(タウヒード)の問題は、神の超越性と内在性、人格性をその本質、属性との関連でどのように統一的に理解するかが、後の神学的議論の最大のテーマとなる。すなわち、コーランやハディース(預言者の言行についての伝承)における神の擬人的表現をそのまま肯定し、文字どおりに解釈する立場(ハシュウィー派など)と、そのような表現をすべて比喩(ひゆ)と解し、被造物に共通する属性をすべて否定する立場(ジャフミー派、ムゥタジラ派、哲学者など)を両極端とすれば、正統派は擬人的表現で示される神の属性を肯定しつつも、それを神の超越性と矛盾しないように解釈しようとする(アシュアリー派、マートゥリーディー派)。
(2)天使(マラクmalak) イスラムのように徹底した一神教でも、神と人間の中間的な超自然的存在としての天使を認めている。これらは、神の命令に忠実に従ってさまざまな役割を果たす。預言者ムハンマドに神からの啓示を伝え、また「聖霊」としてイエスを強化したガブリエル、らっぱを吹き鳴らして天地の終末を告げ知らせるイスラーフィール、万物の秩序と生命を監視するミカエル、死をつかさどるイズラーイールの四大天使のほか、天の玉座を支えてつねに神をたたえている天使、各人の善悪の行為をすべて記録する天使、地獄の番をする天使などがある。これと並んで、神の命に背き、人間を惑わせるサタン(またはイブリース)、ジンとよばれる霊鬼、ジンのなかでもとくに力の強いイフリートがいる。
(3)聖典(キターブal-kitāb)、(4)預言者(ナビーnabī) 神の被造物にすぎない人間が、思いのままにすべてを支配する絶対的な神を前にして安全に生活し、かつ来世における救いにあずかるには、人間の知恵や理性では不十分である。神の啓示がなければ、闇夜(やみよ)に取り残されたも同然である。そこで神は、人類の祖アダムの創造以来、次々と預言者(使徒)を各共同体(ウンマ)に遣わして、正しい信仰と行為規範を伝えさせた。アダムをはじめとして、ノア、アブラハム、イサク、ヨセフ、モーセ、ダビデ、ソロモン、ヨハネ、イエスのほか、フード、サーリフ、シュアイブなど、28人の名がコーランにあがっている。伝承によれば、その総数は約12万4000人ともいわれるが、正確には知られないという。これらの預言者の最後がムハンマドである。なかでも、モーセ、ダビデ、イエス、ムハンマドにはそれぞれ、とくに天啓の書として「律法(りっぽう)」「詩篇(しへん)」「福音書(ふくいんしょ)」および「コーラン」が授けられた。これらの一連の啓示および諸聖典の内容は、普遍的一神教という点では本質的に同じものであり、コーランは最後の聖典としてそれらを最終的に確証し補正するものとされる。すなわち、現実に存在するコーラン以前の諸聖典は歪曲(わいきょく)されていて本来の啓示を正しく伝えていないので、神は最後にムハンマドを遣わして、人間が守るべき信条と法を完全に示し、それを人々に正しく伝えさせた、とするのである。
(5)来世(アーヒラākhira) 天地万物は過去の一点において神によって創造されたように、永遠ではない。やがてそれは終末のときを迎える。終末は天変地異となって現れるが、それがいつであるかは、だれにもわからない。一瞬後のことかもしれないし、遠い将来のことかもしれない。初期の啓示には、終末が目前に迫っていることを思わせるものが多い。すべてが滅び去ったのち、死者は生前の状態に蘇生(そせい)し(復活)、神の前に引き出され、生前の信仰と行為の裁きを受ける。信仰し行い正しい人は天国で平安な生活を送り、信仰せず不義をなした者は地獄において永遠の罰を受ける。これらについてのコーランの記述は具体的でリアルである。
