オランダ領東インド(読み)オランダリョウヒガシインド(英語表記)Dutch East Indies

デジタル大辞泉 「オランダ領東インド」の意味・読み・例文・類語

オランダりょう‐ひがしインド〔‐リヤウ‐〕【オランダ領東インド】

蘭領らんりょうインド

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精選版 日本国語大辞典 「オランダ領東インド」の意味・読み・例文・類語

オランダりょう‐ひがしインド‥リャウ‥【オランダ領東印度】

  1. ( [オランダ語] Nederlands Oost-Indië ) インドネシアの、オランダ植民地時代の呼び名。一六〇二年設立のオランダ東インド会社が総督府をジャワのバタビアジャカルタ)に置き、一七九九年政府直轄領となる。一九四九年インドネシア共和国の独立によって消滅。蘭領印度。蘭印。

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改訂新版 世界大百科事典 「オランダ領東インド」の意味・わかりやすい解説

オランダ領東インド (オランダりょうひがしインド)
Dutch East Indies

オランダがその植民地としていた現在のインドネシア共和国全域(旧ポルトガル領ティモールを除く)に与えていた名称(オランダ語ではNederlandsch-Indiëと書き,多くの場合〈東〉という語は入れない)。すでに18世紀ごろから,オランダ東インド会社の公式文書にこの名称が用いられているが,名実ともにインドネシア全体を含むに至ったのは1915年以後とされる。

 東インドに初めて到達したオランダ船は,1596年6月,ジャワ島西部のバンテン港に停泊したコルネリス・ド・ハウトマンの船隊である。やがて東インドに来航する船は激増し,各地の航海会社間の競争を解消するために,1602年にオランダ東インド会社が設立された。バンテン王国の藩属国ジャカルタは良港であったため,イギリス,オランダ両国の争奪の的となり,イギリス・バンテン連合軍はオランダの要塞を19年に包囲したが,第4代オランダ東インド総督J.P.クーンはこれを守り通し,正式にこの地をバンテン王から譲り受けてバタビアと改称した。クーンはモルッカ諸島香辛料貿易にも進出し,バンダ諸島の原住民を殺したり移住させたりしてニクズクの収穫をほとんど独占した。また23年のアンボン事件の結果,競争者イギリスはインドネシア進出をあきらめてインド亜大陸に関心を転じた。

 中部ジャワに興ったマタラム・イスラム王国は西に勢力を伸ばし,1628-29年にかけて2度バタビアを包囲したが,ついに攻略できなかった。また西部ジャワのバンテン王国も次第にオランダの勢力に圧倒されるようになった。マタラムは46年にオランダとの間に平和条約を結び,その後77年にマタラムに王位継承戦争が起こり,オランダ東インド会社は新王の即位に助力した代償として西ジャワの地味肥沃なプリアンガン地方を獲得した。会社は次第に商業利潤から領土獲得へと方向を転じ,18世紀前半に3回起こった同国の内紛の度ごとに領土を拡張して,ついに1755年,マタラム王国スラカルタジョクジャカルタとに二分する調停案を示し,これを実施させてジャワ島の大半を直接支配下においた。またジャワ以外では1641年にマレー半島の良港マラッカをポルトガルから奪い,67年にマカッサル王国ゴワ王国)との間に結んだボンガヤ条約により,インドネシア東部の海域における優位を確立した。

 領土拡張と共に新しい商業用作物が相次いで導入され,なかでも1699年にジャワに移植されたコーヒー苗はバタビア周辺やプリアンガン地方で盛んに栽培された。会社は原住民首長から収穫物を買い上げる際に,一方的に価格を決めたが,義務供出制度と呼ばれるこの方式は,のちの強制栽培制度の先駆となった。コーヒーのほかに,サトウキビ,藍,茶,綿花,のちにはゴムなどが紹介された。

 このような多角経営にもかかわらず,オランダ東インド会社は領土拡大による支出の激増や会社職員の不正利得などによって負債を重ね,保守派の牙城として本国の進歩派政治家の攻撃の的となっていた。フランス革命の5年後の1794年,フランス革命軍はオランダ本土を占領し,オランダは十数年間バタビア共和国となり,旧体制の象徴とも言うべきオランダ東インド会社は1799年に正式に解散した。

 バタビア共和国は次第にフランスの支配下に入り,ナポレオンに心酔する軍人ダーンデルスが総督に任命され,フランス最大の敵国イギリスのインドネシア進出に備えた。イギリスはこのころマラッカを占領していたが,イギリス東インド会社職員ラッフルズは強力にジャワ進攻を提案し,ついに1811-16年ジャワを占領した。副総督に就任したラッフルズは土地制度や税制の近代化を試みたが,ナポレオン戦争の終結後ジャワはオランダに返還されることになり,復帰したオランダ植民地政庁は次第にラッフルズの近代的政策を放棄し,土着首長を利用する従来の間接統治方式に戻った。とくに30年以後は反乱の続発等により,強制栽培制度実施に踏み切った。これは政府所有地の1/5に政府が指定した商業用作物を作らせ,それを一定価格で買い取るもので,収穫物の納入やある程度の加工まで義務が課せられたため,農民は自分達の食糧を生産する余裕がなく,43年から48年にかけて飢饉が連発した。オランダはこれによって8億2300万ギルダーの利益を上げ,財政危機を乗り切ったと伝えられる。この制度はオランダの人道主義者たちの非難を受け,コーヒーを除いて70年に廃止された。

