精選版 日本国語大辞典 「キュリー」の意味・読み・例文・類語
キュリー
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翻訳|Curie
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ワルシャワ生れのフランスの物理学者,化学者。ポーランド名をマリア・スクロドフスカMaria Sklodowskaという。父は中等学校の数学と物理の教師であった。10歳のとき母を亡くし,15歳で女学校を卒業すると家庭教師をして働いた。1891年10月,学業を修めるためにパリに出,パリ大学で物理学と数学を学び,93年とその翌年,それぞれの修了試験に合格した。学業を修めた後はポーランドに帰り,ロシアの圧政下に苦しめられている祖国のために役だちたいと考えていたが,94年春のピエール・キュリーとの出会いを契機にパリでの研究継続を決意した。
95年ピエールと結婚してM.キュリーとなり,97年長女イレーヌを出産した後,博士論文のために放射線の研究を開始した。夫ピエールとその兄ジャックの考案した鋭敏な電位計を駆使して,写真乾板や金箔検電器を使用していたそれまでのA.H.ベクレルの研究をよりいっそう精密に行った。その結果,放射線の放出がウラン原子そのものの性質であるというベクレルの発見を確証する一方,トリウムもウラン同様に放射線を放出することを見いだした。自然に放射線を放出するこれらの現象に対して,〈放射能〉ということばを提唱した。天然鉱石の放射能を調べる中で,強い放射能をもつ未知の元素の存在を予測し,98年,ピエールとの協同でウランの原鉱石ピッチブレンド中に新元素を発見し,その一つを祖国ポーランドにちなんでポロニウム,もう一つをラジウムと名づけて発表した。その過程で放射線を目印にした分析法など,放射化学の基本的方法の開発を行った。これらの業績により1903年にはベクレルや夫ピエールとともにノーベル物理学賞を受けた。06年ピエールが交通事故で死亡した後は,パリ大学での彼の講義を継続し,08年教授となった。10年には純粋の金属ラジウムの単離に成功,これに対し翌年にはノーベル化学賞を受けた。
第1次世界大戦中はX線装置による医療活動を組織,戦後は国際連盟の知的協力国際委員会の委員として科学の国際協力に尽力した。なお,長女イレーヌはF.ジョリオ・キュリーの夫人であり,次女エーブは《キュリー夫人伝》の著者として知られる。
執筆者:日野川 静枝
フランスの物理学者。マリー・キュリー夫人の夫。パリの生れ。父は開業医であったが,自然科学にも深い関心をもっていた。ピエールは家庭内で教育を受け,16歳で理科大学入学資格試験に合格し,パリ大学に学んだ。1877年に物理学修了試験に合格し,その後5年間はパリ大学理学部で物理学の助手を務めた。最初,鉱物学の助手をしている兄ジャックと協同研究を行う。とくに彼は,結晶の対称性について研究したり,またジャックとともに圧電効果を発見し,その測定のために鋭敏な電位計を考案した。その後単独で磁性体の研究を行い,キュリーの法則やキュリー温度を発見した。95年に理学博士の学位を得て,パリの物理化学学校の教授になる。98年以降妻マリーの放射能に関する研究に協力して,ウランの原鉱石ピッチブレンドの分析を行い,強い放射能をもつ新元素を発見した。これらの新元素は,ポロニウムとラジウムと名付けられ,98年の7月と9月にそれぞれ発表された。この発見は,1900年にパリで開かれた国際物理学会議でも報告され世界的に認められた。03年には,A.H.ベクレルとともに夫妻でノーベル物理学賞を受賞。放射線の本性や放射線のエネルギー源についての重大な未解決問題は,その後E.ラザフォードを中心に行われる原子の構造解明の研究へと発展する。06年,パリの通りで暴走してきた馬車にはねられ死亡した。
執筆者:日野川 静枝