(6)予定(カダルqadar) 過去、現在、未来において、人間および世界に起こること、また人間の行為もすべてあらかじめ定まっている、ということである。すべては「(天に)護持されている書板」(56章78節)にあらかじめ記されているという。しかし、コーランには「悪をなす者には相応の報いを与え、善をなす者には最善の報いを授け給う」(53章31節)のように、人間の自由意志を説く部分も多い。この自由意志と予定の問題も、タウヒードの問題と並んで種々の解釈を生み、後の神学的議論の中心のテーマの一つとなる。結局、人間の意志的行為に対する神の関与を否定する自由意志説(カダリー派、ムゥタジラ派)は異端とされ、他方、人間自身の意志的関与をいっさい否定する極端な予定説(ジャブリー派)も避けられ、人間が自己の行為に対してもつ倫理的責任と調和する形の予定説(アシュアリー派、マートゥリーディー派)が正統説として受け入れられることになる。
このほか、次のようなことが正統信条として認められている。コーランは神のことばであり、創造されざるものであること、信仰者は来世において最大の至福として神をみること、死者は墓の中でムンカルとナキールの2天使の審問を受けること、罪によって信仰は増減しないこと、大罪を犯した者のために使徒たちは神に取りなしうること、ムハンマドは覚醒(かくせい)の状態で肉体のまま天上飛行(ミュラージュ)したこと、聖者の奇跡は真実であること、預言者に次いで優れた人間は正統カリフ初代のアブー・バクル、2代ウマル、3代ウスマーン、4代アリーの順であること、イマーム(カリフ)は目に見える形で存在すること、罪人のあとに従って礼拝してもその礼拝は有効であること、聖者が預言者の域に達したり、人間が神の命令や禁止を不用とする域に達することはない、などである。
[中村廣治郎]
(1)信仰告白(シャハーダshahāda) 「アッラーのほかに神はない。ムハンマドはその使徒(預言者)である」ということを告白することである。これは、入信の際に告白することばであり、また礼拝その他のおりにムスリムがつねに表白するものである。このままの形ではコーランにはないが、それは端的にムスリムになること、またそうであることを表明することである。すなわち、前半の部分で一神教の原理を、後半の部分でムハンマドが神の使徒であることを認め、それによってムハンマドを通して神が啓示したことば(コーラン)を真実と認めることを意味するからである。
(2)礼拝(サラートalāt) 被造物である人間が創造主である神を前にして己を低くし、神の偉大さと栄光をたたえる儀礼的行為である。1日5回(夜明け前、正午、午後、日没後、夜)、一定の時刻に一定の形式に従って行われる。金曜日の正午にはモスクでの集団礼拝が行われるが、このほかにも断食明けの祭りや犠牲祭、雨乞(あまご)いなどの特別の場合にも行われる。
(3)ザカートzakāt 喜捨、施しのことである。サダカが自発的に随時になされる施しであるのに対し、ザカートは一定量以上の財産に課せられる宗教税、救貧税とでもいうべきものである。金銭、穀物、家畜など、種類に応じて課税率は定められている(たとえば、金銭は2.5%)。こうして集められたザカートは、貧者、旅人、孤児などの困窮者に与えられることになっている。世俗化の傾向にある今日の多くのムスリム諸国では、ザカートの支払いは個人の発意にゆだねられている。
(4)断食(サウムawm) これはイスラム暦の第9月のラマダーン月に行われる断食のことである。夜明けから日没までの間いっさいの飲食を断ち、慎み深い生活を送ることをいう。病気や旅行でできなかった人は、他の月に同じ日数だけ断食をするか、貧者に食を施すことによって償うことができる。断食は、人間の最大の欲望である食欲に打ち勝ち、同時に食なき者への思いを新たにするときであるともいわれる。
(5)巡礼(ハッジajj) イスラム暦第12月のズール・ヒッジャ月、7~10日の間、「神の館」であるメッカのカーバ神殿およびメッカ近郊の聖域への巡礼をいう。肉体的能力と資力のあるムスリムが一生に一度は行うべき義務とされている。