 オランダの支配に対する原住民の抵抗は各地で頻発し,強制栽培制度実施以前にも1825-30年,ジョクジャカルタ王族の一人ディポネゴロの指導する反乱が起こり,また西スマトラでは同じころイマーム・ボンジョールの率いるミナンカバウイスラム教徒の反乱(パドリ戦争)があり,37年にようやく鎮圧された。さらに73年から1912年にかけて,スマトラ北端のアチェ王国に起こったアチェ戦争はオランダ軍多数の投入を必要とし,東インド最大の戦争と言われた。この戦争を境にオランダはジャワ以外のいわゆる外領への実質的支配の浸透に心がけるようになり,農業のみならず鉱産物の開発等にも力を注いだ。このような動きは何よりもイギリスのマレー半島およびボルネオ島北部への急速な進出に刺激されたためで,最後の自治領であったシンガポール南方海上のイスラム王国リアウも1911年にオランダ領となった。ただし,最東部に位置するニューギニア島への進出はかなり遅く,1884年以後一連の条約で東経141°以西がオランダ領と確定したものの,内陸部への進出はあまり行われなかった。

 太平洋戦争中,1942年3月に日本軍はインドネシアに進攻し,オランダ軍は無条件降伏をしてオランダ領東インドはいったん消滅した。戦後にオランダは植民地回復を意図したが,インドネシア共和国の激しい抵抗にあい,49年のハーグ協定の結果,インドネシア連邦共和国への主権委譲が決定され,オランダ領東インドの歴史は終わった。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オランダ領東インド」の解説

オランダ領東インド(オランダりょうひがしインド)
Nederlandsch Oost-Indië

1619年バタヴィア(ジャカルタ)に拠点を構えたオランダが徐々に勢力を拡大し,1942年3月に日本軍の占領を受けるまで領有した,今日のインドネシアの領域の植民地時代の呼称。オランダは1670年代にはインドネシアの海域世界で優位を確立。また同じ頃マタラム王国の内紛や18世紀には同王家の王位継承に介入し,ジャワに領土を獲得し始める。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の影響で19世紀初めにイギリスがオランダ領の東インドを一時期占領するが,1824年のイギリス‐オランダ協定によりマラッカ海峡を挟んで,イギリス側とオランダ側との勢力圏が画定される。その後オランダが植民地支配を強化すると,在来勢力の抵抗を受け,ジャワ戦争やミナンカバウでのパドリ戦争,バリ戦争,バンジャルマシン戦争,アチェ戦争などが生じた。こうした抵抗勢力を排したのち,1910年代にはオランダ領東インドの領域が完成した。

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百科事典マイペディア 「オランダ領東インド」の意味・わかりやすい解説

オランダ領東インド【オランダりょうひがしインド】

17―20世紀前半オランダが領有した現在のインドネシア共和国全域にわたる植民地。Dutch East Indies。オランダ領インドネシア(蘭印)とも。1602年オランダ東インド会社の設立により統治を始め,1799年末会社解体後はナポレオン戦争の影響により1811年―1816年英国の統治を受け,のち再びオランダ領となり王室直轄の総督治下に入る。本国の国力が衰えている時期には過酷な〈強制栽培制度〉を基礎とした開発と搾取がジャワ島を中心として進んだが,英国統治時代(ラッフルズ)から自由主義的な傾向がみられた。しかしこの間,原住民の不満はジャワ戦争(1825年―1830年),アチェ戦争(1873年―1903年)の二大反乱として爆発した。第2次大戦後インドネシア(共和国)として独立。
→関連項目ジャワ[島]

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旺文社世界史事典 三訂版 「オランダ領東インド」の解説

オランダ領東インド
オランダりょうひがしインド
Nederlandsche Oost-Indië

オランダ統治時代(1602〜1945)のインドネシア地域の名称
1596年オランダ艦隊がジャワのバンテンに入港し,1602年連合東インド会社を設立。1619年オランダの東インド総督クーンがバタヴィア(現ジャカルタ)を建設し,独占権を与えられて駐在,盛時にはアジア方面で36の商館を経営した。当初は領土的関心よりも貿易に重点をおいたが,バンテン・マタラム両国の王位継承に介入してジャワ本島・セレベス・スマトラ・モルッカ諸島を領有し,現物供出・強制出荷という税法で搾取を行った。しかし,1799年経営不振で会社が解散したのち,東インドは,本国政府の直轄領となった。ナポレオン戦争中,一時イギリスが占領(1811〜16)したが,戦後返還された。その後,本国と東インドの財政悪化を救うため,総督ファン=デン=ボスによって,1830年強制栽培制度が導入されて住民を苦しめた。この制度は原住民の反感をかったため,1870年にはコーヒーを除いておおむね廃止された。なお,19世紀にオランダは,ニューギニア・ボルネオなども順次植民地とし,スマトラの北西部のアチェー王国との戦争に勝利して,1904年にオランダ領東インドを完成させた。このころから民族運動も始まり,さらに第二次世界大戦での日本降伏後,1945年インドネシア共和国として独立を宣言した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オランダ領東インド」の意味・わかりやすい解説

オランダ領東インド
オランダりょうひがしインド
Dutch East Indies

ニューギニア島西部を含む現在のインドネシア共和国領土の旧名。 1596年に最初のオランダ貿易船がジャワ島のバンテンを訪れ,1619年にジャカルタを占領。マルク諸島 (香料諸島) をも制圧し,オランダ勢力は 17世紀後半からジャワ内部に浸透した。 1811~16年イギリスがジャワを一時占領したが,返還後,オランダ領東インド総督は本国の財政難解決のため,30年から強制栽培制度を実施し,莫大な利益をあげた。 19世紀末にはジャワ以外の開発も進み,また圧政への反省から寛容政策に転じたが,インドネシア独立の機運が高まり,1949年に主権委譲が実現。オランダの支配は終った。

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