キュリー(Marie Curie)(読み)きゅりー(英語表記)Marie Curie

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

キュリー(Marie Curie)
きゅりー
Marie Curie
(1867―1934)

ポーランド生まれのフランスの化学者。ラジウムポロニウムの発見者。11月7日ポーランドのワルシャワに生まれる。旧名マリヤ・スクロドフスカMarja Skłodowskaといい、同地の中学校の数学・物理学の教師であった父のもとで科学への興味をはぐくんだ。兄1人、姉3人の末娘で、9歳のとき長姉をチフスで亡くし、また11歳のとき母を結核で失った。学資の乏しいなかで姉とパリ留学を志し、まずは姉が医学を学ぶためパリに留学し、マリーは住み込みの家庭教師となって学費などの仕送りをした。マリーが18歳のときであった。そしていよいよ1891年に、パリ大学理学部に入学、パリで結婚した姉の家から通学することとなった。翌1892年にはカルチエ・ラタンにひとりで下宿し、経済的に厳しい生活のなかで勉学に励んだ。そして1893年には物理学科を1位で、また1894年には数学科を2位で卒業した。

 1894年春、パリ物理化学学校の実験主任をしていたピエールキュリーと知り合い、翌1895年結婚した。おりからこの年、レントゲンがX線を発見し、翌1896年にはベックレルがX線に似た、肉眼には見えないが写真乾板を感光させる放射線(ベックレル線)をウラン化合物が出すことを発見するなど、後のキュリー夫妻の研究につながる重要な発見がなされた。

 1897年9月、長女イレーヌ誕生。この年の末、マリーは博士論文のテーマとしてベックレル線の解明を選んだ。その研究を進めるうえで夫ピエールの発明したキュリー電位計が役にたった。この電位計を使って、空気をイオン化して電気伝導性を与えるベックレル線の性質を利用し、その強さを定量的に測定することができたのである。その結果、ベックレル線の強さは、ウラン元素の含量に比例することと、ウランの物理的、化学的状態には関係しないことがわかった。このことからマリーは、ベックレル線がウラン原子の内部から発せられるのだと洞察した。さらに他の元素についても片っ端から調べた結果、トリウムもベックレル線と同様の、しかもウランより強い放射線を出していることを発見した。そこでマリーはこのような放射線を出す性質を「放射能(ラジオ・アクティビティ)」と名づけた。次にウランの鉱物ピッチブレンド(瀝青(れきせい)ウラン鉱)を調べたところ、その放射能が金属ウランより4倍も強いことを発見、ウラン、トリウム以外にも放射能をもつ未知の元素があると推論し、その単離を試みた。この時期からピエールも研究に直接協力し、1898年7月6日、ビスマスと共沈する物質中からウランの330倍もの放射能をもつ物質を得た。マリーはこれを新元素であるとして、祖国の名にちなんでポロニウムという命名をした。ところが、ウラン、トリウム、ポロニウムを除いた残液にさらに強い放射能のあることがわかった。マリーは、バリウムと共沈する物質中に存在が予想されるこの新元素に、放射線を意味するラテン語ラディウスradiusにちなんでラジウムの名を与えた。キュリー夫妻はスペクトル分析の権威である友人のドマルセーEugène Demarçay(1852―1903)に発光スペクトル写真を撮ってもらい、新元素であることを確認し、1898年12月26日にこの2元素をフランス科学学士院に報告した。マリーはさらに、ヨアヒムスタール鉱山からウラン鉱石の滓(かす)をもらい受け、そこからラジウムを取り出す実験、作業にとりかかった。磨(す)りつぶした鉱石滓(さい)に濃硫酸を加え、磁器鍋(なべ)中で煮るなどしてバリウムとラジウムの硫酸塩混合物を得、これをさらに処理して塩化物に変え、両塩化物の溶解度差を利用して分別結晶化するという手順を繰り返した。かかる多大な労力を要し、かつ健康を害する、女性には激しすぎる作業を4年間も続けた結果、ついに1902年、ウランの数百倍もの放射能をもつ純粋のラジウム塩(塩化ラジウム)0.1グラムを得た。このときまでに処理した鉱石滓は8トンに達していた。再度ドマルセーにスペクトル分析を依頼し、ほぼ純粋のラジウムの塩化物であることを確認したのち、その原子量を測定して225.93を得た(実際には226.0254、質量数226)。

 この研究により、1903年、マリーはパリ大学から博士号を与えられた。また同年、第3回ノーベル物理学賞がベックレルおよびキュリー夫妻に与えられた。しかしその一方、この年はマリーが第2子を妊娠し流産するという不幸もあった。1904年、ピエールはパリ大学の教授に、マリーはその実験主任になった。この年、次女エーブEve Curie Labouisse(1904―2007)が誕生した。しかし、1906年4月19日、ピエールが交通事故にあって急逝し、老医師であるピエールの父と娘2人との厳しい生活を余儀なくされた。この年マリーは女性として最初のパリ大学講師となり、ついで1908年に教授となった。

 マリーは先に得た塩化ラジウム0.1グラムを原料に、ラジウムを化合物としてではなく単体、つまり金属として得る努力を続けた。イギリスの物理学者ケルビンから、ラジウムは元素でなく、鉛とヘリウムの化合物ではないかといった疑問も出されていたのである。マリーは、塩化ラジウムを水に溶かし、電解して水銀のアマルガムをつくり、次に水銀を追い出すという方法で、1910年ついに微量の金属ラジウムを得ることに成功した。翌1911年、マリーはこの実績により第11回ノーベル化学賞を与えられた。こうしてマリーは、女性として最初の、さらに史上初の二度のノーベル賞受賞者となったのである。

 その後、ワルシャワの放射能研究所設立(1913)、パリのラジウム研究所設立(1914)に協力し、その放射能実験室の室長となった。しかし1914年に第一次世界大戦が始まると、X線検査班を組織し、さらに自動車に発電機とX線装置とを積んだ移動X線班もつくって医療活動を行った。1919年ラジウム研究所で研究を再開、1921年、アメリカの探訪記者メロニー夫人Meloney(1898―?)の尽力で、2人の娘とともに訪米し、ラジウム1グラムの寄贈を受けた。

 1934年7月4日死去。死因は白血病であった。おそらく長年にわたって放射線に照射されたためであろう。当時はまだ放射能の人体への危険性についてあまり知られておらず、現在から考えると無謀な実験の数々であった。1903年の第2子の流産も、あるいは実験の際の放射線照射のためであったかもしれない。

 おもな著書に、パリ大学の講義をもとにした『Radioactivité』(『放射能 上・下』皆川理他訳・1942、1943・白水社)がある。

 長女イレーヌはフレデリック・ジョリオと結婚し物理学者として、また次女エーブは音楽家、劇作家として活躍した。

[道家達將]

『マリー・キュリー著、木村彰一訳『世界ノンフィクション全集8 自伝』(1960・筑摩書房)』『イレーヌ・ジョリオ・キュリー著、内山敏訳『わが母マリー・キュリーの想い出』(1956・筑摩書房)』『エーブ・キュリー著、川口篤・河盛好蔵・杉捷夫・本田喜代治訳『キュリー夫人伝』(1966・白水社)』『崎川範行著『キュリー夫人の生涯』(1980・東京図書)』『ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』(岩波新書)』『E・ドーリー著、光吉夏弥訳『キュリー夫人』(岩波少年文庫)』

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