以上の五柱を「イバーダート」‘ibādātというが、これは神への奉仕の意である。つまり、五柱とは神に対する人間の奉仕義務のことである。これに対して、日常生活を行ううえでの人間相互の関係、たとえば、婚姻、相続、契約、売買、裁判、刑罰、聖戦などを規制する人間の義務関係、つまり法的規範を「ムアーマラート」mu‘āmalātという。このイバーダートとムアーマラートをあわせたものがイスラム法(シャリーア)の内容をなし、イスラム法学(フィクフ)が明らかにするものである。イスラムとは、このような生活規範のなかに示されている神の命令に従って日常の生活を営むことである。この意味でイスラム教は、生活に密着した宗教であるといえる。ムスリムになるということは、日常とは異なる特別な生活をすることではない。日常生活を自覚的に正しく生きようとすることにほかならない。イスラムはそれを抽象的な道徳として説くだけではなく、そのための具体的な生活規範をも明らかにしているのである。そのような生き方のなかに、現世の福祉と来世における救いがある。なぜなら、イスラムにおける正義とは、神がそのことばのなかに示した命令のことであり、したがって、正しく生きるということは、神に従順に生きることだからである。こうしてイスラムの信仰は必然的に共同体的形態をとり、さらには国家的形態をとろうとする。イスラムのこの実践的性格は、その最初の、そしてもっとも高度に発達した学問が、神学ではなく法学であるということに現れている。それは、イスラムの教義が単純平明であることにもよるが、なによりもまずムスリムが最初に直面した問題が、何をなすべきか、つまり、どのように行動すれば神の意にかなうのか、という具体的な行為規範であったことによる。そのための第一のよりどころとなるコーランをいかに正しく解釈するかということから、コーラン学や文法学が生まれ、さらに古詩学や伝承学、そしてイスラム法解釈の方法論を明らかにする法理論が生まれ、さらに神学(カラーム)が生まれたのである。
[中村廣治郎]
預言者ムハンマドは教友たちに聖典コーランと共同体と、彼らの記憶のなかにムスリムとしての生き方の模範を残して世を去った。しかし、彼の死後、イスラム共同体はアラブ諸部族の離反(リッダ=背教)によって一時崩壊の危機に直面するが、やがて彼の「後継者」(カリフ)としてアブー・バクルが共同体の指導者(イマーム)に選ばれ、彼の努力によって再統一される。次のカリフ、ウマルのときに大征服が開始され、またたく間にイスラムの版図はアラビア半島を出て東西に拡大される。それを支えたのが、アラブ諸部族からなるイスラム戦士団である。その後カリフ位はウスマーンからアリーへと引き継がれるが、共同体はふたたび内乱の危機に直面する。これは、アリーとウマイヤ家のムアーウィヤとの指導権争いであったが、これに深くかかわっていたのがハワーリジュ派である。彼らは、イスラム共同体のもつ倫理性を極端に追求した過激派で、共同体が急速な拡散によって世俗化することに宗教的危機を感じていた。彼らは、ムアーウィヤ、および彼と妥協したアリーの行動を非とし、両者と戦った。結局、661年アリーが彼らに暗殺されて正統カリフ時代は終わりを告げ、以後90年間にわたって共同体の指導権はウマイヤ家(ウマイヤ朝)に独占されることになる。これら既存のイスラム体制(のちスンニー派とよばれる)に対して、共同体の指導権は、預言者の血を引くアリーの後裔(こうえい)に属するとするシーア派のグループが生まれ、同じくウマイヤ朝の体制そのものを非イスラム的として認めないハワーリジュ派とともに、その後武力抵抗を続ける。
[中村廣治郎]