放射能の単位で,記号Ci。原子核の崩壊(または自然核分裂)の割合が毎秒3.7×1010であるときの放射能が1 Ciである。放射能は,原子核がβ線とかα線などの粒子を放出して崩壊したり,自然核分裂を起こしたりすることの時間的割合である。名は,ラジウムの発見者キュリー夫妻にちなんだものであり,1gのラジウムの放射能はほぼ1 Ciである。国際単位系(SI)では1975年にベクレル(Bq)を放射能の単位として採用,キュリーのかわりに用いられることが多い。1 Ci=3.7×1010Bqである。
執筆者:山下 幹雄
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フランスの物理学者.16歳で大学理学部入学資格試験に合格し,18歳で物理学の学士号を取得.ソルボンヌ大学のR. Desains教授の実験助手を5年間務めたのち,1882年にパリ市立物理化学学校の創立と同時に実験主任として着任,22年間ここで研究生活を送った.助手時代に兄Jacque Curieとともにピエゾ電気現象を発見し,ピエゾ電気計を考案した.また,結晶物理学の理論的研究をきわめ,対称の原理を導出した.さらに,磁気の研究に取り組み,常磁性体の磁化率が絶対温度に反比例するというキュリーの法則を定式化し,キュリー点の存在を明らかにした.これによって1895年博士号を取得.また,同年7月にM. Curie(キュリー)と結婚し,ウラン放射線の研究を夫妻ではじめ,新元素ラジウムの発見など放射能研究を開拓した.1903年デイビー・メダルを授与され,ノーベル物理学賞を受賞.1904年科学アカデミー会員に選出され,翌年ソルボンヌ大学の物理学教授となるが,馬車にひかれ死去.
放射能の量の単位.記号 Ci.核種のいかんにかかわらず,毎秒の崩壊数が3.7×1010 個であるときの放射能の量を1 Ci と定義する.1 g のRaの放射能の量は約1 Ci である.放射能の新しい国際単位系(SI単位)はベクレル(Bq)で,
1 Ci = 3.7×1010 Bq.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
… もう一つの大きな応用分野である医学の面では,X線の発見時にレントゲンが手の骨を写したことから,X線写真が骨折や盲管銃創の診断に役だつことは明白であり,アメリカではX線発見のニュースが伝わった直後に,患者の足に入った弾丸位置の検出に用いられている。また,キュリー夫人は第1次世界大戦のとき,野戦病院はもちろん,後方の病院にもX線の設備がほとんどないことを知り,X線設備をもつ車を初めて作らせ,娘イレーヌとともに野戦病院を巡回し,後に《X線診断学と戦争》と題する本を出版(1921)している。現在では,胃癌などの早期発見をはじめ,肺浸潤,肺結核などの早期発見などに広く利用されており,とくに最近ではCT検査により,身体の横断面のX線写真が計算で出せるようになっている(X線検査)。…
…ピエゾ電気とも呼ばれ,ピエゾとはギリシア語のpiezein(押す)を語源とする。正効果は1880年にフランスのキュリー兄弟Jacques and Pierre Curieによって,水晶,ロッシェル塩,電気石などで発見された。逆効果は81年にフランスのリップマンGabriel Lippmannにより熱力学的考察に基づいて指摘され,その存在はキュリー兄弟により実証された。…
…すなわち反磁性は磁石を近づけると反発される物質であり,常磁性は磁石に引きよせられる物質である。そして1895年にP.キュリーは前者の磁化率はほとんど温度に対して不変であるのに対して,後者の磁化率は絶対温度に反比例して,低温になるほど増大することを発見し,1905年この常磁性磁化率の温度変化は,P.ランジュバンによって分子磁気モーメントが熱振動するという考えで理論的に導かれた。そして,07年P.ワイスは強磁性体では分子磁気モーメントは周囲の分子から強力な分子磁場を受けて互いに平行に配列し,いわゆる自発磁化を形成することを理論的に示した。…
※「キュリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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