反ウマイヤ朝の動きに対してウマイヤ朝政府は、信仰は行為(罪)とは無関係とするムルジア派の説に支配の正当性を求めつつ、他方では厳しい弾圧をもって臨んだ。このウマイヤ朝政府の下でも、イスラムの征服は続けられた。もちろん、征服によってただちにイスラム化が実現されたわけではない。ムスリムの政治的支配を受け入れる被征服民は、一定の条件の下で「イスラムの平和」と信仰の自由を享受した。こうしてイスラムの支配地域は、ウマイヤ朝末期までには早くも、西はシリア、パレスチナからエジプト、北アフリカの旧ビザンティン帝国領、さらにはスペインにまで及び、東はササン朝ペルシアを滅ぼして中央アジアからインダス川流域に達する広大なものとなった。しかし、このようなイスラムの拡大にもかかわらず、ウマイヤ朝政権下の共同体は平穏ではなかった。政府の世俗的性格やアラブ重視政策が非アラブ・ムスリムや敬虔(けいけん)な信徒の不満や反発を生み、これがシーア派やハワーリジュ派の運動と結び付き、さらにアラブの部族対立がこれに絡んで反政府運動が盛り上がり、ついにウマイヤ朝は崩壊して政権はアッバース朝に移る。ウマイヤ朝の指導者たちはイスラムの共同体を拡大し、それを新しい環境のなかで維持、発展させることに努力したが、それをよりいっそうイスラム的にする余裕はなかったし、また何がイスラム的であるかについての基準もまだ明確でなかったのである。
[中村廣治郎]
アッバース朝政府は国家統一の原理がイスラムにあることを強調し、それまで民間の学者の間で整備されつつあったイスラム法に国家統治の基礎を求めた。こうして、クライシュ人出身の1人のカリフが、多民族的共同体を一つの法の下に単一国家として支配するという理想に近い形態が実現した。ここに交易の発達とともに、古代オリエント、ヘレニズム、キリスト教、インド・イラン文明の影響の下に、独自のイスラム文明が開花する。しかし、このアッバース朝も最初の1世紀を過ぎると、カリフの実権は弱まり、それとともに各地に独立・半独立の王朝が成立してくる。とくに10世紀には、エジプトにシーア派内イスマーイール派のファーティマ朝が成立してカリフを称し、アラビア半島でもシーア派内のカルマット派が支配し、スペインでは同じスンニー派ながらも後(こう)ウマイヤ朝がカリフを称してバグダードのスンニー派カリフと対立した。さらに10世紀の中ごろには、バグダードのカリフ自体も廃絶こそされなかったものの名のみの存在となり、シーア派ブワイフ朝のアミールたちの支配するところとなる。11世紀の中ごろ、東方から興ったスンニー派の大セルジューク朝によってカリフの権威はようやく回復されたが、実権はスルタンの掌握するところであった。このようなイスラム世界の混乱と分裂をさらに深めたのは、11世紀末に始まる十字軍の侵攻であった。そしてついに1258年、モンゴル軍の侵入によってアッバース朝カリフは滅亡する。モンゴル軍の殺戮(さつりく)と破壊はイスラム世界に壊滅的打撃を与えた。そしてそれは、アラブ的古典イスラムの終焉(しゅうえん)を示す象徴的事件でもあった。しかし、イスラムの歴史そのものがそれで終わったわけではない。それは中世的スーフィー的イスラムとして、新たな装いの下で新しい担い手によって新たな展開を遂げるのである。
[中村廣治郎]
スーフィズムとはイスラム神秘主義のことであるが、イスラムの律法主義化と神学的思弁による信仰の形式化に対して、行為の動機、聖典の内的意味を強調して、9世紀ごろ生まれたものである。スーフィー(神秘家)にとってタウヒード(神の唯一性)とは、単に「アッラーのほかに神なし」と告白し、他の神々を崇拝しないということだけではない。それは、唯一なる神以上の価値を認めないということであり、また人間の意志を神の意志へ一致させることであり、さらには瞑想(めいそう)のなかで自我の意識を無にし、自己と神という二元的対立を超えた極限において自己を支配する神を実感すること(ファナー)を意味する。このような人を聖者(ワリー)とよぶが、スーフィーたちはその典型を預言者ムハンマドにみる。このような境地に到達するには、神以外のいっさいのものへの執着を捨て、神に思念を集中するという長い修行が要求される。イスラム法の義務規定はこのような修行のなかに位置づけられる。こうして古典イスラムが、聖法の遵守を通して神と交わる共同体的イスラムであるのに対して、スーフィズムは、各人が自己の内面において直接神と交わる個人型のイスラムであるといえよう。元来スーフィズムは少数のエリートの運動として出発したが、やがて修行方法が整備され、新プラトン主義やインド思想などの影響によって理論化される。12~13世紀の社会的混乱期には、ジクル(称名)による修行の簡易化と神と人間の仲介者としての聖者への信仰によって大衆化し始め、教団(タリーカ)の形でイスラム世界の全域に広まっていく。
このような混乱のなかから14世紀以降小アジアからバルカン半島へと勢力を拡大したオスマン朝トルコは、16世紀前半のスレイマン1世(大帝)のころには、小アジアはもとより、遠くウィーンに迫るバルカン半島の奥深くまで、南はイエメンに至るまでの地中海周辺アラブ諸地域を征服して広大な統一国家をつくり、スルタンはカリフを称してスンニー派イスラム世界の守護者として登場した。16世紀初め、オスマン朝スルタン、セリム1世がシリアを征服した際、まず有名な13世紀初期のスーフィー思想家イブン・アラビーの廟(びょう)を建立したことは、この王朝とスーフィズムの結び付きを象徴的に示している。同じころペルシアの地では、イル・ハン国、ティームール朝を経てイラン民族を統一して十二イマーム派(シーア派の一派)のサファビー朝が興り、スンニー派のオスマン朝と対立しつつも、16世紀から17世紀にかけてのシャー・アッバース1世のころには、政治的にも文化的にも隆盛の時期を迎える。スンニー派イスラム世界では、ガザーリーの哲学批判などもあって、スペインのイブン・ルシュド(アベロエス)以降消滅したとされるギリシア哲学の伝統は、スーフィズムと融合したこの地のシーア思想のなかで生き続け、モッラー・サドラーを頂点とする一連の思想家のなかで新たな展開をみた。
また、インド亜大陸のイスラム化が進むのも13世紀以降のことである。すなわち、インダス川上流の北西辺境地域を支配していたガズナ朝を滅ぼして登場したゴール朝以後、ムスリムの本格的なインド侵入が開始される。1206年にはゴール朝のあとにデリー・サルタナット朝(奴隷(どれい)王朝)が成立するが、1526年のムガル朝の登場によってムスリムの全インド的支配はいちおう確立し、イスラム化はさらに進行する。こうして16世紀後半のアクバル大帝のときにその最盛期を迎える。イスラムが東南アジア、中国、ブラック・アフリカなどに伝播(でんぱ)していったのもこのころのことである。こうしてイスラムは、アラブ・ムスリムが活動の舞台から姿を消すと、モンゴル人征服者を改宗し、トルコ人、イラン人、インド人、マレー人、インドネシア人、中国人、アフリカ人のなかにその担い手をみいだし、新たな発展を遂げたのである。そして、この発展とイスラム化に活力を与えたのがスーフィー的イスラムであり、スーフィー教団の聖者や商人であった。
こうした発展も16~17世紀のピークを過ぎると終息し、イスラム世界はふたたび衰退に向かう。スーフィーたちが体験を重視するあまり知識を軽視し、理性による規制を離れたスーフィズムはますます呪術(じゅじゅつ)化し、「神への帰依(きえ)」(タワックル)が積極的活動のなかで理解されるのではなく、無為、無活動、現世への無関心として理解され、スーフィズムは無気力と沈滞を正当化するイデオロギーとなっていく。
[中村廣治郎]
沈滞したイスラム共同体のあり方に批判を加え、それを改革しようという動きが18世紀に出てきた。インドのシャー・ワリーウッラー(1703―63)と、アラビア半島のムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(1703―93)である。前者は、イギリスのインド進出のなかで、ヒンドゥー教徒やシーク教徒の覚醒(かくせい)に刺激され、内部改革を通して、衰退するムガル朝の復興を図ろうとするものであった。これは中世的イスラムを全面的に否定するものではなく、スンナ(預言者の範例)とスーフィズムを純粋な形で結合したイスラムであった。彼の改革思想は、その後息子や孫に引き継がれ、政治的運動へと組織化されていく。
これに対してワッハーブは、イスラム共同体の衰退と堕落はスーフィズム的夾雑(きょうざつ)物の付加によるとして、それを除去し、コーランとスンナの純粋な原始イスラムへ復帰すべきことを主張した。そして、ネジドのサウド家のイブン・サウドと結んで、その主張の政治的実現を目ざした。こうしてその地方を支配するオスマン朝政府と衝突することになるが、このアラブによるトルコ人政府への反抗という構図は、中世的イスラムから近代イスラムへの転換を象徴するものである。ワッハーブ派の運動はオスマン朝政府の弾圧によって失敗に終わるが、運動そのものがそれで終わったわけではなく、1932年にサウジアラビア王国として実を結ぶ。ワッハーブ派のもつ偶像破壊的な改革思想は、ムスリムのなかに眠っていた共同体意識を広く呼び覚まし、共同体の現状に目を向けさせた。
ついで19世紀の後半、イスラム共同体全体が西洋からの侵略の危機にさらされてくる状況のなかで、ジャマールッディーン・アフガーニーは、世界のムスリムが団結して「イスラムの地」の防衛にあたるべきこと、そのために近代文明の摂取によって自らを強化し、他方では伝統的イスラムの悪弊を改めるべきこと、こうしてかつての統一的イスラム国家の栄光を取り戻すこと、イスラムは近代文明と矛盾するものではなく、理性的宗教であること、を説いてまわった。アフガーニーの説くこの汎(はん)イスラム主義の夢は、第一次世界大戦後の1924年、トルコのケマル・アタチュルクの革命による、1300年来のカリフ制の廃止とともに消え去った。しかし、アフガーニーの改革思想は、ナショナリズムと絡み合いながら、過去の栄光へのノスタルジア、護教、近代主義的イスラム解釈とともに、その後の近代イスラム思想や改革思想のなかに引き継がれていく。とくにエジプトでは、彼の弟子であるムハンマド・アブドゥーは、伝統的なアズハル大学の改革やイスラム法のリベラルな解釈のなかに師の思想を生かそうとした。他方では、そのような近代主義的イスラムに不満をもつ民衆は、伝統的なウラマー(学者)ではなく、原理主義に基づく社会改革を目ざすムスリム同胞団などの行動主義にひかれていく。
第二次世界大戦後、イスラム共同体は民族国家に分裂した形でそれぞれ政治的独立を達成するが、国によってイスラムのあり方は異なる。政教分離と世俗化を断行したトルコを一方の極とすれば、他方の極には「イスラム共和国」としてイスラムの近代的理念に国家的形態を与えたパキスタン、同じイスラム国家でも伝統的形態を保持する王制のサウジアラビアなどがある。それに1960年代から80年代にかけて、王制を倒して革命に成功したイランのイスラム共和国(1979)やリビア(1969)を付け加えることができよう。その中間には、さまざまな形態のイスラム共同体がある。なかでも注目されるのは、輝かしい過去の伝統をもちながらも、1947年のパキスタンの分離独立後は、国家的次元でのイスラムの自己表現を否定し、圧倒的多数のヒンドゥー教徒との共存を目ざすインド・ムスリムである。これらの多くの形態が、過去にあまり例をみない新しい試みであるだけに、その前途は注目に値する。
[中村廣治郎]
日本でのイスラム教の歴史は、明治の開国による日本人の海外進出とともに始まる。1896年(明治29)に入信して最初の日本人ムスリムとなったアフマド有賀文八郎(ありがぶんぱちろう)は貿易商として長い間インドに滞在していたし、明治の末には山岡光太郎が、日本に亡命していたタタール人ムスリムとともに最初のメッカ巡礼を果たしている。このように多くの日本人ムスリムが外国で入信するか、外国のムスリムとの接触が入信の機縁となっていることは興味深い。イスラム教では証人立ち会いの下に信仰告白をし、基本的信条と義務について学べば、だれでも簡単に入信ができ、聖職者による複雑な儀礼は必要としない。入信すると、だれでも日常の生活を続けながら仕事を通して信仰を伝え、ともにそれを実践することができるのである。日本人のイスラム教への関心がとくに高まるのは満州事変(1931~32)から第二次大戦中にかけてである。そのころは毎年のように日本人メッカ巡礼団が組織され、イスラム教についての学問的研究が戦略的見地からも大いに奨励された。神戸と東京にそれぞれモスクも建てられた。しかし、敗戦の痛手は大きく、日本のイスラムがふたたびその活動を開始するのはようやく1960年代以降になってからである。今日では日本ムスリム協会、日本イスラム教団、イスラミック・センター・ジャパンなどの組織があり、信者の数は5万人と称されている。
[中村廣治郎]
西欧におけるイスラム研究をさかのぼれば中世までたどれるが、本格的な実証的研究が始まるのは19世紀以降である。このころからアラビア語やペルシア語の写本が積極的に収集され始め、基本的文献の校訂や刊行が始まる。これらの史料や幾多の先駆的研究を踏まえて、ドイツのウェルハウゼンJ. Wellhausen(1844―1918)、ハンガリーのゴルトツィヘルI. Goldziher(1850―1921)、イタリアのカエターニL. Caetani(1869―1926)、オランダのスヌーク・ヒュルフローニエC. Snouck Hurgronje(1857―1936)らが、イスラムの歴史およびその全分野にわたって、今日の研究の礎石を築いた。なかでもドイツのネルデケTh. Nöldeke(1836―1930)はコーラン研究やセム語文献学に、フランスのマッシニョンL. Massignon(1883―1962)やイギリスのニコルソンR. A. Nicholson(1868―1945)はスーフィズム研究に、アメリカのマクドナルドD. B. Macdonald(1863―1943)は神学研究に優れた業績を残した。これらはイギリスのギブH. A. R. Gibb(1895―1971)、ドイツのシャハトJ. Schacht(1902―69)、フランスのコルバンH. Corbin(1903―78)らに引き継がれて今日に至っている。
日本でのイスラム研究は1930年代に始まるが、前嶋信次(1903―83)や井筒俊彦(としひこ)(1914―93)らのごく少数の学者を除き、敗戦とともに多くの学者が世を去ったり、イスラム研究を放棄したため、戦後イスラム研究が新たに始まるのは、ようやく60年代になってからである。
[中村廣治郎]
『H・A・R・ギブ著、加賀谷寛訳『イスラム――誕生から現代まで』(1981・東京新聞出版局)』▽『嶋田襄平著『世界宗教史叢書 5 イスラム教史』(1978・山川出版社)』▽『中村廣治郎著『イスラム――思想と歴史』(1977・東京大学出版会)』▽『井筒俊彦著『イスラーム思想史』(1975・岩波書店)』▽『R・A・ニコルソン著、中村廣治郎訳『イスラムの神秘主義』(1980・東京新聞出版局)』▽『W・C・スミス著、中村廣治郎訳『現代におけるイスラム』(1974・紀伊國屋書店)』▽『日本イスラム協会監修『イスラム事典』(1982・平凡社)』
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…信者をムスリムというが,それは〈絶対的に服従する者〉の意である。イスラムそれ自体が宗教の名であるから,イスラム教と呼ぶ必要はない。かつて欧米ではモハメッド教,マホメット教Mohammedanism,中国で清真教,回回教,回教,日本でも回教と呼ばれたことがあるが,正しい呼称ではないために現在ではほとんど用いられなくなっている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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